”萩尾望都”という現象に出会う前、私はずっと、ぼーっとしていた。
漫画を読んでぼんやりとし、本を読んでぼんやりしていた。人と話しながらぼんやりして、テレビやアニメをじーっと見つめながら、それでもずっとぼんやりしていた。
意識はぼんやり、――茫漠としていたが、書店には足繁く通っていた。そしてその日も私はぼんやりとしながら本棚を眺めていた。そして、”萩尾望都”に出会った。
それまでの生活の中、私の茫漠とした意識の中に、その四文字は存在していなかった。それでも”萩尾望都”は私の元に訪れて、それ以前の私以外のものに、”私”という現象を変化させてしまった。
そういう”私”は、たいていの場合、他人との直接的接触、乃至会話というものによって自身を変化させたという経験持つことがなかった。他人とはただの他人であり、そして私もただの、他人にとっての他人だった。しかし、映画は違った。漫画は違った。小説も、また違っていた。
だから”私”という器は、そういうものに出会うたびに少しずつ変わっていった。それが改善なのか改悪なのかは分からない。しかし私は、何らかの現象に出会い、その出会いによって何らかの感情を得るごとに、自身が少しずつ変わっていたということに気づいていた。
ヒトというものは、眼前に用意されたものをひとつずつ認識し、それが自身と少なからずの関係があるということを少しずつ知っていくことによって、世界の中に存在する自己というものを認識していく。そして、その認識の数や量、質、提供時間の長さ短さ、その他諸々の環境が、ヒトそれぞれに違うということを認識するに及んで、他人との境目を作り、他人と自己という区別を持つに至る。この世に存在する人々すべてが、同じ時間に生まれ、同じ時間を共有し、同じものを見て、同じ考えに至り、同じ行動に出て同じ死に方をするのなら、自己と他人という境は存在しない。
であるからこそ、ただひとつの恣意のみによって決定づけられた大きな有機体のかたまりに過ぎない生き物でないわれわれは、だからこそ個人と他人を分けて、分断や差別や階級を創作することによって、”私はあなたではない”という認識を得、みずからが長い時間を掛けて育ててきた有機体のことを、自身であると認識するに至るのだ。
そして、ヒトという生き物は同時に、「今の自分を作り上げる過程で影響を受けたもの」という”他者”の存在像を認識している。それは各個人、ヒトそれぞれに、両親であったり、友人、知人、恩師、その他歌手や作家や有名人であったりと、何らかの、自己という曖昧かつ鮮明な存在以外のものに憧れ乃至思慕を抱いた経験を持っている。おのれという個体そのもの以外を認識し、触れ合うことで、自己というものは育ち、そして社会という環境においての自己という立ち位置を形成するようになり、その他者との交流や交流の結果得た知見や感情によって、成長過程としての自己像を作っていく。そして、その長年の蓄積の結果が、今現在を生くる我々自身である、と。
”萩尾望都”という現象は、確実に私という個人を形成するための一部を担った。で、あるからこそ私は、”萩尾望都”という現象を、ただの現象として論ずることは難しい。なぜなら、私という個人を少なからず作ってしまった”萩尾望都”というものを語るということは、私自身の過去、”萩尾望都”という現象に出会ったがゆえに変化してしまった過去の自分を顕微鏡で観察し、その融合の結果を丹念に観察しなければならないという過程を踏まなければならなくなるからだ。
”何かを語る”という行為は、その語るべき対象である”何か”を、慎重に観察するということだ。そして”作品を語る”ということは、作品が”語り得なかったこと”や”語り落としたこと”や、そして”あえて語らなかったこと”を、水中から引き出して、お天道さまのもとに引き出してしまうことでもある。語らないことによって燦然と水中に輝いていたものを、ひなたの、何もかもがよく見える場所に晒してしまうという行為に、うつくしいものがあるとはおもえない。しかし、人々は他者を、そして彼らの愛すべき嗜好品を愛するがゆえに、その嗜好品が如何に自分自身にとって”うつくしいものであるか”を語ろうとする。そして、その”語り”のために付加されるもの、それこそが、”個人的見地”であり、”言い換え”であり、”喝破”である、と。しかし、その手順のどれをも選べないとなれば、その嗜好品をめのまえにして、我々は、我々自身の「好きだ」という感情を、一体どのようにして表現すればいいのだろう?
”私”は、だから、萩尾望都に対して大きな言葉を持たない。それは、”私”にとっては、”語るべきもの”は、何も用意されていない。その四文字を見るだけで、”私”には十分なのだ。その四文字がめのまえに現れるだけで、私という個人は安堵し、そしておもう。「萩尾望都が”ある”から、世の中というものは住むに足る場所になった」たったそれだけのことだ。私が”萩尾望都”という現象に感じるおもいというものは、たったそれだけのもの。
ヒトという存在には、ヒトそれぞれに、「帰りたい場所」というものがある。
例えばそれは、彼じしんの体験した幼少期であったりする。もしくは離婚前の美しい思い出や、伴侶が儚くなる前の、いっしょに夜の散歩にでかけた、あの一晩のことかもしれない。ディスコで踊り狂った空の境地かもしれないし、映画館での一瞬写った女優の横顔かもしれないし、母親の胎内から出る瞬間、あるいは体内に存在していた時間かもしれない。輝いていたあの頃、若かった日々、母親の作ってくれた卵焼き、赤いウインナー、美しかった自分の過去の顔、体型、表情……夜ごと人々の心におもいだされて、誰にも共有されることなく消えていく記憶の断片。
ヒトは、そういうものを頭の中にふと思い浮かべる時、無性にその場所に帰りたくなる。そこへ行けば、楽しかったおもいでとともに、懐かしい顔に会える、懐かしい瞬間に会える。そして、その瞬間こそは、たった一瞬のことであったとしても、幸せな瞬間というものを得ていたという絶対的な過去、つまり、自分自身の幸福そのものであったのだ。その頭の中に半永久的にパッケージ化されたものを思い出すたびに、ヒトという生きものは、過剰にセンチメンタルになり、過去に帰りたい、と思うようになる。
そして永遠のこどもである”萩尾望都”は、そういう世界を、紙面のなかに閉じ込めてしまった。そして私たちは、永遠に歳を取らない少女少年や”萩尾望都”とともに、永遠の命を得ることになる。その瞬間、私たちは過去に帰る。懐かしかった感情、苦痛、悲しみ、苦しみ、恍惚、吐き気。そういうものが、”萩尾望都”の手を通して、白いページの上に浮き上がってくる。そしてわれわれはその輝かしい時代に、紙面を眺めることによって帰っていく。なぜ、”萩尾望都”という現象が、私にとって語り得ないものなのか? それは、自分自身のぼんやりとした幼少期と、”萩尾望都”の想像した”黄金時代のための永遠”が、過剰に密接しているからである。
”語り”とは、”切り離す”ことでもある。現象に対して、論者がおもったこと、考えたことを、”現象”に対して語りかける、解きほぐす、敷衍させる、解釈するということは、自己と現象を別個に考え、「論者」から「論点」を引き剥がすということだ。しかし、その論点と論者が密接に密着しすぎていると、今度は両者の融合が起こり、論者は論点とともに、”論者自身”についてを語らなければならないことになる。しかし、”論者自身”について、語るべきことが何もなかったら? 諸元において、その”論者”が”論点”であるところの現象、つまり”萩尾望都”――に接触したのはなぜか? それは、起きながらにして眠りたかったから、ではないのか。私たちは、ねむるようにして”萩尾望都”の世界に入っていく。そして、その世界に入り込んでしまうと、その他に世界というものはなくなってしまう。
永遠の時間を生きる吸血鬼ではなくても、紙面に描かれたものというのは、すべて永遠だ。その元々真っ白だった紙が燃え尽きて、何もなくなってしまったとしても、人々の心のなかに、「紙面に描かれてしまった人々」というのは、永遠の記憶とともに刻まれてしまう。そして、その記憶のなかで、紙面に描かれてしまった人々というものは、永遠の命を得てしまう。好むと好まざるとにかかわらず。”萩尾望都”という現象は、それを知っていたのだろうか? 知っていて、それで、「永遠の命」を持つ「少年たち」の物語を描いたのだろうか。
われわれという有機体は、心臓という器官が鼓動を繰り返す以上、前に進むことを強制させられている。そして、後ろにそれを引き戻すという機能を備え付けられた存在ではないというところから、個人というidは生まれている。だから、人々というものは一様に、過去に帰ることはできない。いつまでも、こどものままで居続けることはできない。しかし、あの黄金時代が懐かしい。そういう過去を、生活という繰り返しの中で、一度だけでも味わった”ヒト”というものの頭の中に、その黄金郷は永遠に燦然としている……われわれはそして、”萩尾望都”という現象が提示した、時の流れない時間のなかに、紙面を通して帰っていく。そしてその白く長く続く紙面の上、コマ割りというちいさな部屋の中で、われわれは永遠の時間を過ごすのだ。
振り子は行きつ戻りつ揺れている。われわれは、同じ円周を永遠に新しく旅しているに過ぎない。(※)
われわれという有機体は、日に日に新しくなり、そして日に日に死に近づいていく。それは、私たちという存在が”生きている”からだ。
まんがや小説の中の人々は、永遠に新しく、永遠に生き続ける。そのフィルムが消滅しても、その小説が版を重ねなくなっても、古い時代のパピルスがたとえ燃え尽きても、それをながめるわれわれという有機体は、常に更新を続け、その”描かれてしまった人々”という存在を、振り子の運動を利用して、”未来”に送り続ける。しかし、”未来”という存在は、決して”描かれてしまった人々”には、永遠に与えられることのないものでもある。そして、そういった未来を引き受けるわれわれという旅する有機体が、それと反対の、「永遠を生きる人々」に対して発言できる言葉というのは、一体どういうものなのだろう?
私たちという不完全な振り子というものは、だから完璧なもの、完璧に擬態したもの、完璧のように見える不完全というものに憧れる。そして、みずからの過去というものは、実のところ確実に、”不完全なもの”であったはずなのだ。そうでなければ、今現在の不完全であるわれわれという自己の存在を説明できないではないか。
完璧ではないという今現在の認識があるにも関わらず、過去の私というものが完全であったはずがない。だから、われわれの「帰りたい」と望む過去という桃源郷そのものも、「過去の私」からすれば、ただの日常、「不完全な私の日常」であったに過ぎない。過去は完璧じゃない。だけど、帰りたい。なぜなら、記憶の中の過去というものは、美しく、幸福で、何も悲しいことなんてなかったからだ……
私たちはそして、目を閉じる。そして夢の中で、「美しかった思い出」を再生しようとする。すると、そこへは永遠の命をあたえられた少女少年が、あなたの黄金時代を、やさしく支えてくれる。私たちはそして、”萩尾望都”という装置を使って、夢の中へ入っていく……
1978年までの”萩尾望都”は、きっとそういう”装置”だったのだろう。
では、その後は?
以下は私が、2018年に萩尾望都の『残酷な神が支配する』(1992-2001)を読んだ時の感想(抜粋)。
ページを閉じれば、いままでめのまえで涙を流していた少年の顔はすっかりいなくなってしまう。本を閉じればそこには部屋があり、ベッドがあり、テレビがあり、パソコンがあったりする。
そこに黒髪の少年は一人もいない。
それにもかかわらず、ページを再び開くと、あの子が泣いたり、傷ついたりしている。それは本を閉じても、ページをめくってしまいさえすれば、半永久的な持続になる。これほどの残酷があるだろうか。このような残酷を、一体だれが望むのか。
きっと萩尾氏は望んでいない。読者(わたしもふくめ)は望んでいるのかもしれないが。
私のめのまえにはパソコンがあり、机があり、テレビがある。その延長線上、線をどこまでもどこまでも伸ばしていった先に、少年の顔がある、背中がある。萩尾氏はそれを、丹念に書き綴ったに過ぎない。実は、神は萩尾氏ではない、読者でもないのだった。
神はどこにもいない。神は人間の作ったものだからだ。
だから神は人間を救ったりしないし、人間も神には救われない。いないものは、いるものに何をすることもできない。
だから物語だけがのこる。物語とは、人間同士が作ったものだからだ。人間はここにいて、呼吸をしているので、存在している。だから存在しているものが物語を物語るとき、そこにもう一人の、もう二人の、もうに三十人の、数珠つなぎの人間関係が続いていくのだ。その単調な、ながったらしいひものような人間関係を、人が脚本し、構成し、演出し、それを文字と絵で表現した。そうしたら、男の子がひどい目に遭って、それをわれわれ「人間」に伝道してしまったので、その物語が、まったく関係のない、一個人の脳みそに叩き込まれる結果になった。たったそれだけのことだ。だから物語は望まれていない。けれど、望まれていなくても生まれてしまうものがある。それは、人間が、物を話し、物を考え、自己を広げ、そのさきにもう一つの自己を産み、育てるという「なりわい」の環の中にいる以上、けっして制御できないものには違いない。だから「うまれてしまう」のだ。生まれてしまったものは仕方がない。赤の他人が、大した理由も無しに殺してしまうことはできない。
『残酷な神が支配する』って、そんな漫画だった。22:20 2018/11/24
”夢”は欲望されたわけではない。そして、”現実”も、欲望されて生まれたものではない。すべては生まれるべくして生まれた。しまうまがしまうまを生むことに、何の”論点”がある?
”萩尾望都”は夢を、そして悪夢を見て/見せていたのかもしれない。そしてその夢のなかでは、我々は「成長しないこと」を条件として、その「夢」のなかに入っていく権利を得た。これから壊れてしまうかもしれない世界とは別の、完全に永遠である「未成長」の世界の中で私たちは暮らし、そしてその暮らしていくさまを、誰かの目が見ていた。残酷な神が支配する……支配されていたのは誰だったのか? 装置そのものか? 私たち自身か? それとも……
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ちなみにボクは『ポーの一族』が読めないからだなので、本はかろうじて持ってますが一二篇しか読んでません。読むと頭がおかしくなりそうになるので(いや、本当に……いっぱいいっぱいになってしまう、頭が)、そーゆー人間がファン面さげて書いてるなめくさった文章なのでまともにとりあわないでください。まーでもようするにそういうこと(欲望の問題)だから、萩尾さんのやり方と竹宮さんのやり方が合わないわけだよね、おしまい。2025.02.22
※……by サマセット・モーム……