太宰治と三島由紀夫の死後対談……ごっこ

 

 

太宰治と三島由紀夫が対談をしています。(ふぃくしょんです。)

 

 

 

 

 

 

太宰「お久しぶり。」
三島「どうも。」
太宰「どうですか。やってますか。」
三島「ぼちぼちですね。」
太宰「最近は春めいて。」
三島「春というのはなんだかどうも厭らしいね。」
太宰「そうかね。」
三島「生ぬるい風なんかが吹いてくると、どうもね。」
太宰「それは分からなくもない。」
三島「太宰さんは、春生れですか。」
太宰「どうして。」
三島「なんとなく。春生れという顔をしている。」
太宰「僕は6月です。」
三島「じゃ、春だ。」
太宰「夏だよ。」
三島「僕は冬。1月。」
太宰「ああ、そういう顔だ。冬という顔をしている。」
三島「太宰さんは、僕が夏生れだといえば、そういう顔をしているというんでしょう。夏生れという顔をしている、どうも暑苦しい顔だ。(笑)」
太宰「そんなことはない。冬という顔をしていますよ。」
三島「ほう。それはどういう顔ですか。」
太宰「夏に憧れているという顔だね。夏に遅れたという顔だ。」
三島「秋に遅れたというのじゃなくて?」
太宰「蝉のようなもんだ。夏に生れるはずが、冬に生れちまった。」
三島「なるほど。言えてますね。」
太宰「僕は6月に生れて6月に死んだ。三島さんは?」
三島「僕は11月ですよ。11月25日。」
太宰「だいぶ評判になったそうで。」
三島「えらくバッシングされたようですよ。僕はよく知らないけど。」
太宰「それは同じだ。僕も同じようなもの。」
三島「お互い苦労しますな。」
太宰「本当に。」
三島「…………」
太宰「…………」
太宰「僕はつくづく、他人に自己同化されるというのに疲れ切ってね。」
三島「それがあなたの手法だったのだから、それは仕方がない。羨ましいですよ。僕にもそういうものがあれば、いくらかは違ったんじゃないかと思いますね。」
太宰「俺は別に、人間の代弁者でございなどと思ったことはない。」
三島「それが太宰さんでしょう。それだからいいんだ。」
太宰「君は生れ変ったら、どんなものになりたい? 僕は二度と人間というのはごめんなんだ。」
三島「太宰さんが人間に生れなかったら仕方がない。太宰さんがカメレオンに生れ変わったとしても、誰も喜びませんよ。やはりもう一度やってもらわないと。」
太宰「人間を?」
三島「人間を。」
太宰「嫌だね。絶対に、嫌だ。」
三島「しかし太宰さんが人間以外になっちゃあ仕方がない。これは不可能です。あなたには人間以外には仕様のない者に違いないよ。そうに違いないんだから。」
太宰「君はどうやら人間というものにはならないほうがよさそうだ。」
三島「僕はどんなものに生れ変ったら良いとお考えですか。」
太宰「まあ、桟敷とか、そんなもんだろうね。あるいは河原の小石。」
三島「無機物か。それはいいな。」
太宰「とにかく、人間というのは疲れるよ。とにかく考えることが多すぎる。」
三島「その点無機物ならば考える必要はない。」
太宰「石の思考というのもあるかもしれないよ。木にも感情はあるというし。」
三島「それでは感情からは逃れられない。石になっても桟敷になってもむだですね。」
太宰「時々、誰の人生を生きているのか分からなくなることがあった。」
三島「死んでからもそのようなこと、考えますか。」
太宰「そうだね。とにかくひまがあるものだから。」
三島「生きているときは目の回るような忙しさだったけど。」
太宰「そうだね。妙に忙しぶってたね。あれは何だったんだろう。」
三島「テニスの試合と同じじゃないですか。ボールが来るから打ち返していただけ。」
太宰「君もそうなの?」
三島「僕は太宰さんとは違いますよ。」
太宰「僕は時々、雑誌なんかで君の書いたものを読んでいましたよ。」
三島「それは、どうも。」
太宰「非常に、演繹的だね。」
三島「それは意識していた。しかし、そこから人物が飛び出す瞬間というのを、僕は待っていたんですよ。」
太宰「しかしその時は遂に訪れなかった。」
三島「太宰さんにはそう見えましたか。」
太宰「僕は一寸法師だったんだな。」
三島「そうでしょうね。」
太宰「一寸法師の踊りでご機嫌を伺ってね。みなさんの仲間に入れてもらおうとしていた。さもしい人生でしたよ。」
三島「そんなことはない。」
太宰「三島さんはどんなものに憧れましたか。」
三島「想像の余地を残してくれるもの。逃げ水のようなもの。」
太宰「一緒だ。」
三島「何が。」
太宰「僕と一緒。」
三島「それは違うだろう。あなたの憧れていたものは、自分のおもいどおりにならないものだ。そうでしょう。」
太宰「そうかもしれない。」
三島「みんなあんたの思い通りになるから、なんにも面白くない。そうですね。」
太宰「そうかもしれない。」
三島「死さえも……。」
太宰「それは違う。あなた、それは違いますよ。」
三島「私は、日本風にべしゃべしゃしているものは嫌いでね。どうも性分に合わないんですよ。」
太宰「それは君、エゴですよ。」
三島「エゴですか。」
太宰「性分から離れよう、離れようとしている。だけどおのれの性分というものは、結局言動から臭ってくるものだ。無意識です。無意識の臭い。」
三島「臭いますか?」
太宰「臭うというか、脱臭だね。君のものは……非常に脱臭的なんだな。」
三島「臭い消しをしていますか。」
太宰「しているね。」
三島「私に言わせれば、太宰さんのは無理矢理に臭いをつけているようだ。即席のね。」
太宰「それは非常に分かる。」
三島「それが僕には非常に鼻につく。どうも身分違いの女が、無理をして月給以上の香水をつけているかのようなね。」
太宰「僕はその逆をしていると言いたいんだろう。」
三島「迎合することはないでしょう。堂々としていればいいんだ。」
太宰「僕は怖いんだよ。仲間はずれにされることが。」
三島「だからって馬鹿踊りをすることはない。」
太宰「君は仲間に入るのがうまいね。餌を撒くのが実に巧妙で。」
三島「餌とは、よかったな。」
太宰「やはり君は石に生れ変ったらいいようだ。」
三島「石は石でもただの石ころというのは閉口だな。御影石なんかならいいけど。」
太宰「路傍の石は嫌かね。」
三島「性分ではありませんね。」
太宰「………………」
三島「………………」
太宰「時々、言葉でしか自分を表現できないというのが嫌になる。」
三島「それが人間というものですからね。言葉と言葉によって分かり合う。」
太宰「肉体性というのが、希薄なんだな。」
三島「太宰さんほど肉体的であった作家はいない。」
太宰「どこが。そんなふうに思ったことは一度もない。」
三島「肉体を置き去りにして精神の世界にこころを遊ばせるというのは、肉体の体験なしではいられない。太宰さんは、実に己の肉体というもので十全に快楽を得ていたと言っていい。」
太宰「肉体なんてものは、無けりゃ無いで一番いいんだ。」
三島「そんなことはない。脳は肉体ですよ。我々は肉体を使って物を考えているんだ。それをないがしろにしちゃいけない。」
太宰「頭でっかちでね。何んにもいいことはなかったですよ。」
三島「太宰さんは、体のほうは丈夫でしたか。」
太宰「母は病弱な方でしたけど。」
三島「私はあまり丈夫な方ではなくてね。」
太宰「ああ、それは、分かる。」
三島「太宰さんは、私が固執するものを、すでに持っているんだな。それを平気で投げ捨てるようなことをするから、癇に障るんですよ。」
太宰「それは君だけに始まった話じゃない。みんなそうですよ。みんな。」
三島「宝石を投げ砕き散らかすようなものだからね。本人にはガベージだったとしても、捨てる神あれば拾う神ありと言ってね。(笑)」
太宰「俺のことなんか、誰も分かってくれない。」
三島「そんなことはない。」
太宰「三島さんは演劇の何が好きですか。」
三島「虚構性ですね。そして、そこに通り抜ける真実というのは、演劇という暗闇の中でしか成せないものです。」
太宰「だから君は、石ころだと言うんだなあ。」
三島「まあ、一献。」
太宰「いただきます。(盃で受ける)」
三島「僕はオレンジジュースですけど。」
太宰「何んでもいいよ。甘いものは好きですか。」
三島「羊羹なんか、好きでしたね。」
太宰「酒が入らないというのは、どこか不安になりますね。」
三島「脳内で酒を製造できるようにならなきゃ。」
太宰「そりゃ、いい。それは素晴らしいですよ。」
三島「金がかからなくていい。(笑)」
太宰「虚構性ですよね。あなたの書くものはみんなそう。」
三島「自分としてはリアリズムのつもりなのですがね。」
太宰「人間じゃないね。」
三島「誰が?」
太宰「糸が見えるなあ。実に。チョキンとその透明な糸を切ってしまいたくなるね。」
三島「なるほど。」
太宰「僕は、君なんかはもっと正直になったらいいのにとおもっていた。」
三島「僕は丸裸でしたよ。」
太宰「いや、肉襦袢だね。」
三島「なるほどね。」
太宰「さっき君は、僕を肉体的な作家だと言ったけど。」
三島「言いました。」
太宰「実際、おれは肉体でしかなかった。」
三島「分かります。」
太宰「肉体を与えれば、俺は歓迎された。」
三島「分かりますよ。」
太宰「君は、他人に肉体を捧げたことがある?」
三島「そういえば、ありませんでしたね。」
太宰「君はおのれの肉体を自慢にしていたようだけど。」
三島「いやァ……、あんなのは、虚仮威しでね。」
太宰「だがその気持は、分かる。」
三島「なんだか二人して分かり合いごっこばかりしていて、しょうがないようだが。(笑)」
太宰「おれはおのれの肉体というのは、捨てなきゃどうしようもないものだとおもっていてね。それで何度か挑戦したんですよ。」
三島「あれも虚仮威しですね。」
太宰「そのとおり。」
三島「私は自分の体が嫌いでしたよ。骨と皮ばかりでね。」
太宰「俺はその程度でも別にいいという人がいたから、そのままだった。肉体は武器でしたよ、あなた。」
三島「ほら、やっぱり、太宰さんは肉体派だ。」
太宰「そうかもしれない。」
三島「僕が太宰さんの体を持っていたとしたら、まさかあんなことにはならなかったかもしれませんよ。」
太宰「まあいいだろう。君は徒花として散るが美しいというのでいいんじゃないですか。」
三島「徒花?」
太宰「君も僕も、道化の華だったとおもう。」
三島「ああ、嫌だ、嫌だ。」
太宰「肉襦袢色の花として、華麗に散ったじゃないですか。」
三島「太宰さんは、人生で、何がしたかったですか。」
太宰「僕は好きな人に認められたかった。もう堪忍して下さい、これ以上小説は書かないで下さいと言われたかったんだ。」
三島「だけど、誰も言ってくれなかった。」
太宰「そうなんだ。」
三島「どうでもいいことだけが評価されてね。」
太宰「そうなんだ。」
三島「どうでもいいことの詰め合わせみたいになって。」
太宰「そうなんだよ。」
三島「お歳暮みたいなね。これはどこに回そうかな、なんて。(笑)」
太宰「そうなんだよ!」
三島「そんなことの繰り返しでね。遂に一編も満足の行く小説なんて書き上げられなかった。余計なことをしすぎたんですよ。」
太宰「僕なんかは、特にそうだね。」
三島「太宰さんは違うよ。立派でしたよ。」
太宰「僕なんか書き散らしですよ。芥川さんの一編の価値もない。」
三島「それは太宰さんが決めることじゃない。もしもそんな評価をご自身の作品に持っていらっしゃるのならば、それは間違ってますよ。」
太宰「どこが?」
三島「作者の手を離れて雑誌に載れば、それは作者だけのものじゃない。太宰さんには百万の読者が居たじゃありませんか。」
太宰「そうだ。おれは、大衆だ。大衆はおれなんだ。」
三島「太宰さんは消えちゃった。」
太宰「そうなんだ。」
三島「でも作家としては本望じゃないですか。」
太宰「おれは幸福が欲しかったんじゃない。喜びが欲しかった。」
三島「お坊ちゃんではどうしようもない。我儘な人です、あなたは。」
太宰「三島さんは大衆ですか。それとも先導者ですか。」
三島「どちらでもありません。」
太宰「では、影?」
三島「影であり、全体への奉仕者でもある。」
太宰「奉仕者は、よかったな。」
三島「私は還元の循環の中に入りたかった。」
太宰「ああ、なんとなく、分かるな。」
三島「私だって、大衆の中に紛れ込みたいという願望はあった。」
太宰「ああ、それは嘘だな。私に嘘をついても意味はありませんよ。」
三島「嘘じゃない。」
太宰「じゃあ、演出だ。演出を掛けている。」
三島「自分の言動に?」
太宰「そう。」
三島「でも、少なからず人というのは、言動に虚言を混ぜるものじゃないかな。その按配のさじ加減の程度はあるだろうが。」
太宰「君はそれが過剰だと言うんですよ。」
三島「海老天の衣のようなものだな。あれはうどんのつゆなんかにつけるともろもろになって、増えれば増えるほど、実は旨い。(笑)」
太宰「衣を面白がっている連中ばかりだ。そうじゃありませんか。あなたの読者は。」
三島「なるほど。」
太宰「だかその分厚い衣を剥がしてみると、ひょろひょろの紐みたいなえびしか出てこない。(笑)」
三島「そうです、もともとは骨と皮ですから。」
太宰「開き直ることはない。」
三島「太宰さんは墓掘り職人ですね。しゃれこうべなんか持ったりしてね、ハムレットに掲げてみせる。(笑)私はあなたよりも遥かに下部の存在でございと白塗りに顔を塗ってみたりしてね。その実、常に腹はくちているし、ポケットの中には銀貨がゴロゴロ、家に帰ればかみさんと、それから別宅に行けば甘やかしてくれる女給上がりの女なんかが居てね。」
太宰「虚言、虚構、虚飾ですな。」
三島「ほんとうに。」
太宰「…………」
三島「…………」
太宰「実際に…………」
三島「エビを食いに来たんじゃないんだな。みんな、衣を食いに来てるんだよ。」
太宰「そのとおり。」
三島「エビなんか、実際旨くもなんともないですよ。」
太宰「そうだね。実際旨くないね。うどんの汁に染みた天かすなんかのほうが、よっぽど旨い。」
三島「実際、僕は、衣食いに飽きたのかもしれないな。いつまでも、そんなことを続けていたところでね。」
太宰「そんなことはない。続けていれば、また違う世界が見えてきていたかもしれませんよ。」
三島「太宰さんは、そんなものを見たかったですか?」
太宰「…………」
三島「やってください。どんどん。(徳利を傾ける)」
太宰「ありがとう。(盃を干す)」
三島「僕は、太宰さんの書いたものを読むと、過去に置いてきた自分の姿をおもいだすようでね。実にやりきれませんでしたよ。」
太宰「そうだ。君は実に、おれによく似ている。」
三島「追従笑いなんかしてね。あの顔が、憎らしいんだなあ。」
太宰「本人をめのまえにして何も言うことはない。」
三島「まあ、こんな機会も二度とないでしょうから。失礼な言い方をして、ごめんなさい?」
太宰「謝るくらいなら言わなきゃいいんだ。」
三島「へらへらしやがって、とかね。僕も若い頃だから、変に……どうも、太宰さんが軟派に見えてね。」
太宰「実際軟派だから。」
三島「俺もまかり間違えば……とおもうと、太宰さんの本は怖くて読めなかった。」
太宰「実際におすすめしないね。ああいうものは。大衆迎合ですよ。芸なんかじゃない。」
三島「右や左の旦那様。」
太宰「因果なもんですな。」
三島「太宰さんの文章は、水のようですね。良い酒は水に似るというが。」
太宰「それで実際に酒だと称して水を飲ませるんだろう。いい酒が手に入ったと言って。」
三島「あはは。」
太宰「君の文章は……なにか、石に彫刻しているようなものだね。チクチクと時間を掛けて。ああいったものは、やりがいがあるだろうねえ。」
三島「そんなに悠長なことをやっていたら、あれほどの量は書けはしない。やはりそれもハッタリでね。」
太宰「自分たちのものを貶し合ってちゃあ世話はない。」
三島「だがやはり、僕は太宰さんのようなものは書かないし、書けないとおもう。僕はありのままの生れただけの人間というのが信じられないから。私たちは津島修治が太宰治になって、平岡公威が三島由紀夫になった。そうでしょう。」
太宰「平井太郎からの江戸川乱歩とは、少し調子が違うわけだ。」
三島「全く違いますね。あれは変身ですね。」
太宰「我々のは何だろう。蝶への変態ですか。」
三島「肉襦袢でしょう。」
太宰「よかった、なんとかまとまった。(笑)」

 

 おわり。

好きなピアノの曲:DJ ごっこする

 

 

 やさしいピアノを弾く人が好きなんですよね。
 これはニュアンスの問題じゃなくて、タッチの話。やさしいタッチでピアノを弾く人の演奏が、好きです。
 私自身は楽器の演奏はからきしなんですが、聴くのは本当に好きで。
 ピアノ弾きの人が、「真珠を転がすように弾くときれいに弾けるんだよ」なんて話をしているのを聴くと、あー、別世界の人のうつくしいお話だなあ、とおもう。
 だから、真珠を転がすようにピアノを弾く人の演奏が、好きなのです。
 私、一番はじめに好きになったクラシック音楽ってのが、ショパンの『英雄ポロネーズ』だったんですね。
 まあこれは「優しい」とは正反対の、激しい曲ですけど、この曲が、あるアニメーションのワンシーンで使われていたんですね。すぐにこうやってアニメーションの話になっちゃって悪いんですけど、それを聴いて、ガーンと来まして。「なんだこのかっこいい曲は!」と。それで、生まれ変わったら、ショパンの『英雄ポロネーズ』が上手く弾ける人になりたいなあとおもっていたのでした。
 『英雄ポロネーズ』はそれこそいろいろなピアニストの方が弾いていらっしゃって、色々と聴いてましたけど、中には「ガン! ガンガンガン!」って弾いていく人もいるんですね、この曲を。激しさをともなった曲だし、それもいいんですけど、耳には良く響かないなっておもっていたとき、ふとラジオから、すごくやさしいタッチの、ふわっとした『英雄ポロネーズ』が流れてきたんです。
 わー、とかおもいまして。


 『英雄ポロネーズ』って、こんなにやわらかく流れるように弾けるんだ、ということにびっくりしたんですよね。音の置き方がやさしいんですね。それこそ「真珠を転がすような」弾き方なんです。「おれの演奏を聞け!」というよりは、「ここに音楽がある」って弾き方なんですよね。決して押し付けがましくないけど、そこに在る、ってかんじの弾き方。
 誰がこんな演奏をするんだろう、とおもって、ラジオの前で耳を凝らしていました。
 演奏が終わったあと、ラジオDJ の方が、その演奏者の名前を読み上げてくれました。


 だから今、私はその演奏者の名前の入ったアルバムを買って、いつでも好きなときに、その方の演奏する『英雄ポロネーズ』が聴けるというわけなのでした。もしかしたら、情熱を持ってこの曲を弾いてほしい! とおもう視聴者にとっては物足りないかもしれないけど、私は好きですねー。


 「やさしいピアノ」の聴ける音楽としては、もう一曲。
 私、斉藤由貴という人の、1985年から1992年くらいにかけて醸し出していた雰囲気が好きなんですよね。今から話す曲は、1986年のLP『ガラスの鼓動』に入っている最後の曲なんですけど。この曲はねー、バックはピアノだけで、そこに斉藤由貴の深刻な歌声が乗る、シンプルなバラードなんですね。そしてなんとなんと、この曲の編曲をやってるのが、谷山浩子さんなんですねー。
 谷山さんは言わずと知れた天才シンガーソングライターさんですけど、この曲のバックでピアノを弾いてるのが、谷山浩子さんなんですよね。(ディレクターの長岡さんが斉藤由貴CD-BOXのライナーノーツで言ってた)


 このピアノが、いいんですよねー。なんとも柔らかくて悲しくてきれいで。まさに「真珠を転がすような」響きで。
 ちなみにこの「真珠を転がすような」という表現も、谷山浩子さんが昔言っていた表現です。彼女の書いた童話やなんかに、出てくるんだよねー。
 夜中、深刻な気持ちになりたい時に、聴いてみると楽しい曲です。自分の人生が深刻になっている時は聴けないかも知れないけど、「深刻ごっこ」をしたいときなんか、いいんじゃないかな。午前二時の、夜中のティータイムに聴いてみてください。季節は秋の夜長なんかがよろしいんじゃないでしょうか。

 

 というわけで、二曲続けて聴いてください。
 エリザベート・レオンスカヤで『ポロネー ズ 第6番 変イ長調 作品53《英雄》』
 斉藤由貴で、『今だけの真実』

 

 DJごっこでした!

 

栞が上手く使えない! の巻:読書にまつわるエトセトラ

 

 

 相変わらず、読書ざんまいのまいにちです。私は年間において常人の4倍YouTubeを見ていますが(去年の年末にYouTube側からそういう統計みたいなのが表示(?)されて、そこにそう書いてあった)、本は人の平均かちょっと下くらいの感覚で読んでます。年々物語の本を読むのがきびしくなってきていて(世界になかなか入っていけない)、ノンフィクションの本とか歴史の本とか旅行の本ばっか読んでます。


 というわけで今回の主題は、「栞」。
     栞……これが問題だ。

 

 私は、飽き性です。かなりの。熱しやすく冷めやすいを地でいくので、三か月前に熱中していたことが今ではどこへやら、シリーズものの連ドラとか、連続アニメなんかのたぐいを完走することがなかなかできない。完走するまえに飽きてしまうから。であるからして私の信条としては、「鉄は熱いうちに打て」ということなのですが、まあ「飽き性」の話はこの程度として。


 問題は、本なのです。本を一冊、最初から最後まで、別の本に浮気しないで読みつぐというのが、私には不可能なのよ。
 というわけで、読書する前という段になれば、生活のいろいろなごたごたを済ませ、ご飯を食べ、コーヒーを淹れ、さあ読書の時間だ、となったときに、私の手元には、少なくとも十冊の本が用意されることになる。
 まず、一冊、そのなかから、もっとも気になっている本を手にとる。出版社と値段と著者と発行年を確認し、「なるほどこの出版社でこの値段でこの発行年か、勉強したな(=訳:値段設定を頑張っているな)」とか、「この出版社でこの内容でこの値段って強気すぎる」とか、「この発行年でこの薄さでこの値段ってどういうこと? あ、〇〇書房でしたか、失礼しました」とかやってひととおり一人遊びしたところで、本編を読む。
 私はだいたいそれで、30ページくらい読むと、他の本に目移りしてしまう。そして、ここで問題なのが、……「栞」、なんです。(この文章を書く前に新井素子サンのエッセイの本を読んでいるので口調が移ってます)


 栞って、どんなものを使いますか?
 本にもともと挟んであったものを使うってのが大半だとおもう。あとはスピンがついている本なら、それで完結するからありがたいけども、スピンのついてる本って最近の本ではなかなかないですね。
 あとは手作りの栞とか。買った栞ってのもいいだろうし、クリップ式の栞なんかもありますよね。ね。栞というのは読書のたのしみのひとつでもあるし、凝ればけっこう楽しいもので、私も自分で栞を作ったり、買い集めたりする時期もありました。
 しかしここで今再び問題が発生する。
 私は、栞をなくす天才なのである。


 栞って、目を離すと消えてません? 椅子に座って本を読んでいて、ふと本を閉じて立ち上がろうとすると、そばに置いてあった栞がない。立ち上がってそこらじゅうをかき回すけど、栞はどこからも出てこない。こーゆー非効率的な動作で、私は、人生の貴重な時間のどれほどを浪費したかしれない。
 いきおい、そばにあるなんらかの「栞代わり」になるものを探すことになる。そういう場合……あー、ほんとに、本好きの人には人非人あつかいしていただいてかまわないのだが、あんまりよろしくないものを挟んでしまうんですよね。
 ちかくにあるペンとか。(こういうことをするせいで、いざメモを取ろうと思ってペンを探しても、本の中に挟まっているせいで見つけられないという悪循環を繰り返す)
 あるいは、ティッシュ……とかね。(ティッシュボックスから新しいのを引き出す)
 あるいはちらしを短冊状に引き裂いたものとか……(あああ……)
 あと、多いのがレシートの類。最後の手段は……本の角に耳を折るとかね。(これは自分の買った本にだけやろう!)
 本を四冊、五冊、六冊と並行して読むという悪癖(?)と、栞を異常になくすという習性のせいで、私はいつも「栞びんぼう」で、本を閉じるたびに挟むものを探すという小旅行に出てしまうため、ただでさえ効率的に行動できない私の行動は益々愚鈍の体を極め、読書自体もままならないという日々を繰り返してきたのだった。
 しかし、今日、すべての過去の私の問題を解消できる、すばらしい「栞」に、私は出会ってしまったのです!!(ババーン)

 

 それは……
 紙の付箋、だっ!!!

 

 弱粘着性のある付箋を、机のうえに用意する。
 コーヒーを淹れ、椅子にもたれかかる。ここで一息。
 コーヒーを飲む。おもむろに本を開く。十分経過。飽きる。ここで私がいざ取り出したるもの……
 ポストイット! もう、僕の相棒は、これしかないっ!!
 栞代わりに、付箋を付着させる。ここ、あとでメモしたい、という箇所が出てきたら、そこにも貼っておく。
 次の本を開く。十分経過。飽きる。新しい付箋を取り出だし、貼り付ける。本を閉じる。本を開く。飽きる、付箋を貼る、本を閉じる……
 これ、完璧じゃありませんか!?
 そんな簡単なことすぐに思いつかなくてどうするって言われても……(見えない敵)まあ一応すみませんと言っておきます。
 ここからさき浮上するに違いない問題は、私が付箋自体をなくしてしまうということですね。所定の位置に戻せばいいってことは分ってんだけど……それができてたらこんな苦労してないんだ。
 しばらく私は付箋という栞とともに、読書時間を遊び抜こうとおもっております!
 現場からは以上です!

 

「お客」とか「お医者」って言葉が好きすぎる 2026.03.07

 

 

 まーたくだらないことを書こうとしているが、許してください。いや許さなくてもいいです。タイトルのまんまの話です。
 「お客」とか「お医者」って言葉は、どうしてこんなに良い響きなんだろう。
 ここで「お客さん」とか「お客様」とか「客」とかになってしまったら、たちまち魅力が半減する。「お医者さん(普通過ぎる)」「お医者様(へりくだりすぎ)」、「医者(ただの単語)」そこへ来て……
 「お客」! 「お医者」!


 敬っているのだか呼び棄てているのだかよくわからない。「お=御」をつけているのだから、一応敬ってはいるはずなんだけど、現代の日常遣いの言葉としては、どこか尻尾が足りてないという印象がある。たとえば、
「昨日来たお客のこと、覚えてる? あれ最悪だったよね」
「昨日来た客のこと覚えてる? あれ最悪だったよね」
 という二通りの台詞があるとして、もしもこの台詞に校正者がついたとしたら、前者の台詞の「お客」の「お」の部分の上に“はてな”か何かがついても不思議じゃないんじゃないか。(この“お”って、かならず必要ですか?)


 そして「お医者」。この語がとにかくたまらん。「お医者」のどこか不遜で愛らしい響きを音声によって聴こうと思ったら、ぜひおすすめしたいアニメーションがあります。もちろん『母をたずねて三千里』です。主人公のマルコ・ロッシくんのお父さんはある病院の事務方で、マルコ・ロッシくんと「お医者」の関係はそれだから深い。そしてこのマルコ・ロッシくんは、その「お医者様(ちなみに『アルプスの少女ハイジ』のハイジはドクトルのことを「お医者様」と呼びます)」のことを、「お医者!」と呼び棄てるのであります。
 そう、「お客」や「お医者」の声に出して気持ちいいところは、「御」をつけてその語を敬いつつも、平気でそのあと敬った対象を呼び棄てるというウルトラCな「投げっぱなし」の妙を、このひとつの単語によって十全に味わえる点にあるのです。


 というわけで、「お客」や「お医者」という呼び方は、積極的に日常遣いしていきたいですね。
「昨日お医者に行ってきたんだけどさー、その対応がひどかったんだよね」とか。「あーあ、今月もお医者に診てもらわないと、もう薬無くなっちゃったしなあ……」とか。
「お医者」! ……いいね。(なにがなんだか……)
 ちなみに「お客」という語の使用例は谷山浩子サンの神妙な曲、『草の仮面』なんかを聴くと、聞けます。
 おわり。2026.03.07

 

キライな言葉 2026.03.07

 

 

    少女、とか、少年、という言葉が、ウー、嫌いです。
 理由は、特にてらったような理由はないんですけど。
 老人、とか中年、とかいう言葉もあんまり好きじゃない。「青年」は好きだな。わざとらしいし、かなり露悪的だから。(ほとんどイヤガラセに近い言葉だと思う)寺山修司はちなみに、青年、の反対語に「青女」なる語を採用しようとしていましたが。
 少女とか少年という語が嫌なのは、それはもちろん「少女」とか「少年」という状態の人間が、幼い現在進行形である自身の少女性とか少年性を嫌悪しているにもかかわらず、その少女性とか少年性のレッテルを彼らに貼ろうとするのが、少女少年以外の人間であるというのにつきます。ねっ、普通の理由でしょ!!


 もしも「少女」とか呼び慣らされてもよい年齢帯の人間が、自身の少女性なるものに対して有る種の陶酔やナルシシズムを抱いているのだとしたら、その時点でその“少女”のなかには自身をなんらかの檻の中にカテゴライズして眺めるというマゾヒズムが発生することになる。その時点で、彼女の中の“少女性”なるものはガイコツと化し、彼女は少女でありながらすでにして老婆になり果ててしまうのである。
 世の中の少女少年だった人間がすべてそうだとは断言しないが、しかし少女少年というのはその少女少年時代に、「はやく大人になりたい」と考えている。


 自身の未熟であるということがある瞬間から憎くなるのである。だからその瞬間が訪れると、彼女たちは大人から与えられるもの、あるいは課せられている何らかの“虚像”を否定しようとする。そしてその瞬間から彼女たちは、「大人たちが理解しやすい少女少年性」を有していた時代の自分を否定したりする。だけど、身近な大人にとっては、そのような少女少年性を有していた頃の彼女たちの姿が懐かしい。学ある人はその変化を「自我のめばえ」とか表現するのかもしれないけど、自我というか、やっぱり、急に嫌になるのだ。自分がこどもでしかないということ自体が。
 それなのに、「少女少年」という言葉は絶対的にこの世からなくなったりなんかしないし、ある種のイデア像的利用のために、その語は「少女少年」ではなくなった人々によって、様々な理想を被せられてロマンチックに使用される。その使用者の頭の中にあるロマンチックな理想が、私は、苦手なんですよねー。
 まあ、私が、碌な少女少年期を過ごしてないってだけなのかもしれないけど。もしかしたら他者の少女少年期には、大人の想像する思春期(映画『小さな恋のメロディ』に代表されるような)があるのかもしれないけど。
 別に、フィクションとしてそういった創造のために少女少年という言葉が使われるのは悪いことではなく、ごく自然なことだとおもう。それでなければロミオとジュリエットなんて存在するはずもないもの。(うーん……)


 少女少年という言葉には幻想がつきまといやすく、だからこそ便利に誰でも使用してきたし、その使用によって幻想の(あるいは、失われた、得られるべきだった特権を疑似的に取り戻す)少女少年時代を慰めるという慰霊に似たものを獲得できるというのは分かるし、私もそれに与するものだという自覚があるから、大人の幻想としての少女少年像をはじめから抱こうとするな、なんて潔癖な発言をしようとはおもわない。けれどやっぱりそのような使用を目にするたびに、私の中のむくわれなかった「少女少年」時代の私が、「今の私の幼い苦しみが、お前ら中年に分かってたまるか!」とすごい顔をして怒るので、やっぱり「少女少年」という言葉は、注意深く使っていかなければいけない危険な単語だな……とおもう次第です。
 おしまい。2026.03.07

 

ぬいぐるみに関する短い話

 

 

 ぬいぐるみを、買った。
 「こぐまのトンピー」シリーズもぬいぐるみにふくめるとしたら、8人。8匹。ぬいぐるみってどう数えるんだ。8個? 半年前くらいに生成された(私の手で)フェルトでつくったぺったんこの「アメデオ」(『母をたずねて三千里』にでてくるさる)もふくめたら9体。9人? のぬいぐるみが部屋の中にいる。
 でもじつは最初から部屋の中にはいくにんかのぬいぐるみがいた。昔もらったぬいぐるみとか、買ってもらったぬいぐるみがおしいれのなかに居たり、棚の上で静かにしていたりする。私はそれらのぬいぐるみたちにじゃっかん罪悪感があったので(なにもしないで放置しているから)、「いまさらぬいぐるみを増やすというのはどうなんだろうか……」とおもってしばらく躊躇していたが、気づいたら指が注文決済をすませていて、それで部屋の中にはあたらしいぬいぐるみたちが9個、うーん9匹? 9パーソン? いるということになってしまった。
 これは日記なので主題などは別に必要とされないしそういうことはどうでもいいんであるが、だらだらと書いても仕方がないので今回はぬいぐるみに対する罪悪感ということでやってみたいとおもう。まあこれも”感受性の過剰”(三島由紀夫)の一部なんだけど。まあいいじゃん日記くらい好きに書かせて……


 はじめて買ってもらったぬいぐるみのことは覚えていないが、はじめて「貰った」ぬいぐるみのことは覚えている。貰ったというかぶんどったというか、景品としてもらったというかなんというか……
 私が未就学児ないし小学校低学年くらいのある年の夏、近所の公園でおまつりがあった。そしてそこではわなげが開催されていて、そのぬいぐるみは「わなげの景品」だったんである。
 それはふとったりすのぬいぐるみだった。私はそれを、絶対に持って帰る! とおもった。かかりのおねいさんもちびの私にわなげを入れやすいようにぬいぐるみを近くに寄せてくれたがそれでも私はその“わ”をぬいぐるみにひっかけることができなかった。
 何度か挑戦してもけっきょくだめだったので私はふてくされたに違いなかった(今も昔もわがまま放題で生きているため)。私のその態度を見て、わなげが成功しなかったのにもかかわらず、おねいさんはそのぬいぐるみを私にくれたんである。
 しかし私というかなり不遜なガキは、おねいさんがそのぬいぐるみを床の上にドン! と強く置いたことが気に食わなくて、「そんな置き方したらぬいぐるみがかわいそうだろ」とかおもっていた。このガキ、ほんとに親切の掛け甲斐のない人間ですわ。おねいさん親切にしてくださったのにあのときはほんとうにすみませんでした。
 私は安易なのでそのりすに「りすちゃん」と名付けずっといっしょにいた。今はいっしょにはいないけど、ガラスケースのなかに仕舞われて静かにしている。


 それからのぬいぐるみ経験は、新井素子大先生なんかと比べるとかなり希薄で、水族館などに出かけた際買ってもらったシロイルカかなにかのぬいぐるみとか、ぺんぎんのぬいぐるみとかの覚えはあるけど、年を重ねるに連れ、ぬいぐるみとの交流は徐々になくなっていった。別に生活にぬいぐるみは必要じゃなかったし、欲しいともおもわなかった。
 次に私が「ぬいぐるみ」と接近遭遇したのは新井素子という作家を介してだった。そう、私がうまれてからいちばんはじめに読んだ新井素子の本は、『くますけといっしょに』(1991)だったんである!
 私は本を読んで、あきれた。(ファンの人すみません。でも私ははじめからいきなり新井素子のことを好きになったわけじゃなかったのです。いまでは新井素子の強火のファンです!)いったいどんな人間なんだろうこの人は。どういう常識のもとで育ったらこのようなことになるのか。その頃の私にとって新井素子は宇宙人だった。しかし新井素子に長ずるにつれて(意味=新井素子に慣れ親しんでいくにつれて)、新井素子のぬいぐるみに対する態度は、少しずつ私の中にインストールされていき、全然宇宙人ともおもわなくなった。むしろ、「新井さんのぬいぐるに対する態度はかなり、自然主義的だな」とおもうようになった。
 おそるべし、ぬいぐるみ屋敷の女王! 新井さんは「ぬいぐるみのわにわに(わにのぬいぐるみ)」を主人公にして二冊もの本を上梓できるほどの「ヌイグルマー」なんであった。(あなた、ぬいぐるみを主人公にして文庫本二冊書けますか?)
 だがしかしそれでもまだまだ私はぬいぐるみとは縁遠い人間だった。大体から私は物体や立体が嫌いなんである。なんでもかんでも平面が好きなのだ。


 そんなはずだったのに、今年の春に一気にぬいぐるみが8人も部屋にやってきてしまった。なんでか? というとそれは『山ねずみロッキーチャック』というアニメのせいで、そこへ出て来る動物たちがあんまりにもかわいいので、「ぐぐぐ……」となって動物のことについてばかり呟いていたら、SNSで吉徳のぬいぐるみだのこぐまのトンピーだのが続々とタイムラインに出てくるようになった。「もうだめだ、ぬいぐるみを買えと電波が言っている」とおもったがそれでも私はちゅうちょしていた。なんでかというとぬいぐるみというのには完全な死というものがないから。持ち主が死んでもぬいぐるみは残る。「私が死んだ後にこのぬいぐるみたちはどうなるのだろう。死んだ後に責任が持てない」とおもって、ぬいぐるみを“買う”まえにお焚き上げの心配をしていた。だがけっきょく衝動には勝てず、部屋の中には吉徳のぬいぐるみ三人と、サン・アローさんのところのぬいぐるみがひとり、そしてりぶはあとさんのところの抱き枕ぬいぐるみが二人。それからこぐまのトンピーとさんぶんのにちゃんと、それから私の作ったぺったんこのアメデオがいる。(アメデオ、写真写り悪いのよー黒目を大きく作りすぎてしまったのよね……)


 ぬいぐるみたちはもう私の部屋に来てしまったのであともどりができなくて申し訳ない気持ちでいる。私よりかはもっとちゃんと「対象年齢」に合ったこどもたちのいる広い清潔な部屋に行ったほうがどんなにぬいぐるみのためになっただろうとおもうとそれだけで泣けてくるが(なんか春なので情緒が……)、とりあえずいまはぬいぐるみのいる部屋で私は文章を打ったり映画を見たりして生活している。でもやっぱりあんまり良い環境じゃないんだよな。私にできることは彼らに良い映画を見せてあげることと、良い音楽を聴かせてあげられることなので、伝説の歌手・磨香サンの『冬の華』とか聴かせて「どうだすごいだろう」と言って情操教育させてます。


 新井素子『わにわに物語』は名作なので読んでください。「ぬいぐるみを“買う”なんてことをぬいぐるみたちのまえで言うのはかわいそうだ。ぬいぐるみたちが自分は売り買いされるものだと分ったらかわいそうだろう」という投書が雑誌連載当時来たらしく、それに対するわにわにと新井素子さんの対応を読んだら泣けて泣けて……はあ、情緒が。
 私も「ぬいぐるみが見てるのにあんまりかっこわるいところ見せられないなー」とかおもってむだに背筋をのばしたりしています。あと、お外に連れて行ってあげられないのにも罪悪感がある! ぬいぐるみを外気に触れさすのは抵抗が……やっぱりぬいぐるみはお外に出たいとおもってるんでしょうか? ヌイグルマーのみなさん!
 おわり。

天使も夢を見る:橋本治『無花果少年と瓜売小僧』感想

 

 

 まあなんてきれいなタイトルなんでしょう。
 ほんとは『真壁クンだって王子様を夢に見る』とかにしようとおもってたんだけど真壁クンを好きな人が気を悪くしたら良くないだろうからやめたというか、『天使も夢を見る』っていい言葉じゃないですか? だから選んだ。
 ちなみに『天使も夢を見る』(1951)っていう映画もあって、それは川島雄三御大のクロシロ映画作品なんだけども、なかなかいいよ。非常にのんびりした映画なので、ボクなんかは見てる途中でねむってしまいましたが……一般的には桜田ずんこさんの同名タイトルで有名ですか。うーん、『天使も夢みる』(1973)だね、桜田さんの方は。

 

『無花果少年と瓜売小僧(いちぢくボーイとうりうりぼうや)』(1985)ワタシはこれを、一回しか読んでいない。(たった今読み終わった)だからまだ理解の浅いところがある。というわけで今回のこの文章は試論という形で手を打っていただきたいがどうか。つまり第一印象のみで話しているのに過ぎないのであって、浅慮というのを逃げ口上にしてこの文章を進めていく厚顔をどうぞご承知おきくださいということです。
 さらにこの小説の内容が内容なので、セクシャルな話に言及することもままあるかとおもわれますのでR15くらいで考えてほしいですね。15歳近辺の人は読まないでね。

 

 あらすじ。

 

木川田くんと磯村くんの「桃尻娘」第4部。11月の真ン中辺、“家を出たい”と思った磯村くんは12月8日高幡不動のアパートに引越しました。1月10日には木川田くんも同居。2人の暮しが始まりました
https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000160418

 

 なんかなー。もうちょっとマシなあらすじつけてくれてるとこないのかなー。なんだか分かりませんね。『桃尻娘』シリーズ第四弾、榊原さんなど女性陣は脇に回ったり出てこなかったりして、男の子たちの話です。

 

 今回の主人公は木川田源一くんと磯村薫くんという男の子二人で、この二人が同棲をして……というか、一緒のアパートに住んで、別れるところまでを書いている。
 磯村くんは東京に実家がある。そして、その実家から片道何時間かかけて、コトコトと大学に通う。 えーと、磯村くんのうちは高円寺のちかく(中央線沿線ね)にあって、そこから八王子に通うのですね。物語の中で磯村くんは、『高円寺から中央線に乗って、新宿とは逆方向の、「立川」へ行き、立川で今度は国鉄の南武線に乗り換えて四つ行って、京王線とクロスする「分倍河原」で京王線に乗り換えて高幡不動まで行って更に乗り換えて多摩動物公園まで行く(p52参照)』というのをやっていた。ほとんど「旅行」ですね。で、なーんでそんな面倒なことを彼がやっていたかというと、それが彼の中での自己実現のひとつだったからなのだった。

 

「新宿通ってイナカに行く、イナカから新宿に出て来る――そういうよくある“普通の大学生”なんだなァ、僕って……」――スチームの入った冬初めのシートの上で、磯村くんはそう思ったのです。(56)

 

「兄貴が国立行ってるからって、それでもって態々“僕なんかもっと田舎行ってるもんね!”っていう自己主張なんかする必要はなかったんだよねェ……」なんてことを、“暗い磯村くん”は思いました。(57)

 

 山を二つ越すとSFがあって、そこが磯村くんの大学でした。一応名前は“中央大学”といいますが、これは勿論仮名です。(48)

 

 中央大学はSFですって。中央大学の関係者のみなさん怒っていいですよ。怒らないか。笑うか。「そーなんだよねー」って。

 

 まあというわけで、引用が本当に私は苦手で疲れるので、もう疲れてしまってあとは余力しか残っていないが、要は、この、SFということなんであった。
 他人は宇宙人なんだよね。
『無花果少年と瓜売小僧』という本は、「他人ってのはほんと宇宙人だ。そして宇宙人からしてみれば、地球人であるわれわれも、やっぱり宇宙人だ」ってことを延々と書いてるんですよね。(あーあ、開き直ってこんな断定してるよこの人)
 開き直っててすいません。でも私の一回目の第一印象はこういうものだったな。

 

   磯村くんはそういう自分の馬鹿さ加減に飽きて、やっぱりもう少し大学の近くに家を借りようとおもう。お母さんは、「あら、どうしてよ?」という。一人暮らしにどうしてもこうしてもないものだとはおもうけど、一応母親というのは、こどものそういう発言に「どうしてか」と問う権利がある。だってやっぱり最初のお金なんかを用意するのは親のほうだろうし。
 磯村くんのお父さんは税理士で、兄がいて、母親がいる。全員中央線沿線上に住んでいる。高円寺って好きだな。私はおとなりの阿佐ヶ谷も好きです。(ラピュタ阿佐ヶ谷があるから)私は高円寺というところに住んだことがないから知らないけど、多分そういう場所は、近所で全部事足りるという場所で、だからそこで生まれ、そこで死んでいくという人も結構いるんではなかろうか。つまり、「おらが村」で一生過ごし、一生そこから出なくても生きていけるということです。
 だから磯村くんのお母さんも、磯村くんのそういう願望を「結構なご身分ねえ(69)」と揶揄してみたりする。
 けれど結局磯村くんは一人暮らしをすることになる。「高円寺」から「高幡不動」へ。そして引っ越しの日、高円寺から車に乗って高幡不動へ向かう道中で、磯村くんのお母さんはしみじみというのでした。「よくもまァあなた、こんなとこに毎ン日通って来られてたわねェ(85)」

 

 と、いうわけで、磯村くんという地球人の体に、着々とSFの世界が近づいています。
 「高円寺」が地球防衛軍だとすれば、「高幡不動」は地球防衛軍の基地です。そしてそこからもうひとつ足を伸ばせば、彼のSFの本拠地であるところの、「中央大学(架空の名前)」がある、と。

 

 で。
 磯村くんは、木川田くんに電話をした。今度一人暮らしをすることになるかも知んないって。そして磯村くんは、木川田くんに、“期待”をしていたのだった。
「それだったら一緒に住もうよ」って、言ってもらえるのを。

 

 恋の始まりの国があるとしたら、それはたいてい、「期待」からはじまる。
 この人、あたしの理想を叶えてくれる人じゃないかしら、とか。この人、ボクのおもいどおりになってくれるヒトじゃないかしら、とか。
 少なくとも磯村くんは、“木川田くん”という人に、期待をしていた。で、何を期待していたのかというと、「ボクをここから連れ出してくれないかなァ」というのを期待していたのだった。

 

 そして磯村薫という大学生のオトコノコは平気で女の子しているが、そういう女の子してる磯村薫という男の子のもとにはどんな王子様がやってくるのかというとそれは、「愛というものがわからないからとりあえず肉体を捧げてその愛の代わりにしてもらう」という愛情行為しかできない、家出娘ということになるのだった。
 家出娘というのはもちろん木川田源一のことだが、木川田源一は別に女ではない。そして木川田源一という男は男に対して性的感情を抱く男で、で、その木川田源一という王子様が磯村くんという「王子様」の棲む城にやってくるのは、彼がその城に越して三日目の晩のことなのだった。

 

 「星が多いなァ」と思って、磯村くんは、静かに夜空を眺めていました。
 様式のない芝居は、まずロマンチックな様式で始められます。現実感がないから、とりあえずはみんな、ロマンチックなことだけはやれるのです。
 木川田くんがやって来たのは、磯村くんが越して、三日目の晩でした。(94)

 

 “私”の書いていることは平気で男女をぐちゃぐちゃにしているが、仕方がないのである。だって『無花果少年と瓜売小僧』がそういうお話なんだから。『無花果少年と瓜売小僧』というのは、「王子様を夢みる“王子様”のもとに王子様はきちんとやってきたが、その王子様には自分が王子であるという自覚がなくて、自分をのざらしにされた子猫だとおもっていて、それまでの経験にそってお城の中の王子様を愛そうとするけど、うまくいかない、なぜなら自分はほんとうは王子様でもなくて、のざらしの猫でもなくて、ただの女の子だったとおもいたかったけど結局自分も男だったからだ」ということになるんだけど(だってそうなんだもん……そうやって書いてあるんだもん……)、王子様である磯村くんは、女の子なんか望んじゃいないのだった。なんでか? というと、自分が女の子だから。王子様は女の子だったんですね。(助けて……)

 

 醒井凉子は平気で男の子だし、榊原玲奈は平気で女である自分に開き直るが、元来男の子である木川田源一と磯村薫は、自分が女の子でしかないことに気づかない。だからこの物語の作者はこの作品の冒頭で、「男の子と女の子は一体どちらが大変なんでしょう? どちらも多分おんなじように大変なんでしょう。でも、こんなことは言えるのかもしれません。女の子は努力すればいいけれども、男の子は努力なんかしたってダメなんだって。(5)」と、言ったんですよね。

 

 こういうこじつけの仕方を「屁理屈だ」ということはかなり簡単で、私もそういう反省をする必要はあるかもしれないんだけど、解釈学ってみんなこんなもんなんですよね。先人の言ってることを自分風に“解釈”することで日本のブッキョーは発展していったんだぞお。今私は弥勒信仰のことをやってんですけど、弥勒信仰から阿弥陀信仰に流れていく時代の潮流なんてすごいんだからあ。平気で弥勒と阿弥陀を一緒くたにしちゃったりすんだぞお。なんで先人のそういう翔んでる解釈は了承して私の解釈はダメだって言うんだよ? じゃあ法然の専修念仏に対して貴族仏教側から文句言ってた貞慶ぉぢについても文句言ってくださいねっ(見えないはずの敵と戦う図)。

 

 で、まあ、木川田くんも磯村くんも平気で女の子で、だけど自分は完璧に男の子だ! とおもっているから、ものごとはなんだかうまくいかない。醒井さんなんかは男とか女とかのまえにれっきとした「醒井凉子」でしかなく、これは六作目の『雨の温州蜜柑姫』のところでとっくりと書くことになるが、しかしとにかく今は四作目の『無花果少年と瓜売小僧』のことを書かねばならないので、醒井さんのことについてはこの場では、「醒井さんなら男とか女とかじゃなくて事物に“醒井凉子”としてぶつかっていくけどな」ということだけにとどめておく。でも、木川田くんと磯村くんにはそれができないし、別に、そういう手段があるともおもわないし、さらにいうならば、おもう必要だってないのだった。別に人類全てが醒井凉子になる必要だってないんだからね。
 で、そういうふたりはいつの日か“同棲”を始める。
 そして夜のふとんのなかで、こんな会話をする。

 

「俺サァ、磯村といると落着くんだ」
 木川田くんが言いました。
「うん」
 磯村くんも言いました。
「俺、磯村のこと、好きだよ」
「うん」(121)

 

 磯村くんはそして、決して「俺も好きだよ」とは言わないのだった。なんでかというと、磯村くんは、あーあ、真壁クンだったからです。
 真壁クンというのは『ときめきトゥナイト』というまんが(というまんがってこともないけどね)に出て来る男の子のことで、少女まんが界のなんていうか、アイコンみたいな人なんである。
 ここからはちょっとだけ『ときめきトゥナイト』のことを悪く言ってしまうかもしれないので、『ときめきトゥナイト』のことが好きな人はよまないでね。(私は『ときめきトゥナイト』新装版の単行本持ってるんだから!!)
 わたしは、真壁クンのことをほんとうに気の毒だとおもっていた。大きなお世話かもしれないが、とても気の毒だとおもっていた。同時に私は『タッチ』というまんがの(というまんが……)南ちゃんという女の子のことも気の毒におもっていたが、それこそ「大きなお世話」であることは重々わかっていて、それでもやっぱり気の毒なのだった。
 なーんでか? というと、彼らにはわかりやすい「役目」があるからなのだった。
 その役目の話を長々としてもいいけど文章が長くなるので今回は省く。
 南ちゃんはそのまんがのなかで新体操をしなければならないし、真壁クンはそのまんがの中でボクシングをしなければならない。(あーこれ前も言ったっけ? バカの一つ覚えですいませんね……)しかし真壁クンが南ちゃんに輪を掛けてかわいそうなのは、ボクサー志願の男の子が、なんと「魔界の王子様」にならなければいけないからなのだった。
 真壁クンも矢吹丈も同じくボクシングというなにか“そういうもの”を志す男の子のはずなのに、住む世界が違うせいで、方や魔界の王子様になり(そうあれと望まれ)方やリングの隅で燃え尽きる。あーあ、真壁クンってばかわいそうだ、と、私は余計なことを考えていた。(真壁クンはその後プロとして活躍するそうなので……よかったね。)
 で、そこへ来てわれらが(ということもないか)磯村くんはどうなるのかというと、彼は真壁クンでありながらもしかし、なーんにも志すものがない。
 彼は、「ただ愛されたかった男の子」なのだ。
 磯村くんの家族は、「おらが村」の中で、村の掟に従って生きている。
磯村くんのお父さんは一国一城の主で、だから磯村くんも村の習慣に従えば、彼のお父さんと同じように、一国一城の主になることを望まれている。だから大学にだって通っている。法学部で法律のお勉強だってする。
 真壁クンはボクシングに恋愛に学校にそして魔界の王子様としてそれなりに忙しくしているかもしれないが、磯村くんにはだけど、あんまりやることがない。
 そしてただ磯村くんは漫然と、「愛されたいなあ」とおもっている。だけど、それをうまく自覚できない。なんでか? というと、磯村くんの周りの人間は、みんな宇宙人だから。
 磯村くんは平気でぼんやりしていて、なんでかというとそれは「ぼんやりできる環境が整っている」からだけど、磯村くんにはそんなものはただの「日常」でしかないので、自分ののんびりを改めて自覚する必要なんかないのだった。
 ほんとうは、こういう「ぼんやりしている」人ほど、愛しやすい人っていないのですけど。
 愛しやすいというか、簡単な愛を得られるというか、愛を得られるのが簡単というか……
 私は、人が人を好きになるメカニズムってのを全然知らないのでこれは憶測だが、人は他人の中に「余白」のようなものを発見し、その「余白分」のなかに自分が入る余地がある! という「可能性」と「期待」を抱いたときに、人を好きになれるんじゃないかとおもう。この人だったら私の「好き」を許してくれそう、とか。受け入れてくれそう、とか。他人に何らかの“期待”を抱かせる他者。そしてそのような他人の中に浮かんだ「期待」というものは、同時に、自分の中の「無意識」の部分であるということになって、だから磯村くんは、自分の無意識の領域が他人より広い分、他人に「期待される」。
 ああ、かなしい磯村くんの性。だってねえ、磯村くんは「他人に期待したい人」なんですよ。だって彼は受動的だから。受動的に、『愛されたいの
』(1982)。それなのに、彼は「自分が男の子だという自覚のある男の子」だから、どうしても「役目」を引き受けることになってしまう。なぜ引き受けることになってしまうかというと、彼の中に巨大な空白があって、その空白の分、彼と接した相手の中に、「想像上の磯村くん」というものが生まれる余地があるから。

 
 磯村くんは、無自覚に、『いい日 旅立ち』(1978)している。しかし実際には松田聖子的『愛されたいの』であるところの磯村くんのところには、磯村くんのことを「真壁クン」だとおもっている人しか集まらなくて、真壁クンである磯村くんは、ぜんぜん、「愛して」もらえない。では真壁クンであるところの磯村くんのまわりにはびこる「愛、の・ようなもの」は一体なんだろう? ということになると、それは「同じ村人であることに対する確認」なのだった。東京ったって宇宙規模で見れば、宇宙のイナカでしかないのよ。残念ね。
 磯村くんのもとには、「あんたとなら寝てあげるけど?」という『銃爪』(1978)みたいな女の子がやってきたり、まるで自分の鏡なんじゃないか? というような「透明な」女の子がやってきたりして、磯村くんに「愛」と「すべきこと」を提供してくれる。だから彼はますます考えなくなり、考える必要もない。そのまま「すべきこと」を提供してくれる地球人と関わっていれば磯村くんはそのまま「おらが村」に戻って平和な地球人としての一生を終えたかもしれないが今現在、宇宙と地球の中間地点であるところの「高幡不動」には、「何を考えてるのかわからない」宇宙人・木川田源一がいて、磯村くんは、そんな彼の「父親の上司の男と寝て、そいつが俺のおしっこ飲んだ」とかいう話を、聞いている。
 木川田くんは自分の父親に進路のことでゴチャゴチャ言われて、むかっとして、「お前の知ってる岡田(引用註、木川田くんの父親の上司)なんて、俺のションベン飲むんだぞ(211)」と言ってしまって「出てけッ」と父親に言われたが、彼は出ていかなかった。そういう話を聞いている磯村くんは、「そういう人の娘ってどういう人だろう?」とか「木川田のお母さんも大変だっただろうな」と、おもう。そのなかで、「お父さん」のことは、考えない。なんでかというと、もしも磯村くんが自分の父親に、「出てけ」なんて言われたら、磯村くんの物語は「そこ」で終わってしまうから。(232あたり)
 木川田くんは、お父さんから「出てけ」と言われても、出ていかなかった。磯村くんは、お父さんから「出てけ」なんて言われてなくて、自分から家を出ていった。僕は言われて出ていったんじゃない。自分から、出ていったんだ。

 

「別に、出てかなかったけどな」と言った木川田くんが、そこで話を“おしまい”にしないで、「なんだか分かんないけどその先一人でやってみよう、関係ないもん、関係ないって思わなかったらやってけないもん」ていう決意をしたことなど、磯村くんには分らなかったのです。(234)

 

 どう見ても木川田くんは、自分とおんなじような男の子でした。
 親とうまく行かなくて、“親に捨てられた”、“自分とおんなじような”男の子だと、磯村くんは思っていました。

 そんな、“自分とおんなじ境遇の”男の子に、どうして少しでも性的な関心なんて持てたんだろうって、磯村くんは不思議に思って木川田くんの白いTシャツ姿を眺めていました。(235)

 

 そして真壁クンは一方では気の毒だが、そのような気の毒な環境にいなければ、真壁クンなどという存在は、別にどうということもない。
 少女まんがのヒーローで、ボクシングをやっていて、蘭世ちゃんに一度も「好きだよ」とも言わなくて、しかも魔界の王子様までやってくれる真壁クンがなぜ真壁クンでいられるかといえばそれは、彼を相対化してくれる江藤蘭世という絶対的ヒロインがいるからであって、だからこそ真壁クンは『あしたのジョー』のなかで脇役になることもなく、少女漫画史の燦然と輝く場所で、その存在の鮮やかさをほしいままにしている。
 

 他人がいればその他人は色々と“言ってくれます”。何も言わなくても「ああ、そうかァ」と思うことで、色々のことが分っていけます。だから磯村くんが辛かったのは、その“いる他人”がいない時でした。(260)

 

 “いる他人”が、「こういうお前でいてくれ」というのであれば、彼は平気で「こういうお前」になれる。宇宙人でもあり地球人でもある彼は、だからメタモンのようにその姿を変えて、お他人様のお気に召すような自分になれる。それが苦痛でないのは、自分で自分を画用紙に線描するよりも、お他人様に自画像を描いてもらうほうが遥かに楽で、そしてそれこそが、“いつもやっている日常のこと”だったからだ。
 他人の描く“磯村薫”というものはとても良いもののように見える。それは、自分で自分のよくわからない似顔絵を描いているときよりもよっぽど輪郭がはっきりしていて、そして立派な人間なように見える。そういう自分だったら、だから、“愛せる”。「愛されたいの」と歌った少女であるところの少年磯村薫は、だから自分のことを愛そうとして、その習慣通りに、他人に似顔絵を描いてもらって、その自画像のことを、自分“でも”あると認めている。

 

 世の中というものは、そう思ってる自分がテキトーに合わせて行けばいいものだからラクだと、磯村くんは思っていました。「でも、それだけじゃつまんないし」と、磯村くんはそれも思っていました。(261-262)

 

 それで、磯村くんは「カナエちゃん」という女の人と寝る。
 木川田くんはといえば、昔好きだった人(滝上くんというひと)と再会して、やっぱり好きだなっておもって、キスをする。すると、それを受けた滝上くんはいう。

 

「いつまでこんなことやってるんだよ」
 滝上くんが言いました。
「いい加減にしろよ」とも。(302)

 

 滝上くんにとって、木川田くんとの“おもいで”は、いわゆる「旧制高校の頃のおもいで」でしかない。ヘッセ的青春でしかない。だからそれは青春を終えれば『卒業』するものであって、滝上くんには、木川田くんがいつまでも「旧制高校」しているようにしか見えない。過去に生きている人間を、「現在」を生きている人間は嫌う。自分の過ぎ去った過去が、恥部がめのまえに人間として具現化しているみたいで嫌なのだ。
 そして傷心の木川田少女は、男の子になぐさめてもらうために「家」に帰る。その「地球」と「宇宙」の中間地点、つまりモラトリアム星であるところの「高幡不動」には、真壁クンの顔を貼り付けた、でも結局『いつか王子様が』してるだけの男の子、磯村くんが待っていて、その「王子様」に向かって、女の子でしかない木川田源一は、「死んじゃおっかなあ……」とか、言っている。
 木川田くんが気の毒なのはある一定の女の子と同じことで、それは、「体を差し出したら、あたしは他人に愛してもらえる」というのを先に知ってしまったからなのだった。
 親の理解のない女の子が、家出をする。16歳くらいで。家にも帰れず、ふらふらしていると、自販機の近くで声をかけられる。女の子はそれについていく。すると、女の子は、「歓迎」される。
 そっか。あたしって、求められてたんだ。
 女の子はそういう愛され方しかしらないでおとなになる。ほんとうは、もっと別の愛され方をしていて、お母さんもお父さんも、おなじようにその女の子のことを愛していたんだけど、若い女の子には、それがわからなかった。だから女の子はもっと「肉体性」のある愛に夢中になって、体を捧げて愛を勝ち取る。木川田くんの持っていた愛というのはそういうもので、だから、他人にもその愛を要求する。「私の体はいい体だ」だって、男の人が僕のことを、そういうものだって言ったんだもん。
 だけどそういう対象に選ばれた磯村くんにはそんな愛は風よりも意味がない。彼にとって「愛」とは、「君、地球人?」「そう、私地球人」という認識の交換でしかない。
 だけど磯村くんはやさしいから、「死んじゃおっかなあ」といった女の子に、「どうしたの?」と、言ってやる。
 女の子にだったら、なれるかもしれない。男の子になるのはだめでも、女の子になるのだったら。
 だけど、磯村くんにその夜“優しくしてもらった”木川田くんは、自分は女の子ではなかったというのを思い出す。
 自分が女の子でないのだったら、なにも好き好んで王子様の棲む城へのこのこと入り込んでいって、「あたしといっしょに“いつまでもしあわせにくらしました"してよ」って要求しなくていいじゃないかとおもう。
 木川田くんはだから、もう磯村くんの部屋には帰ってきませんでした。

 

 さて、お姫様の来ない王子様というのは、それからどうすればいいのか。
 真壁クンには蘭世ちゃんがいたけれど、磯村くんのまわりには誰もいない。いるのは透明人間みたいな“宇宙人”か、あるいは自分とよく似た顔をした地球人でしかない。お城からお姫様は出ていった。なんでかというと、自分がお姫様なんかじゃないというのを、木川田くんが知ったからだ。
 それでも磯村くんは、だれもいないお城のなかで、ただひとりぼんやりと窓辺に座って、誰かを待っている。
 そして、お姫様はやってくる。
 リーン、と城の電話が鳴る。

 

 「あたし、榊原です」
 「あたしはあなたが好きなのよ。――それだけが言いたくて」

 

 笑った榊原玲奈が、急に「お悔やみ申し上げます」って言ったと、磯村くんは思いました。(396)

 

 バカにしやがって! と磯村くんはおもう。そして、「好き」という言葉が急に実感を伴ってやってくる。

 

 一体誰が誰を好きで、誰が誰を好いていて、誰に好きだと言われて、そう言われた“誰か”って、一体“誰”だったんだろう。
 磯村くんにはその答えがわからないし、わからないかわりに磯村くんは、その感情を「気持ち悪い」とおもう。「ホントに“好き”って、そんなに気持悪い言葉だったんだ」(398)って。
 自分がその言葉を「他人」から向けられて、磯村くんはようやく分ったのでした。
 磯村くんには、「裏切ってはいけない」とおもえるような大切な人がいる。それが両親であって、彼は、その両親の愛を一心に受けて育った。本人にその自覚があるにしろないにしろ、愛のない家庭で育ったわけでは決してないのは事実だ。
 だから彼は、「お父さん」を裏切れない。だから、「真壁クン」にならないといけなかった。「真壁クン」とは「期待」と同義語で、だから、磯村薫という三文字は、他人の期待という文字と同義語でしかない。
 そういう自分がつまんないから、「俺」は、ひとりぐらしがしたかったんだ。「地球」と「SF」のまんなかに陣地を築いて、そこで自己実現するんだ。そうおもってたのに、やっぱりそういう自分は、「他人」からすれば、ただの「期待」でしかなくて、「真壁クン」でしかない。しかもお姫様はその城から出ていって、平気で「デザイナー」の卵として自己実現を始めているんだから。
 蘭世ちゃんに愛してもらえなかった真壁クン。磯村薫というのはそういう人だけど、でも、大丈夫。「おらが村」に戻れば、あなたは「まっとうな、あまりにもまっとうな社会人」として、模範的な地球人に戻れるから。

 目の前の川原にはもう稚(わか)いとはいえない青い葦が茂って、水はとうとうと流れていました。
「あの橋を渡って、あの向う岸の土手を歩いて、ズーッとどこまでも歩いて行ったらまた“あの橋”が見えるんだけどな」って、雨の中で傘を差した磯村くんは、団地の向うの新井橋の方を眺めていました。
「あの二つの川が一つになって“海”になっているところが見たいんだけどな」と思って、「でも、あそこまで行ったら濡れちゃうし」って、磯村くんは思ってました。(405)

 

 で、あるからこそ、「高円寺」と「多摩動物公園」のあいだに「高幡不動」があったのにね。

 

 おわりです♪(橋本さん、本当にごめんなさい)2026.04.12