『橋本治と内田樹』という並びよりも、『橋本治と新井素子』の方がイコールで結びやすいと思う理由:『流水桃花抄(橋本治掌篇短編集)』の「あとがき」感想①

 えー、今、橋本さんの『流水桃花抄(橋本治掌篇短編集)』(1991)を読もうとしているところなんですが、その前に、この本の「あとがき」を読んで「この人はなんて”新井素子”なんだろう」とおもったので、それを書きます(ということで本編はまだ読んでません)。(注:その後読みました。おもしろかったです)


 新井素子橋本治。両者に共通するものとはなにか。別にない、としてもいい。僕は新井さんの読者だが、寡聞にしてか見落としていてかわからないが、新井さんが橋本さんについて言及している文章をまだ読んだことがない。
 しかし橋本さんが新井さんについて書いているのは二回だけ見たことがある。それは、『恋愛論』の講談社文庫版あとがきで、

 えっと、新井素子です(ウソ)。

 ってやってたやつ。もう一つは、どこかのエッセイ本で、「新井素子と対談の予定だったが(橋本は)途中で帰った」という記述。つまり、言いたいのは、橋本さんは少なくとも新井素子という小説家の存在を知っている。そして、知っていて、彼は、この小説(『流水桃花抄(橋本治掌篇短編集)』)のあとがきで、こんなことを言っている。

「ひょっとして、オレって全然小説家としての才能なんてないのかもしれない……」とか。(前書:205)

 

「ひょっとして、私は小説家としてはまったく期待されてない人間なんですね。だってその証拠に、小説の執筆依頼が全然来ない……」(前書:207)

 そして橋本さんは「あとがき」で、自分の見た夢の話を始める。

 ちなみに、その時にした夢の話っていうのは、こういうもん――。(前書:208)

 

 まァ、ひょっとして、フツーの人は夢見ながら泣いたり笑ったりはしないのかもしんないけど、私は夢見ながら歌唄ってますからね。自分の歌声で目ェ覚ましちゃったとか。いいんですけど。(前書:208)

 この文章を読んだ新井素子読者でもあるワタシなんかはそして、こうおもいましたね。「橋本さん、それってまるっきり”新井素子”ですよ」

 新井さんファンなら周知の事実ではあるが、新井さんは自らの見た夢をキッカケにして小説が書けちゃう人である。(『チグリスとユーフラテス』(1999)などを筆頭に)そして、自分の見た夢についての本を書いてしまったり(『もとちゃんの夢日記』(1995))、二度寝をすればだいたい夢の続きが見られるよう訓練して出来るようになってしまった、とかいったような、もうほとんど夢のエキスパートみたいな人である。
 橋本さんの話に戻れば、この「あとがき」では、橋本さんはすっかり「新井素子」してしまっているのだ。その証拠が、以下の文章である!

 思うんですけどね。日本の小説って、あまりにも読者の役に立つことを考えすぎてません?
 もっと単純に”お話”であってもいいと思うんだけどな。単純にお話であることの内容が”複雑”であったっていい訳だし。(前書:211)

 上記のこの文章を、「新井素子が彼女の本の”あとがき”で言ってたんだよね」としても、信じてしまう人って、いるんじゃないでしょうか(この、『考えすぎてません?』って言い方が、「新井素子!」ってかんじなんですが、新井さんファンどうですか?)

 完全に僕しか言っていないことかもしれないけど(いや、言ってる人はいるだろうけど)新井素子橋本治は、似ています。

 二人とも東京生まれ東京育ち。両親は共働き。(新井さんのお家はご両親がお二人とも編集、橋本さんのお家はお店をやっていた)学生時代からメディアの寵児。運転免許を持っていない。小説家である。お二人とも、いわゆる『昭和軽薄体』を引っさげて文学界への殴り込みを行った。
 そしてこれがきわめつけ、二人は練馬に住んでいる!(橋本さんは、練馬の一軒家に住んでいた時期があった!!)
 これは『ぼくたちの近代史』(1988)の中で言ってます。

 僕は前、練馬の一軒家に住んでて、(後略)(『ぼくたちの近代史』p.112)

 そしてもう二つ。新井素子のお家はご両親が共働きだったので、ちいさなころは明治生まれのおばあちゃまにご飯を作ってもらっていた。そして橋本さんは言う!

 僕はね、オバアチャン子だったのね。で、今年の正月に祖母がボケてしまいまして――(後略)(『ぼくたちの近代史』p.139)

 そして、新井素子はどんな賞を得て文学界へと凱旋したか?
 第一回奇想天外SF新人賞佳作。

 そして橋本さんは?

 だいたい俺なんか、作家としては小説現代新人賞の佳作なんだからさ(後略)(『ぼくたちの近代史』p.139)

 そんでもって最終的な決め手はこれ、橋本治新井素子は面白い。

 そんな二人であるのに、橋本さんが小説の才能がないなんてそんなことのあるはずがない、というのが、この文章の趣旨なんである。

 彼の書く『流水桃花抄(橋本治掌篇短編集)』のあとがきを読みながら、僕は、何度も、「それ、新井素子!」とおもった。そしてしかしさらに、「やっぱり橋本さんは(だからこそ)新井素子”モドキ”だな」、とか、失礼極まりないことも、おもったりした。

 しかし、これは橋本批判ではない。

 橋本治は面白い。そして、こんなにも新井素子に似ている、と仮定してみる。しかし、こんなにも新井素子に似ている橋本さんは、なぜ大衆から、読者から遠ざかっていくのか?(余談ではあるが、最近刊行されたさる本に、「橋本治は小説がヘタだ」という趣旨の記述を見つけたこともある。橋本さんはもちろん謙遜を含んで「自分は小説家としての才能がない」と発言しているに違いないが、そのさる本の著者は本気で「下手だ」とおもっていて、橋本治の小説について客観的に”そう”おもっている人物も少なからず居るということだ)

 容易に出る答えだともおもえない。現にワタシだって、橋本さんの小説すべてを網羅的に読んでいるわけじゃない。ただ一つ、今の段階で言えそうなことは、新井さんという人は、大衆を信じている(あるいは、信じているように感じられる)ということである。

 そこで、一つの仮定を立ててみる。 
 彼の小説は面白いのに新井素子にはなれない。(別にならなくていーわ、というのは最もですが、はい)
 橋本さんの小説家としての「才能」は、新井素子の「才能」には遠く及ばない。それは、彼の小説が、上手い/下手を超えて、「ストーリーとしての魅力」「物語としての魅力」を持たない/持てないためだ……

 なぜか?
 それは、彼には評論という手段がある、しかし彼女にはそれがない。これに尽きるのではないか。
 そして、たくさんの共通項を持つこの二人には、決定的に違うところがある。それは、

 新井素子は酒飲みで、橋本治は煙草飲みである、ということ。
 新井さんは煙草はやらないし(エッセイ等で読んだ記憶がない。しかし本人は煙草も愛飲していたらスイマセン)、橋本さんはヘビースモーカーではあるが酒の方はあんましである(飲むと頭が痛くなっちゃうそうである)。この二人の、この決定的な違いを何とするか。
 個人差を認めた上であえて発言をするならば、酒は精神を鈍麻させ、煙草は精神を鋭敏にする。そして、小説を書くということはつまり、地に足をつけつつ、その精神を、どこまでも空想の世界に飛翔させていくということである、と。そして、「小説家」という、いちおう「職種」があることから、そういった”職業”に就けるのであれば、社会と関わることはどうしても必要になる。ということで、個々人差はあれど、一応「小説家」には「地に足はついている」ということが必要条件になる、と仮定する。

 そこへ来て、「酒飲みと煙草飲み」についてを問題にするとなればしかし、当然のように、この単純化には様々な否定の意見を並べることが出来てしまう。
 両刀使いもいる、とか。どちらも嗜まない人だっているとか、そもそもそんなものの差で作家としての能力を測ろうとするのは間違っている……など。一見すれば、単なる決めつけのようにおもえることを行おうとすれば、それに反対する考えなどいくらでもおもいついてしまう。たとえば、決めつけの一例をひとつ作ってしまえば、こうなる。
新井素子は酒飲みで、橋本治は煙草飲みだ。酒は精神をまったりさせるがしかし煙草は精神をきりりとさせる。そのきりりとした分、煙草飲みは酒飲みの持つ磊落なダイナミズムを作品に反映させることができず、物語にかっちりとした理性を持ち込ませてしまう。作品の中で理性が勝つと、物語という熱は途中で”醒めて”しまう。橋本治の小説と、新井素子の小説の違いとはそこである」などと……

 誤解を承知で(もはや恐れるというレベルではない)言い切ってしまえば、これくらいのことはいくらでも言える。しかしその考え方がすべての酒飲み、煙草飲みの人々に当てはまるということではなく、あくまでこれは「橋本と新井」とかいう、とても特殊な人達のみに当てはまるかもしれない「仮説」に過ぎない……と、いうことを前提として(永い言い訳ですわ)、やっぱり橋本が煙草飲み、新井が酒飲みというのは、まったく象徴的な事実だなあ、とおもうのである。

 さて、甚だ唐突ではあるが、『奥さまは魔女』シーズン8 #26 の日本語タイトルは『人の心は謎々』。
 人の心は謎々。人の心は、特に、他人の心の中というのは、複雑怪奇なものと決まっている。人の心がすべて透けるように見えるのであれば、苦労はいらない。また、人の心は複雑怪奇だからこそありがたいということもある。わからないから面白いということもあり(これは『2001年宇宙の旅』(1968)なんかがケンチョですね)、分かるからこそ詰まらないというのもある(『2001年……』の謎が全て解き明かされた時、人は、言います、「なんだ、つまんねーっ」言わなかった人は言わなかった人で別にいいです)。
 そして、翻って考えてみるに、橋本さんは基本的には「分かってしまう」人であると。だから彼の、得意な小説というのにはほとんど「他人」というものが出てこない。そして、ああ、時代はさかのぼり、「他人」でくるしむ小説家というのは一体誰だったのかというとそれは……それはァ!!(つづく)

だからどうした?:『風雅の虎の巻』感想 

「必要と非実用は対立しない」という考え方は”実用”と”非実用”を対立させる考えの上にあるものですが、どうしてこれが消滅してしまったのか――だから平気で「分かりにくい」などという言葉が上がるのかというと、実用と非実用を対立させて考える側のものが”非実用”を排除してしまったからですね。思考の構成要素が排除されてしまえば、それを構成要素とする思想なんか存在しっこない。だから、「実用と非実用は対立しない」という考えが分かりにくくなったのです。(『風雅の虎の巻』P.317)

 さて、『風雅の虎の巻』(1988)である。
 一体、この本の目的とは何なのだろう? 
『風雅の~』は、突然始まる。

 昔と今とでは”大人”ってことがかなり違ってしまいましたね。(前書:12)

 こうである。
 一体この本は、「どこへ目的」しているのか、何のために書かれたのか、主題は何なのか、誰に向けて書かれているのか? そして極めつけ、「一体作者は、この本で何が言いたいのか?」
 現国の試験問題じゃないんだから、そういう余計なことを考えずに文章を楽しめばいいんではないかい? というところへ来て、この問題の書(別に誰も問題になんてしてないけど)『風雅の虎の巻』感想なんである。

 現国の試験問題の回答として、先の疑問の正解を導き出そうとするのなら、答えは橋本さんが本書で明言してくれている。

 この本で一貫して問題にしているのは”風雅”という名の非実用です。(前書:316)

 なるほど。
 橋本さんご自身がそう言っているので、この本の主題というのはそういうことなのだろう。
 そこへ来て、この文章の冒頭の引用である。橋本さんが『風雅の虎の巻』で問題にしているのは、”風雅”というものの非実用だということは述べた。では、このブログ記事(『風雅の虎の巻』感想)において問題にしていることとは何か? それは、この種類の文章(『風雅の虎の巻』的内容を含むもの)に対しての「畏れ」から生じた「軽蔑」「冷笑」「無視」「排除」という反応に対する”反応”なんであります。

 さて。
『風雅の虎の巻』はヘンな本である。
 一冊の本が出るには、(多分)編集会議というものがあって、その本が世の中に出されることにおいてのアッピ~ルポイントとか、意義とかが云々されるのであろう(知らないから全部想像だけど)、が、その編集会議において、この本はどういったプロセスを経てGOサインが出されたのだろう? ……などと訝ってしまうほど、この本はヘンテコリンな内容の本なんである。
 結局この本は、「橋本さんが今度こういう本を出します、というわけで一つヨロシクです」ってくらいじゃないと、こういう本は出せないんじゃないかとおもうくらい、ふわふわしていて、掴みどころのない本である。
 内容がふわふわしているという意味ではない。意味ではなく、それぞれの章の内容は、刺激に満ちていて、蒙を啓かれるような発言が各所に存在する。
 たとえば、

 後家が”尼将軍”となって平気で息子を死に追いやってしまうような日本では、母は”女”ではなく”制度”です。(前書:109)

 とかさ。

 仲居だからちゃんとした”お給仕”っていうのもやってるけども、日本で女が男に仕えるってことになると「どうすれば相手の方は満足していただけるか」ということになり、出て来る答えは一つなんです。男のマザコン性を満足させてやればいい、と。という訳で日本的世界の女性第三次産業従事者は、みんなベタベタするんです。女はベタベタして男をリラックスさせてやるっていうのが日本的世界の鉄則ですから、かつて「日本の女は世界一」なんてことを言われてたんですね。(前書:195)

 とかね。(まだまだあるけど本編読んでください、おもしろいから)

 で、である。前述のこのような文章があるとする。そして、それを読者が読む、と。すると、ある一定の反応として、どんな反応が見られるだろう? それが「橋本的文章」に対する一つの反応の典型例なのであります。つまり、
「だから、その事実があるとして、それだからなんだって言うの? 一体あなたは、このボクに、この本を通じて何が言いたかったの?」
 これである。

 そしてこの、恥を恥ともおもわないような発言を容易に使用できる人のことを、橋本は『実用と非実用を対立させて考える側のもの』(前書:317)と呼ぶ。「金に還元されない知に何の意味があんの?」とか、「もはや教養っていうのは現代においては娯楽になってしまったんですね」とかいう類の発言も、みんなこれですね。そして橋本という知の使い方というのは、主にどちらの使い方を採用し続けてきたのかというと、それは”非実用”のほうである、と(いうことを仮定して話を進めていきます)。

『風雅の虎の巻』に書かれていることはつまり、橋本さん言うところの”非実用”の方であると。そしてその逆が実用、つまり実用書のたぐいであると。編集会議を通りやすい方ですね。橋本さんの本でいったら『上司は思いつきで……』(2004)とか、『「分からない」という方法』(2001)とか『手トリ足トリ』(1989)とか、『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(2002)とか(もっともこれは実用の皮を被った非実用でしたが……)。そういう、「ボクはあなたに向かってAというものについての実践的な利用法を説明しますよ」っていう本。そのもの実用書とか自己啓発系とか料理本とかそういうの。そしてその反対の「非実用」についての本とは、「今からボクはあなたたちにAというものの実像を、実践を、実用を説明します」というたぐいの本では、決してないということですね。だからこそ、「この本読んで何のイミがあんの?(=橋本言うところの『非実用を排除』しようとする)」という反応が生まれてしまう、と。

 実用は他者に(何らかの)利益をもたらす。実生活で使用できる、たとえば共通の会話とか、現実への心構えとか。(「『バカの壁』読んだけど結局よく分かんなかったよ」とか)。(「『上司は……』を読んで、上司に対する疑問がなんとなく分かった気がした」とか)。その本に関わったことでそのものお金が得られるとか。(「『ケーキの切れない……』についてYou Tubeで解説してみた」で収益得る)とか。しかし、非実用の方ではそうはいかない。

「尼将軍ってさぁ、けっきょく『一地方の利益管理者(前書:109)』なんだよねえ」とか突然会話の中で口にしてみても、「はあ?」っておもわれてしまうだけです。橋本は、その頭脳によって、自身の著作を「実用」と「非実用」に使い分けることができる。「まあ今回は分かりやすくしてあげよう」という時もあれば、「分かる人には分かるように書いてあげるから、分かりたいと思う人だけはついてきて。まあめんどくさいから別に分かってもらわなくてもいいけど、俺がそういうことを「分かった」ということは書き留めておきたいから(また、書き留めておく価値もあると思うから)読みたい人は読んでね。俺もものすごく分かり良いように書くつもりもないから」という時もある。そしてこの本は後者的気分によって書き出された、「非実用についてを云々する橋本」=「それこそが風雅という状態である」という、橋本による橋本の「非実用本」に対する、説明の書なんだよ! ということなんですよ!(ホントか?)

 だから、「本」という全般に対して、「実用」だけを求める人にとって、この本は分かりにくい。「で、この本でアンタは何が言いたいの?」と上から目線で餌を口にまで運んでもらわないと何も理解しようとしない人にもこの本は分かりにくい。しかしこの本は「非実用」であるハシモト本の代表例であるといっていいくらい、「非実用」を愛するものにとっては、トッテモオモチロイ!(水木しげる語)本なんだ。
 つまり、遊びなのです。
 労働で金を稼ぎ、遊びでそのロードーでつくった金をホートーする。橋本は「実用書(=労働)」でせっせせっせと(ハシモト語。その他には「ヘンテコリンな」がある)稼いだ金を、こーして「非実用書(=遊び)」によって消費、放蕩している。だから橋本さんっていう人は、土木作業の日当のほとんどをその日の飲食代にあててしまう、元トップリードの和賀さんのような人なんだよ!(なんだそれは??)

 和賀さんを見てわれわれが感じるのはなんだろう?
「みんなが出来ないことをやってのける、そこにシビれるッ! あこがれるゥ」だろうか? それとも、「そんな刹那的なことで将来どーすんだよー」ということだろうか? 両方だ(とおもう)。そして、その光景はとても「風雅」だ……(飛躍がすごい)

 橋本は言う。

 風雅を排除してしまったのは、サラリーマンというただ一直線の思考体系で、ここには機能という名の実用だけあって、他はなんにもありません。”他”に属するものを全部切り捨ててしまった結果、虚無に由来する怠惰だけがあるのです――排除の後に。(前書:319)

 実用という言葉があるのだとすれば、その反対の状態も存在する。つまり実用を得ようとするのであれば、非実用もまた存在する。存在するものを「無い」「無意味だ」としてしまうあなたたち(つまり、『上司は思いつきで物を言う』(2004)や『桃尻訳枕草子』(1987-88)のような「実用としての俺(の書いたもの)しか必要としない、「非実用の俺」、『シネマほらセット』(2004)、『アストロモモンガ』(1987)なんかをを必要としない、無視するあんたたちには”風雅”が欠けている! そんな美しくないものは嫌いだ! ということなのではないか。(そーなの?)

「オレってタイトル付けるの上手いと思う」と、ハシモトはどこかの本で言っていたが、『風雅の虎の巻』というタイトルで一体どんな層の読者が、タイトルのみによって惹きつけられるというのか? というのは分からない。(この反対が、橋本に限って言えば『上司は~』であり、もう少し広げてみると、例が古くてあれですが『バカの壁』とか『もしもドラッカーが……』とかですね)。
 しかしこの本がこのタイトルであるのは正しい。なぜかといえば、この本もやっぱり「オレってこういう人。」という、ハシモト本人の自己紹介本であるからだ。
 つまり…… 何故この本がこれほど目的意識を欠いているのか? この本を読む人にある種の戸惑い、「この本、どーやって読めばいいの?(どういうスタンスでこの本を受け取ればいいの)という感想を抱かせるのはなぜか?

 この本が、橋本の日記帳だからである。彼のその膨大な知識と言葉によってつい納得して、「ああそういうことか……」とおもしろく読めてしまうが、その実、本としてまとまっていないのは(あるいはまとめる気がないのは)この本が公共性(「分からせようとする力」)を「わざと」欠いた、日記帳の延長として作られたものだからなんである。(?)

 橋本さんという人は、様々な過去の人物に自身の姿を映す。それで暗に(明に?)自己紹介をしている。今回の本で彼が「ポヴァリー夫人は私だ」したのは、かの源実朝である。

「儚さ」って言っちゃう心理よりも、「儚いんだよ、そんだけさ」って言っちゃう心理のほうがズッと怖いでしょう。自分の感情が周囲からは決して理解されないことを当然のことにしている人間の孤独感っていうものはそういうもんですからね。(前書:114)

 橋本治という孤独者は、他人に自分の言っていることを分からせる気なんか本当は無いのである。だから平気で「分かりにくい」。だから黙殺される。「分かるかなァ……分っかんねえだろうなァ……」というのでアイデンチイチイをつくって「ひとりでできるもん!」してるのが橋本さんなんだから、これはもう仕方がない。ハシモトは和賀勇介松鶴家千とせ源実朝だったのである。(もう知らないよ僕は……)
 そういう人がわざわざ門戸を開いてその知識をこうして披露してくれている。それに乗らないでどうするというんだろう。こんなに楽しい本なのに。

 この本との関連書籍として橋本さんの他の本を挙げるとすれば(何が書いてあるかわからない、と読者を混乱させる)、『いとも優雅な意地悪の……』(2017)や「あなたの苦手な彼女について』(2008)等がありますが、前者は「おれがこんなにいじめてるのにそれに気づかないあんたたちに付ける薬はない」で、後者は「結局・・・というのはどうしようもない」と言ってたりするのかもしれませんがあんまりいうとアレなのでやめておきます。(というか、私自身も『あなたの苦手な……』についてはどう考えていいのかまだ結論が出ていない)

 金、金とばかり言ってるだけなの止めようね。風雅じゃないから。(もちろん困窮している人が金金言うのはあたりまえであって、もう既にありあまる富を持っているにも関わらず金金言ってる人が風雅じゃないってことだよ)
 終わりです。2022.08.15

”思い通りにいかないコトはぜんぶ認めねーぞ、俺ァ”、または妄想としての現在、そして花井薫クンである(庄司薫クンではない)橋本治の『わかって下さいお月様』:『熱血シュークリーム』感想

 さて、ハシモトはなぜ分かりにくいのかの問題である。
 ダラダラと書きつけてみてもいいけど面倒くさいので結論。「おまえなんかに分かられたくない」から。
 終わり。

 結論以下は蛇足。もちろんこれを書いている人も「おまえなんかに分かられたくない」のうちに入る類である。では、どんな人物にハシモトは、「わかって下さい」しているのか? というのがこの蛇足によって明らかに……なればいいですけど。分かりませんが。

 タイトルにも記した、”思い通りに……”という文章は、橋本さんの著書では『問題発言』(思想の科学社、1987)や、『熱血シュークリーム』(毎日新聞社、2019)などで読める。これを書いている人は、『問題発言』で一回読んで、それから『熱血……』でもう一回読んだ。以下の文章は、『熱血……』を読み終えての文章である。

『熱血……』の大友克洋論の中に、こんな文章がある。

 おばさんはサァ、人間というものを把握してる訳よ。でもサ、把握された側の人間は、「そんな把握のされ方されてたまるか」と思ってる訳よ。(『熱血シュークリーム』p.196)

 もう、これである。これなんですよ。つまり、ハシモトさんのわかりにくさというのはこういうことなのだった。われわれは凡人が、氏の本に触れ、氏の思想の一端をかいまみるときに発動される感情の一つに、「畏怖」というものがある(だろう)。(氏の本に触れてそれを感じたことのない人は、感じたことのない人で、別にいいです)あるいは「何でこんなことまで知っているんだ?」とか。そういった具合でわれわれは、氏のことをもうほとんど自動的に尊敬してしまう。その感情の作用というのは、自然なことだ。何ら不自然なことではない。しかしハシモトも人間なんだ。われわれ凡人も、ハシモトという人と同じように、「ヒューマンビーイング」、であるというのは変わらない。
 つまり、ハシモトもわれわれと同じ人間である、と。ということはつまり、われわれはハシモトであり、ハシモトはわれわれなのである。(????)
 説明します。

 あなたは、他人に、「あなたって〇〇だよね」という断定を食らったことがあるか。そして、大体においてそういった指摘は、自分からすれば「ムッとする」類のものではなかったか。
 あなたの職場に「オバサン」、あるいは「オジサン」は居るか。まあオジサンでもオバサンでもオジイサンでもオバアサンでも若者でもなんでもいいが、とにかく他人、あなたがあまりいい印象を持っていない、そこまで親しくない他人が、ですね、あなたに対して肯定的な言葉を言う。「〇〇さんって美人ですね」、あるいは否定的な言葉、「〇〇さんって愛想悪いですね」。この時、アナタ(または私、あるいはハシモト)はおもう、「おめーなんかに、そんなことおもわれたくねーんだよ!」

 つまり……なんというか、ハシモトは、ヘタな人に、ヘタなように「橋本治」という状態を「分かられたく」はないのだった。だから平気で文章や言いたいことが複雑になるし、その「複雑」に「ついていけない……」とおもった、ハシモト的「俺について分かってもらいたくないやつ」は、彼のその見事な韜晦によって、他ならぬ「ハシモト」から、振り落とされてしまう……と。


 しかし彼のそのような韜晦に、むしろ参ってしまっている人々は、そうやって振り落とされそうになりながらも、橋本治の本を読む。そして「橋本さんの言ってることわかるなあ……」と、しみじみ”ストーカー”(共感)してしまう。これが、良いことなのか悪いことなのかは分からない(だってそうやって勝手に「わかるなあ……」してしまうわれわれに、橋本さんが「わかってほしい」とおもってるかどうかなんてことは、結局「藪の中」なんだから)。

 しかし、分かってしまうものというものは、やっぱり「分かってしまう」ものだ。「わかんない、何言ってるか」が反応として自然であると同時に、「分かるなあ、それ……」というのもまた自然である、と。「クイス100人に聞きました」のノリで、「まるちゃんの言ってるようなこと、ある、ある……」と共感してしまえる自然というのがさくらももこ的状態であったとするのなら、その反対の「何言ってる分かんねえ」的な、橋本治的状態もまた、自然である、と……

 

 さて、しかし、平気で「分かられたくない!」としているハシモトの言うことを、「分かる、分かる……」と、これまた平気で理解(または理解しているという勘違い)をしてしまう読者が生まれるというのも、自然な状態といえるのだろうか? と問われると、これは言えてしまうのである。なぜなら、橋本治という人は、平気で少女まんがだから。平気で山口百恵、平気で谷村新司だから。『ああ日本のどこかに 私を待っている人がいる……』(作詞者は谷村新司です、分かりますね)だから。じゃないと本の中にここまでセキララな自分を開示したりしない。680円+税×3で、ちくまプリマー新書から自伝出したりしないから。……ということなんである。

 つまり……橋本治というのは、塔の上で『日本のどこかに……』している、ラプンツェルのような人だったんだよ!(????)

 飛躍がすごいがまあちょっと聞いて下さい。だから、橋本”ラプンツェル”治の垂らした長い金髪のみつあみをたどって、ボクたちという凡人(またはラプンツェルを見つける王子サマ)は、その金色の長い紐をたどって(まるで蜘蛛の糸のように!)、女……親という人によって塔の上に閉じ込められている”彼”のところまで登っていこうとする。で、その塔の上から垂らされた長い金髪は、誰の目にも見えるように明示されている(だって本が流通しているんだから。もっとも氏の本は絶版、絶版で手に入りにくいけど)、が、しかし、その金髪をたどって塔の上まで行くかどうかは、読者の手に委ねられているのである。


「なんでこんな訳のわからない金髪を握りしめているんだろう? 他に楽しいことはいくらでもあるのに。しかもなんか登っても登ってもたどり着かないし。たどり着いた先に本当に良いものがあるかどうかも不明だし。やっぱりやめた、家帰ってガチャ回そ」としておくこともできる。それは個人個人の自由である、と。しかし、結局そうなれば「あーあ、分からなかった……」で、終わりだ。だけど、その金髪の糸をそれでも「なんかこうやって登ること自体が楽しい!」とかやっていると、いつの間にか塔のてっぺんにたどり着いて、たどり着いた人だけが、そこに誰が居るのかというのを知る。そして、そこでわれわれは何を見るか?
 そこには、長い金髪の少女が居た――(ああ、ダッシュダッシュ

 そしてその”彼”は自分の顔によく似ていた、と。そこで塔に登った人だけは気づく、「ハシモトオサムという人は、おれ自身だったんだ!」ということを。(…………)
「橋本大先生とおれが同じなわけなーだろ」というのが当然の反応ではある。当代随一の才を持つ人間と、なぜ俺のような「誰でもないもの」が同類項でむすばれるような不正解を正解として書き出さねばならないのか? 
 そこで飛び出してくるのが、『熱血シュークリーム』でも取り上げられている、『バタアシ金魚』の花井薫クンである、と。(えー今更ですが『熱血シュークリーム』は橋本さんによる青年マンガ論の本です)

 ”描写によってしか語られない主人公”というのはどういうやつか? 勿論”あいつの行動ってわけわかんないわ”  ”だめだ わけわかんないよコイツ”と、ただもうひたすら言われ続ける我らの主人公、水泳部のノロマ、花井薫くんその人である。

「なるほど薫以外には誰も薫のことなんか分かりゃしないってとこで『バタアシ金魚』は出来上がってんだから、分かんない人間にゃ分かんなくたって不思議もねェわなァ」とか。(前書:272)

 

そしてハシモトはそんな花井薫クンのような”少年”であると。つまり、

 

 少年というものはパアで、バカで無能で、どうしようもなく自分勝手で、”わけのわかんないこと”だけを言って、わけわかんなくてドジばっか踏んでて思い込みが強く、根拠のない自信だけで生きてて、闘争本能の塊のくせにしかし一向に闘争の場に出会えない――そんな情けないもんが少年というやつ。(前書:273)

 

根拠のないもんは意地でも存在させるというのが少年というやつの厄介な本質でもあるからさ。この少年というやつは色々と面倒を起こすんだ。そんだけの話。(前書:274)

 

 こういう、「自己紹介乙」という文章を前にして、「それって橋本のこと(=ボクのコト)じゃん!」と口に出せない人ばかりだから、「ハシモト論」なんてものはこの世に存在しないんだ。
 橋本という「塔」を仰ぎ見て、「塔を見ているボク」でしかないボク(読者)は、橋本のことを「第三者でしかない」としてしまう。「ハシモト=ぼくらである」という、傲慢や奢り、ナルシシズムを持てないから。だから橋本はずっと孤独なまんまだし、「誤解に基づいた「俺への理解」なんていらない! 俺はそうやってずっと誤解されて、そういうことを他人からされてきた。だから俺はわけのわかんない「女のストーカー」被害に遭ったし、だからお前の(誤)認識した「おれ」なんて、大嫌いだ!」と、あらかじめそういった”誤認識”によって「信者化」してしまいそうな読者(大衆)を避けるような「わけのわからないことが書かれている」「余計なことが書かれている」『この主人公には(引用者注、『桃尻娘』の主人公)まったくリアリティーを感じられなかった(前書:272)』と、他者(あるいはストーカー予備軍)から言われてしまう。

 むしろ、橋本さんは故意にそういう行動を取って、ある種の人物たちに拒絶されることによって、パブリックな”像”としての(つまり、三島由紀夫でいうところの「プライベートな公威」に対する「パブリックな三島」という像)「橋本治」という”像”を作っていた、と。だけどそれは”平岡公威というプライヴェート”の生み出した「三島由紀夫」像でしかない。つまり、「平岡公威」という戸籍は存在するが、所詮は「三島由紀夫」という戸籍は存在せず、「三島由紀夫」という存在は、おばけのようなものに過ぎない……

 

 しかし橋本さんという人は、生まれた時から「橋本治」さんなのだからヤッカイだ。結婚することによって「新井素子」を”屋号”とすることにできた「新井素子」さんと違って、「江頭家」というプライヴェートをしまい込んで「江藤淳」というモダーンな筆名を得た「江頭淳夫」さんとは違って、「江戸川乱歩」という毛皮をまとうことに成功した「平井太郎」さんとは違って、「橋本治」でしか居られない「橋本治」サンは、プライヴェートな自分を「ペンネーム」という名の屋号の中には隠せない。だから橋本サンは他ならぬ、「橋本治」の手によって、プライヴェートである「橋本治」を文章の中に隠す。隠すというか、まあ、紛れ込ませる。おれって実はこんなヤツ。でも、ストーカー予備軍であるあなたたち、まともな対人関係も築けないようなアンタには分かられたくないから、分かりにくく書くね。こうしてプライヴェートな橋本さんは、「文章を書く」”パブリックな”ハシモトさんによって守られる。江頭淳夫を江藤淳が守ったように、平井太郎でしかない一人の男を、とても巨大な「エドガー・アラン・ポー」が守ったように。だから橋本さんは自分の作品を自分で解説をつけちゃう。「プライヴェート」な橋本を、「パブリック」な橋本が「文章」によって、”『描写でしか語られない主人公(前書:272)』”として書き出し、みずから「(パブリックな)偶像化した自身」を、これまた「パブリックである」橋本治によって再び「解説」する。そうしないと、「間違った解釈で描かれた(=ストーカー的妄想の産物である、間違ったハシモト像)「間違った橋本治」が書かれちゃう。”少年”である”おばさん”である(おじさんでもいいよ。念の為)”アナタ”に把握されている、「そんな把握のされ方されてたまるか」っておもっている”少年”であるところのプライヴェートな橋本くんは、だからして「知的な把握」をしてくる「オバサンのようなもの」がおぞましくて、自分の本を他人が解説するのが許せなくて、”パブリック橋本”として、自身の本に自身で解説をつけてしまうわけです。
(だから氏の本には他人による解説ってあんまりついてない(文庫なんかにはついてるのもあるけど)。

 で。

 何が言いたいのかというと、これ以上橋本さんを塔の上に置き去りにしたまんまにしないで、ということ。(?)「いや、塔の上でいいよ。めんどくさいしさあ。ストーカー予備軍に俺のことわかってもらおうとはおもってないしねえ……」って橋本さんがこれほど言っているのに(言ってないけど、こっちの妄想だけど)、「塔に飾っておいてはいけない!」なんて、それこそストーカー的行為なのかもしれない。でも一冊の本を読むことと、一冊の本が書かれることのあいだにあるものって、一方的な伝達、一方的な受け取りでしか無いんだよねえ、これもう結局。そうでしょ?(ああ、橋本さん……)

 そしてハシモトは言ったんだ、

 俺なんかズーッと”花井薫”で生きて来た人間だからさ。(前書:283)

バタアシ金魚』を読んでいないフトドキ者にとっては(すいません私も不届き者です)「だから花井薫ってダレ?」かもしれないが、だがしかし花井薫というのはだから、「”あいつの行動ってわかんないわ” ”だめだ わけわかんないよ コイツ”」と、他人であるもの(=おばさん的な、”非理解者”、あなたの職場の、学校の、あなたのことを「使えないやつ」「暗いやつ」「つまんないやつ」などとラベルを貼って見てくる人)から、「他人」として処理されてしまう僕たちのこと(=橋本治のこと)なんですよ!!

 

 あなたが仕事のできる人で、クラスの人気者で、他人から不愉快なレッテル貼りをされたことのない人であっても別にいい。だがしかし、「決してそう評された人が気持ちよくはならない表現」を使用しての人物像を、他人が勝手に描き、その他人が”理解しやすいように”ラベリングして勝手に貼り付けてくる不愉快なレッテル貼りをされたことのある人が、橋本治の本を理解できずに、途中で「ワケわかんない!」と投げ出せるはずがないんだ。だってそうやって途中で「わけわかんない!」とされてしまったのが、過去に、散々「他人」である「オジサンオバサン」に、レッテル貼りをされて来たわれわれであって、われわれやハシモトのことを「わけわかんない!」として途中で放り出してしまうものというのが「オジサン、オバサンというものである」と、ただそれだけのことなんですから(分かってるとおもうけどこのオジサンオバサンというのは「そういう状態にある人」という意味であり、ただ年齢を重ねたために他者からオジサン、オバサンと命名されてしまった人々、ということではない。ということではなく、”不理解者”=人のことを分かろうとする気なんてさらさら無い、分かる必要を感じていない、分からなくても一向に平気で、自身の生活を成り立たせてしまう人々のことを指す。ので、わけわかんない! と他人のことを簡単に諦められてしまう人は、十代でも二十代でも”オジサン、オバサン”である、と)。

 

「お前になんて、分かってたまるか!」というのが橋本治である、と。(あーあ……)
 そして、「僕のこの気持を、あんたみたいな人になんて分かってもらいたくない!」という気持ちが少しでもある人は、やっぱり橋本治的なのだと。そして、それでも『わかって下さいお月さま』(ああ陸奥A子先生!)、と言いたくて、「そんなキミが好きだよ」と”誰か”に言って欲しいと望んでいる人が、橋本治の「わかって下さい」を、結局必要としている……のである!(この日本語ちゃんと通じるかなあ……)

 

 そういうわけで、橋本さんもどこかで言っていたが(「橋本治は平気で男から女に変わってしまう」、と)、われわれだって実際そうなんですよ。われわれは単純に見えて(=オバサンから把握されちゃった「ボク」)、しかしプライベートでの内実(=ほんとはそんなんじゃないやい、ホントは……という「ボク」)を、裏に表に持っている、それが現代人だ。だからその表裏が混然一体となって、その中のエスが100%満たされている(苦悩がない)ように見える他人を、われわれは憎むのだ、と。(ここらへんは本書p.239あたりに詳しい)

 そして橋本さんやボクらは少年であって少女である。肉体ばかりは年をとって、みためはオジサン、オバサンになったとしても、やっぱりオジサンオバサン的な”他人”から、奇妙なジャッジはされたくない。されたくないために、「されてしまいそうな可能性のある」プライベートを隠して、パブリックを着飾って育てようとする。その相克こそがこの「ボク」だ。

 でもそんな「ボク」は、実際は居心地が悪くてたまらない。ブカッコウで、いつまでたっても風采が上がらなくて、オバサンたちに「いい年をして……」とか、おもわれたり、言われたりしているボクって結局なんなんだろう? ……橋本さんの本を読むと、そういうことが全部書いてある。「苦しいのはみんなそうなんだ」って。橋本さんもそういうふうに苦しかった。だから時々私情に走る。”オバサン”的なものはp.181あたりでメタメタに言われてしまう。

 そういう、「くるしみ」でしかない人々の手から、橋本さんは橋本さんという自分自身を守ってあげたかった。だって誰も”彼”を「そういうもの」から守ってくれる人は居なかったんだから。だから殻にこもるしかない。でもそういう”彼”のことを、「わかって下さい!」とおもうから、橋本さんは文章を書いた。そして、他ならぬ「文章」によって、橋本さんは橋本さんのことを守った。なぜ橋本治の文章はわかりにくく、そしてこれ以上無いというくらい分かりやすいのか?

 

 あなたが「少女・少年」であるとき(まあその他でもいいけど)、橋本さんの文章は劇的に「分かる(あるいは、素敵な方向に”誤解”できる)」。だけどあなたがその逆である限り、橋本治のことは永遠にわからない。

「分かってほしい。でも、やっぱり分かってほしくなんか無い。あんたみたいな馬鹿で不潔なヤローに、あたしのことなんて分かってほしくない!」

 橋本さんって、そういう人でもあるという気がします。だから、「オバサン」であるあなたには、「分からない」んです。

 終わり。

他者から見たイデア:『対談の七人』感想

 爆笑問題
 今回は、橋本治とそれから、ある一定の時期までの、爆笑問題についてのお話です。が。
 今日の爆笑問題について、何かを云々するというのは難しい(というよりどう見ていいか困ってしまう)。しかし、1998年の彼らというのは、語るに値した、あるいは一つの興味を持って、彼らの交わす”対話”について、何らかの期待を抱くに値した人々、であったのかもしれない。
 そして2000年12月、一冊の本が編まれた。題して『対談の七人』。七人の人々と、爆笑問題が対談をするという趣旨の本で、そのうちの七賢人の一人として名を連ねているのがわれらが橋本治、題しましては、『爆笑問題って小学生のまんまだからね』。これが『広告批評』に載ったのが1998年9月。そして、この小文で問題にしたいのが、この橋本治との対談の後に太田光氏が書いた『対談を終えて』なる文章についてなんである。
 その文章の中で、太田さんはこんなことを言っていた。

 橋本治さんに、「爆笑問題って小学生のまんまだからね」と言われて、とても嬉しかった。まるで自分が、橋本さんの小説の登場人物になったような気がした。
 だが、話しているうちに、橋本さんの言葉によって語られる自分のイメージと、本当の私との間にズレがある事を感じた。本当の私は、もっと嫌らしくて、老いていて、魅力がない。橋本さんの口から語られる私の方が、瑞々しくて魅力的なのだ。橋本さんが語ってくれた爆笑問題の中に、自分が目指しているものがあるような気がした(p.173)

 さて、ここから文章を進めていくにあたっては、多少慎重を期さなければならないことになってくる。なぜなら、このまま軽い気分で進めていくとすれば、この文章が安易な橋本批判にしかなり得ないというのが分かるからだ。
 つまり、こういうことだ。

 「個人的な経験」として、私が橋本治の本に熱中していた当時、彼に対しての疑問(というか、違和感)がはじめて生じたのは、『橋本治のかけこみ人生相談』(2018)を読んだ時だった。
 その疑問というのはこういうものだ。

「どうして橋本さんは、悩みを相談してくる相手のことを、「あなたはこういう人だろう。こういうことを普段考えて、だからこういうことになったんだろう」と、何でも決めてしまうんだろう。その人のことを本当に見たこともないはずなのに」
 橋本さんは時々、他人を断定する。物事を断定する。だから時に、彼の書いていることは他人にわかりやすく伝わり、「どうしてこの人はこれほどまでにすべてのことが分かるんだろう?」と尊敬の念を抱かせてしまう。しかし、自分自身のことについては別だ。橋本さんが、他人から「橋本さんって○○でしょ」と言われると、「そんな見方してほしくない! そんな把握のされ方されてたまるか」とでもいうように、鵺のように自身を様々な手法によって雲隠れさせてしまう。そんなのってないんじゃない?……と、いうような疑問が、過去の、読者であった私にあった、とする。すると、思考の矢印はどこへ向かうか? 太田さんが「対談を終えて」で「ズレがある」と露見させてくれたことに対して、鬼の首を取ったかのように、「やっぱり断定された方の心情というのは、あなたの決めつけた状態とは違っているじゃないか! やっぱりあなたの断定調の論は、驕りを少なからず含んでいる。それは、「自分ならば他人の考えていることなどすべてわかる」というような傲慢だ!」……
 と、いうような調子でこの文章を進め、結論づけてしまうこともできる、ということだ。それは安易な誘惑ではある。が、しかし、私はここで橋本さんのそういった方法を否定するような段は、もう通り過ぎてしまったと感じる。

 たとえば、人が物事に陶酔する際に陥る過程というのは、こんな段をとっていく、とする。

 憧れ→対照化→否定→卑俗化→許し→定着、再評価→恒常

 憧れ(好きで好きでたまらない)→対照化(しかし彼も大勢の他の事物と同じ、ひとりの人間に過ぎない)→否定(そういえば彼のこういうところが気に入らない。やっぱりこんな人間を崇め奉っていた僕が間違っていた)→卑俗化(結局彼も私のような凡人と同じ”人間”に過ぎないんだ)→許し(しかし、そんな彼だからこそ私はその価値に憧れ、認めたのではなかったのか)→定着、再評価(やっぱり私は彼の欠点を含め、彼のことが好きだ)→恒常(そうなんだ、彼ってそういうダメなところもあるけど……でも、良いところもあるんだよ)
 と、いうような……一連の過程を経ていくと。(こんな仮説を立てたらそれはほとんど『だめんず・うぉ~か~』の体をなしてしまっているがでもやっぱ人が人を好きになるって、ダメなところを含めてそこも好きってなんてしまうものでは? とかおもったりもする)
 で、私は、橋本さんの(作品については)すでに「否定」から「許し」、「定着」の段階まで展開してしまっているので、彼を100%否定するという結論は作りにくい、と。
 では、否定という調を取らずに肯定の方向でこの文章を進めていくとすれば、どのような結論が得られるというのか。
 はっきり言って、バカの一つ覚えみたいで申し訳ないんだけど、ここでも橋本さんは、「パブリックとプライバシー」である。もうこの方程式に当てはめれば、橋本治三島由紀夫のすべてはある一つの方向においてであれば話せてしまうと言うほど、この方程式には利便性と永続性がある。
 つまり、太田光さんもいうとおり、ハシモトが断定するものの全ては、その物事、人物の”パブリック”としての正しい場所のことを指しているのである。だから、太田さんは、その橋本の見立てと、自分の中での自己評価に”ズレ”があると言ったのだ。
 それもそのはず、太田さん自身の見る太田光とはそのもの”プライベートな”太田光であり、橋本さんが断定した太田光というのは”パブリックな太田光”の方だからである。
 自己評価と世間の見立てがズレるなどというのは、これはもう当たり前の話であって、だからこそ太田さんは橋本の見立てに対して「自分が目指しているもの」の姿を見るのだ。
 ここで一つの断定をしてみる。つまり、橋本さんというのは、「イデアの人」である、と。
 橋本さんの見る、そして断定する物事というのは、その物事の「イデアの姿(=そうあるべき理想像)」なんである。だからハシモトは平気で物事を断定する。本当は、もう少し慎重になって答えを出さなくてはいけないものについても、「○○って○○ってこと。そうでしょ?」って決め打ちしてしまう。
 一見するとそれは独断的であり独善的ですらあるように見えてくる。が、しかし、それは本来、プライベートな場所に対する断定では決して無い。「あなたにもその理想像に向けて、つまりプライベートでしかない、つまらない”自己”というものを、少しでも理想像(=イデアとしての自分)に近づけていこうよ」という……人間愛……なんですよ……橋本さんの断定というものはァ……!!(こりゃあ否定→からの信仰という裏ルートに入ってしまいましたかな?)

 もちろん、決めつけられた方はたまったものではないかもしれない。批判的な断定をされれば、「なんだ!」ともおもうだろうし、そこまで自己というもののパブリックとプライベートが離れていない人なら「橋本さんってどうしてこんなにボクの気持ちをわかってくれるのかしら……」と、平気で他人(橋本さんね)のことを、「宗教」にしちゃう人もいるのかもしれない。
 で、あるからして、この文章はどう結論付けられるか?
 他人との距離の置き方に気をつけましょう。これである。

 今はどうだか知りませんが、”この当時の太田さん”には、その分別があった。ハシモトが「きみってそうでしょ? こうでしょ?」とお得意の断定で話しているのに、「僕ってそうじゃないんだけどな……」とおもえるだけの(そして文章にして表せるだけの)、自己という名のプライベートを、一人ひとりが、本当はきちんと持っていなくてはならない、ということなんである。
 そうでない人は、簡単に他人の意見に自己が飲み込まれ、いつしか他人に作ってもらったイデオロギー(近頃はイデオロというよりもイデオロもどきかもしれないけど)のみを自身を形作るアイデンチイチイとして生きていくことしかできなってしまうというような、悲しい生き物になってしまう。そのイデオロの中で揺蕩っているのは安楽かも知れないが、その姿は、他人から見れば、大きくなってもママのベッドで一緒になってねむっているような、年老いた赤ん坊のようにグロテスクである。
 みんなも「嫌らしくて老いていて醜いだけ」のプライベートを、パブリックとしてのイデア像に少しでも近づけるよう頑張ろう! という「しゅうぞうしい(@新すぃ~日本語)」お話でした。

 おわり。

 

-----*

おまけ


 太田さんの「対談を終えて」の文章はそして、こんな文章で締めくくられています。

 対談が終わった後、「橋本さんは二人(引用者注、爆笑問題の二人)に是非あげたいものがあると言って、私達に、小さくて、美しい、折り畳み式のナイフを一つずつくれた。(p.174)

 どうですかこのリリック、リリカルなさまは。たとえば橋本さんと太田さんのこんな会話。

編集部 太田さんは、本をよく読まれるようですが、それでも、いわゆるオタクとは違いますね。
橋本 オタクになりかけると自己嫌悪が起こるってたちじゃないかと思う。
太田 メジャー好きですけどね。
橋本 君のどこがメジャーなんだっていうのもあるけど、でも、メジャーだと思いこんでるでしょ?
大田 はい(笑)。
橋本 それをムキになって言うもんだから、人はかえって冗談だろうと思うという。でも、それってまんまオレだったりして(笑)。
編集部 似た者同士だったりして(笑)。(前書:167)

 しかしまた二人は全くかけ離れていた。『タイタンの妖女』のラストを、大田は「くだらない」と言い、橋本は「美しかった」と言った。そして、そのラストを読んで気が楽になって、感動したという大田に、橋本は、

橋本 人間はラクでいいって偉大だなあと思ったもんだから、僕はお笑いじゃなく作家になっちゃったんだ(笑)。ヴォネガットって、なんかいつも感動するの。 

更に、

橋本 くだらないっていうんじゃなく、美しいと思っちゃうの。

 そして編集部。

編集 それがわけたんですかね、二人の道を。
橋本 だと思う。くだらなさをとるか感動をとるかで。(笑)

 そして太田さんは、「対談を終えて」で、こう書いたのだった。

タイタンの妖女」のラストシーンを橋本さんは、美しいと言った。私はくだらないと言った。後日私は、くだらないからこそ美しいのではないだろうかと、ふと思いつき、あの時橋本さんに、そう言えたらよかったと後悔した」(前書:174)

 ある一定の時期まで、太田光は確実に橋本治だったが、歴史のどこかで違ってしまった。ふたりともお笑いが好きで、ヴォネガットが好きで、お互いのことが好きだったのに。
 ちいさなポケットナイフのことをリリカル(あるいは一種のセンチメント)を感じる感性が二人には共通していた。一方はそれを似絵だとおもう人に「贈る」ことによってそれを表現し、一方はそれを「贈られた」ということによってそれを受信する感性を持っていた。だから太田さんはそのナイフのことを「美しい」という。同じものを美しいと思える気分が、その頃の二人には共通していたのである。

みんなで踊りたい橋本と、踊らない人々:『ロバート本』感想②

 ”ひつっこい”ようだが、橋本はどちらかというと炎上したくても出来ない人である。他人から”してもらえない人”である。であるからして、「いいけど別に」とか、「どうでもいいけど」とかいった文言を、文章の語尾によく付けてふてくされている。彼が、「俺がこれだけ過激かつみんながおもってても言わないことを言ってんだから、反論してみろよ! あんたに反論の余地あんの? ないでしょ?」とほとんど喧嘩をふっかけるかのように挑発しているにもかかわらず、である。
 おもうに、あるひとつの文章や意見に対する、文章や言葉によっての反応というのは、現代においてはほとんど、熱いものに触ってしまったときの「アチッ」という脊髄反射のようなものに成り果てているので、熱いものに触ったところで、「何故私はこのようなものに触ってしまったのか? 何故私はこのような熱いものを熱いと認識できるのか?」などというような反省をしている暇など(頭など)なくなってしまっている、ということなのである。
 世はまさにスピード時代。しかし、まあ、こんなことも三木鶏郎の時代から言われていたことではあって、今に限定した話でもない(みんなで『冗談音楽』を聴こう!)。
 で、である。
 今や人々は「バカ」と言われれば「バカっていうお前がバカ!」、「アホ」と言われれば「アホっていうお前がアホ!」などといって、引用リツイートだなんだのといった他人に作ってもらったフォーマットを安直に利用して精々微細な反応をすることしかできないが、それではなぜ橋本が「反応」してもらえないのか。
 橋本が、「そんな下らない反応だったらいらない!」と考えているからである。
 ……という断定が、一つの答えと成り得る可能性もあり、既にしてそれが理由としてきちんと用意されている感もある、が、だがしかし、これほど「みんなで楽しくやろうよ」としている「孤独な」橋本が、それであるがゆえ(=つまり橋本的韜晦さ、分かりにくさ(反応のしにくさ)に、人々が彼に「反応」してくれないという、この寂しさ、虚しさは何とした。何とする。どういうことなのだろうか。(もっとも、橋本ほど分かりにくくてしかし分かりやすい説明(腑に落ちる説明)をしてくれる人もあまり居ないわけですが。)
 つまり何が言いたいのかというとこれである。
『ロバート本』における『39=再び作家の一日『こんどはカッコいいぞォ!)』からの一節、

『みんなで踊ろう? 踊り教えてあげるから』(前書:260)

 これである。もうこれでキマリ。
 橋本治とは何だったのか? 
 その答えは、ほとんどこの一文で説明できてしまうほど、この一文は真理を究めている。
 橋本治とは何だったのか? 
 人々に、「踊ろう!」と言い続け、「その踊り方を教えてあげる」としたが、人々は橋本の説明する踊り方がやっぱり上手く分からなくて、橋本と一緒に踊ってはくれなかった。橋本の悲しみ、孤独とはそれである(キマったね)。


『私としても、実のところ、まァ、何が不満で怒ってばっかりいるのかよく分かんなかったこともあんだけどもサ。自分と現実がせめぎあってニッチもサッチモいかないところで爆発したい。バカらしさというものを、私は、実は実に、長い間持続させてたんですね。
 結局のところ、私は踊りたかったという、そんだけの話なんすがね』(前書:256)

『俺は別に、プロの踊り手になりたい訳じゃない。みんなと一緒に踊ってたいだけ』(前書:256)

 しかし人々は踊ってくれなかった。9000千枚もの『窯変源氏物語』を完成させた橋本の目に飛び込んできた唯一の書評は、「余計なことが書いてある」だった。だから橋本は「あっそう。それならいいよ」とおもった。でも踊ることは止められなかった。それどころか、益々「踊りたく」なって、わざと、これから価値の下落することが分かりきっている不動産を買ってみごとに借金を作って、それをブースターにして、狂ったように原稿を書き続けた。さながら『赤い靴』の女の子みたいに。

 彼は踊り続けたんだよ! 誰も見ていない、しかし「誰かは見ているであろう」舞台の上で。
 言いたいのは、彼にだけ果たして、踊らせているだけでいいのかということ。「教えてあげるよ」と言われているんだから、「踊り方」を教えてもらわなきゃ。これが本当の「相互反応」「弁証法」というものだろう。引用リツイートだけつかって、人の意見をダシにして毎日一人でブツブツ言ってるのなんて不健康だよ橋本に言わせれば……(橋本「弁証法だぜ、人生は……」)

 終わり。

自分を愛するあまり攻撃的になってしまう人について:『ロバート本』感想①

『ロバート本』(1986、文庫では1991)を読んでいる。橋本の本の中でも自由度が高くまるで高級な便所の落書きかどこかのブログの個人的な記事を延々と読まされているかのような読み心地がある。読書としては面白く、橋本の内省するようにその内容は殆ど『近世名勝負物語(p.119)』だが(黒澤明クリムトという「どこに接点が?」というような組み合わせで女性嫌悪と大男の心情についていってみたり(黒澤、クリムト、ついでに橋本も、大男、という点においての共通がある)、『香華』(1964、松竹)のキャスティングは母と娘の配置が逆だろうといったりしていて(激しい母に振り回される娘という設定で、母を乙羽信子、娘を岡田茉莉子としているが、それって逆だろっていう(勿論年齢については言及しつつ)、おもしろいのですが、どの内容にもうっすらと漂ってくるのは、彼お得意の(って言ったらアレだけど)、というよりはうっすらでもないアレである。
 つまり、

『こないだまたひどいブスに会ってサ、』(前書:148)

 とかいうような描写、書きぶりの、露悪的なアレである。
「ハシモトオサムは○○(なんでも好きな言葉を当てはめてください)に関しても理解のある人」などという一部認識があるのか、ないのか、知らないが、彼は自書でそういう認識を蹴飛ばすようなことを「わざと」書いている。(『学問してるブスって最悪ね』(前書:149)とか)
 まあ、このように前後の文脈を無視してこうした言及だけを拾っていくことはそれほど趣味の良いものではないし、しかし別にそういう挑発(?)にあえて乗っかって、色々とそれをさかなにしてなにかしらの文章を書こうとしているわけでもない。

 橋本が、「俺はこういう人なんだよ」調で論をどんどん進めてしまうのに倣って、こちらの勝手な憶測と断定で誤解を恐れずに短く話をするのであれば(橋本だって、『”理念”なんぞというものはハエの存在であるからして、これがいつ”妄想”というものに変わってもおかしくはない』(前書:124)と書いてます)、こうなる。
 つまり、
「橋本さんって”女”というものに嫉妬しているのでは?」
 これだね。もうこれでキマリ。(橋本さんの発言に倣って、これがこの文章の目的、理念だと仮想するのであれば、この言葉は「理念」と書いて、「もうそう」と読むことも可能ということですね)
 そして、彼が『頭の悪い学問ブスのエバることエバること』(前書:152)に耐えられなくて、あのような文章(『21=日本語から心理学を排除しろ』(前書:148-152)を書いてしまうのは、「もしかしたらそうなっていた(自分が該当コラムの中において否定している女性像)かもしれない女の身の僕」を想像してしまうからではないか。(あーあ)
 彼が、『21=日本語から心理学を排除しろ』の中に出てくる女性像を罵倒する姿は、”橋本治”という「自身の在り方」を愛するあまり、解釈違いの「俺」という可能性を、別性のなかに垣間見てしまったときの、「自己愛の人」の、「他者の中にあり得たかもしれない自身の最悪の顕れ方」に対する拒否反応のようにもおもえてくるのですが、こんなことは「考えすぎ」なのでありましょうか? このコラム(『21=日本語から心理学を排除しろ』)の中にあるものは、差別的な「ブスのくせに!」「馬鹿のくせに!(は、あるかもしれないけど)」「女のくせに!」ということではない。とおもう。多分。そうではなく、ここに存在する、あるいは存在してしまっているものは一種の恐怖、または「羨望」なのではないか。
「こっちは人から好かれるために、仲間に入れてもらうのに、どれだけ骨を折ってきたとおもってるんだ。それなのに、お前たちは、おのれの「ブス」と「女」を”利用”して、他人に好き勝手言って大いにエバってそれで、

近代という幻想の保護施設(傍線引用者)の中じゃ”ブス”っていう格差を承認するような言葉はタブーなんだもんね。それを承認したら”ここは平等であることを前提にしている”っていう幻想が壊れちゃうからね』(前書:150)」

「あーあ、あんたたちは、「女である」「ブスである」という「弱み」を「強み」に変えられて羨ましい。男であるこっちはそんなラッキーアイテム備わってないもんね」

……と、いうことに過ぎない……のではないか。そして、彼にはこのようなチートが我慢ならず、(だって俺は男であるという限り出来ないんだもん!)だけど「こんな汚いことができる「女」じゃなくて良かった!」……と。もちろん、”橋本治”についての話であるので、こうした「断定」はもちろん避けるべきでありますが。

 つまり、「そういうこと」なんである。橋本さんも男の身であって苦労している。しかし平気で、「あー俺、男で良かった!」とおもっている。
 ということで、こういう文章を読まされた女性というのは、そしてこういった文章に「はあ?」となった女性というものは、「ああそんなに女という身が羨ましいですか」というような態度を取っておけばいいとおもうのですが……どうでしょう。(最終的に弱気、なぜなら、橋本の言でいえば、

『基本的に、大男の心理構造というのは、女のそれとおんなじなんだと思うんだけどね』(前書:136)

 余談
 『ロバート本』はおもしろいです。たとえば『(吾妻ひでおは)『めぞん一刻』を描かない高橋留美子なんだもの』(前書:111)とか『吾妻ひでおは、『めぞん一刻を描けない人じゃないんだもの』(前書:111)とか……

 ということは、吾妻ひでおの『めぞん一刻』が『アル中病棟』だったのかもしれないな……とかおもったりしたのでした。

 おしまい。2021.11.11

『虹のヲルゴオル』感想

 

『虹のヲルゴオル』は、大女優の「どうして誰も私のことを分かってくれないの?」のジレンマ、虚像と実像の隔たりを「〇〇って〇〇なんだよね。そうでしょ?」ってハシモトが言い続ける本で、大女優ってのはそういうアンビバレンツ(?)のもとに輝く光であるので「女優の実像を喝破してやったぜ」ではなく「女優とはそもそもこういう状態である。だから彼女たちは「良い」でしょ?」っていう現状肯定(=人間讃歌)であるのだ、という読み方はじゃっかん肯定的というかあえて露悪的になりがちになる読み方に蓋をした読み方だが、こういう読み方もしたいというか「そう読ませてくれ」という向きがある。

 この本はすべての美しい女の Happily ever after...を「いや、違うでしょ」って水を差し、その後が大事なんでしょっていう、実に現実的な見方を提示する。こういった方法は現代的であるがゆえに「現代のわれわれ」が読むとものすごくまっとうなまとめられ方、理論の進め方がなされているとおもうが、だからこそ「まっとうすぎるな、ちょっとな……」という正統ゆえの窮屈さもちょっとある。論がかっちりはまりすぎていて。

 そしてこの本で展開される「普通の女」論、これは本書で取り上げられる一部の大女優を、橋本が「でも彼女も普通の女なんだよ」と説明してくれるという大変ありがたい高説なのだが、実はこれは大女優のことだけを指しているのではなく、橋本はそれを自身のこととしても説明しているのだ(という説で進めていきます)。

 

「(オードリー・ヘップバーンは)女に関するまったく新しい解釈を示したっていうこと。(オードリーの)出してきたものは”少女”っていうものだった。(p36)」

 

「マリリンのやったことは「胸があったって普通の女よ」っていう、そういうこと。「女って、別に肉体だけの存在じゃないわよ」ってことを分からせるためには、”肉体だけじゃない、だから肉体がない”オードリーと、”肉体だけじゃない、そして十分に肉体のある”マリリンの両方が(自分がスケベであるということに傷ついている男の子には)必要なんだ。(p37)」

 

「分かるでしょ? マリリン・モンローっていうのはさ、エロチックなカバーをつけられちゃってる「若草物語」なんだよ!(P39)」


 まあつまりマリリン・モンローは橋本である。いやこれほんとハシモトさん自分のこと言ってんのよ、分かるでしょ? たとえば、

「分かってもらえない悲劇っていうのは結構多いんだよね。悲劇の全てはここにあるって言ったって過言じゃないくらいのもんなんだけどさ、やっぱりそのことっていうのもまた分かられてはいなかったりするんだよね(P43)」

 

 これ自分のこと言ってるでしょ。でもまあ彼の論はだいたい他人のことを示しているようで自分のことを言ってるんだけどさあ、この本に限らず。
 この徹底して「女」を「神話」にしないところが橋本が橋本たるゆえんというか。
 橋本は、人々がシンピを抱いていたい女のことをすぐ「普通の人」っていう。
 橋本が、「私のいう『普通の女』ってのは世間一般での普通の女とは意味が違うかもしれないけどやっぱりジャンヌ・モローも普通の女」とか言ってしまうのも結局自分のことを含めて言ってるんですよね。
 つまり、この「普通」というのは、どのくらい「自分」という存在の「表現」に忠実になれたかってことだと思うんだけど。
 彼が「普通の女」と称したその女達(山口(百恵)、モンロー、モロー)は、自身を「他人に向けられるための表現としての女」として作るため、成るため、達成するために行動を取り、その行動によってたらしめたものが他人に提示されるための「山口、モンロー、モロー」という結果として残った。そしてその結果を「神秘」「伝説」「神話」として称賛するのは一般大衆(男と言い切ってもいいが)である。しかし彼女らのやったことは決して「称賛されるべきもの」ではなく、「山口が、モンローが、モローが」「それ」であるためにしなければならなかった「行動の群」であるに過ぎないのだ。
 人が物を食べないと死ぬように、寝なければ死ぬように、彼女らは「そうしないでいなければ彼女らではありえなかった」ので、それを行ったに過ぎないが、他者から見れはそれらの行動は大衆的視線においての「神秘」「伝説」「神話」としての効果を十分に発揮しているかのように映るので、彼女らを称賛し、めったに行い難い出来事を創造したとして崇め奉ってしまう。だからこそ、それらの行動を「普通の女の行動だ」として喝破するなどということはとてもじゃないけどできない。
 しかし、「自分を自分たらしめること」のための行動をしていた個人が他者から見れば「神秘」になってしまったということを、「それは普通だ」というのは間違っているわけじゃない。だから橋本はそういう「伝説の女」を「普通の女」と言い切ることによって自らのことも言っている、のではないか。つまり「俺って頭いいし、変なことばっか言ってるけど、でもこれが(俺の)普通なんだよ」って。だからやっぱ橋本も(そういう意味では)普通の男なんですよ。本人も再三言ってるけど。(言ってるか?)
 中島某のエッセイの中で「あんまり人に変だ、変だって言われてほんとめんどくさいんで、もう開き直って髪型をわざと変にして「私は変である」ということをアピールしてます。自分では自分のこと変だとおもったことないけどね」っていうおじさんが出てきたことあるけど、橋本さんってほんとそんなかんじだよ。(つまり変であるがゆえに普通だが普通であるがゆえに変ってことですよね)
 つまり「山口百恵は普通の女である」って言っちゃう「橋本治は普通の男である」ってことなんですよ。変なこと言ってるけど。(でもこれも普通のことを言っているに過ぎないんですよ)


 さて、神話解体したら結局こんなもんだよっていう帰結はもはや現代に置いての常道であって、であるからこそ反対に、「夢見たっていいじゃない!」の人々は益々「神話創造」にいそしむ。現代にそっぽを向いて幻想の女/男に走る(Vtuber、P活、おじさんによるおじさんのためのエロチャット)。
 それでは『山口百恵は菩薩である』を解体して『山口百恵は普通の女である』をした後に何が待っているのか? 『ゴミ捨てに行く百恵』という週刊誌の写真を見るのと『篠山紀信の百恵』を見るのと、どちらに重く価値を置くのか? 

「両方大事だよ! どっちもやっぱり『山口百恵』でしょ? そんな君が好きだよ」って言ったのが、本書『終電車』の項におけるトリュフォーとドヌーヴの関係である、と。年取った君も若い君もどっちも素敵だ、どっちも映画の中で撮ろうね、と。これをして、やはり全体をしゅくふくすることが結局肝要なのだと結ぶのならこんな行儀の良い答えもないけど、このような結論を「模範的、優等生的帰結だ!」とするから、そういった帰結を蹴って、片方の「神話創造者」は現実を見ない幻想へ、片方の「神話解体者」は露悪ばかりが目立つ現実へ(しかしこの場合、露悪的であればあるほど現実的だと信じ切ってしまう傾向があるので、むしろ幻想よりも幻想寄りの”一部ファンタジーとしての現実感覚”にもなりかねないところがまた……)舵を切ってしまうんじゃないかという恐れもある。
 みんな極端になりすぎですね(自戒も含め)。極端なものはわかりやすいから仕方がないところもあるが、この幻想と現実という二つを合わせるともっと面白い何かが出てくるかもしれない。というのもある。しかし忙しい現代人が「物事はそこそこ面白ければそれでいい」という価値観を支持するのであれば現状というものはやはり限りなく正しく行われていると言っていいのかもしれない……などとみだりに俯瞰した物言いをするのも危険ですが。小津安二郎だって「人物をみだりに俯瞰するものではありません」と言っていたではないか。つまり何かを知り尽くしているかのように俯瞰してすべてを眺めるのは悪い癖である(別にそれが間違っているということでもないけど)。これが行き過ぎるとクレーンとミゾを使って人間を上からか下からかしかみれない溝口状態になるので注意が必要だ、つまりわれわれは状態を俯瞰しつつ、大地に身を置くしか術はないのであるという溝口健二状態注意喚起ENDでお粗末。