酒呑みと烟草喫みの文章は……

 

 

まあ、他人がどう思っているかは、知らないけども、世の中には確実に、煙草喫みと、酒飲みの文章というものがある、と。
もちろん両党という人もあろうし「酒や煙草なんて税金を飲んでいるようなもの」とするひとがいても、一向に構わない、というところに来て、今現在の私という書き手はまたしても酔っ払っていて、その酔いをガソリンにしてこのような益体も無いものを書いているんであるが、酔っ払いに付き合わせてすみませんね。でもねーもうねー飲んでないとねー辛くてね色々…

 

この小文で私が発言したいことは少ない。がしかし言いたいのは、これである。
吉田秀和は下戸だった。
吉田秀和というあの名文家は、下戸なんである。これは吉田さんが集英社から出ている本で言っていた。(酔っ払いなのでいちいち本の題名は明記しない)
私は下戸だ、と主張する文筆家は少ない。もちろん私の貧しい観測内においてのことではあるが、しかし煙草飲みと酒飲みの文章というのには、私は、明確に差異があるとおもう。
めんどうなので端的に言ってしまうと、煙草飲みの文章というのは、すでにして酔っ払っているのである。
翻って、酒飲みの文章というのは乾いている。

 

酒飲みの文章と言ってすぐに思いつくのは、私の場合は新井素子とか中島らもとかで、とにかく乾いているのである。言ってしまえばハードボイルド、固ゆで卵なのだ。
煙草飲みの文章といえばそれは橋本治で、かれの文章というのは、まあ人によって様々な意見があるだろうけども、とにかくある一定の基準というものを、下がらないような文章を、書くんであった。
この違いとは何か。
酔っ払った機能しない頭で考えるに、それは、自前で酔えるか、酔えないかの違いであると。
煙草飲みの人の気持ちを私は寡聞にして理解しないが、ある人は「煙草をのまないとイライラする」と言っていた。
私は酒飲みであるが酒を飲まないでもイライラしない。それは私が中途半端な酒飲みであることの証左でもあるが、私の場合は酒を飲む時は「嫌な気持ちを散らす」ことを目的としていることが多い。これは、酒の味を楽しむ、酒の場を楽しむなどという有意義な飲み方とちがって、実に吾妻ひでおひいては『アル中病棟』的飲み方であるとの自覚があるので決して推奨されるようなものでもないが、とにかく酒飲みにも煙草のみにもそれぞれに目的というものがあってそれぞれを飲んでいるに違いなく、それらを行わないというひとにももちろん、目的、理由というものが存在する。
私は煙草をのまない。理由は、税金を燃やしてのんでいるのと何が違うのかよくわからないから。
もしも私が1947年に20歳だったら、煙草をのんだとおもう。敷島とかを吸うのである。
しかしながら、私は1947年に20歳ではいられなかったので、やはり煙草はのまない。燐寸で煙草をつけた時に吸うリンの酸っぱさも知らない私が、今現在煙草やiQOSを吸ったとしても、それらの「経験」は得られない。だから、煙草はのまない。(単純に金がないというのもある。)
話が逸れ始めているが、とにかく私は吉田秀和さんの文章を読んでいて、そこで「酒は飲まない」という記述にぶち当たって、びっくりして酒を飲んでしまったのであった。
吉田さんの文章というのは迷宮に似ている。
プルーストにも似ているし、吉田さんの文章の北極には吉田健一がいて、それよりかは、吉田さんの文章というのは噛み砕きやすい。
しかし、その塩梅が、唯一無二なのだ。


私は江戸っ子のしゃぺりも語り口もみんな好きで、役者の牟田悌三(荻窪出身らしい)の語り口なんか、武者震いする程好きだ。池波正太郎の日本語なんか、頭痛がする程好きである。(とりわけ、随筆。)
そこへ来て吉田さんというのはあー、畏れるなかれ、日本橋の生まれで、江戸っ子ここに極まれりという人だが父親の仕事の都合で学生時代の一時期は北海道にいたそうだ。
私は吉田さんの文章というのが三国一好きだ。ちなみに高畑勲という人(ということもないが)の文章も好きなので、私は東大仏文科卒業生の書いた文章というのが好きなだけのただのスノッブだが、(……)かれらの文章というのはとにかく私ごときが今更言うことでもないが抑制がきいていて、静かで、落ち着いていて、しかも火を絶やさないというような、暖炉の中の熾火みたいな文章なのだった。
私は、高畑さんが酒飲みなのかは知らないが(ただ愛煙家であったことは事実)、彼らというのは実に、頭の中に「酔い」を飼っていて、それを自在に提出する。そして、その酔いを煙草という「神経をキリリ」とさせるものとドッキングして、その塩梅を、バランスをとる。その平衡感覚を、つまり私は東大文学部(!!)の、文章家のバランス感覚を愛していて、それで、橋本治を愛したり、吉田秀和を愛したり、高畑勲を愛したり、しているんであった。
酒飲みは煙草のみに憧れている。
まあ、そういう話でした。
酔いも覚めたのでおわり。2026.08.23

 

追記:私はこの文章で吉田秀和を煙草のみと決めつけているがそんな事実を私はかれの文章から読んだことはないのに気づいた。酔っ払いの勢いというのはかくも無責任なのか…(なのかってオイ)

オナンの末裔である我々はどのような基準において自らの恋愛対象を定めるか:『失われた時を求めて第二篇 花咲く乙女たちのかげにⅡ④』雑感

 

 

えー、まず、註。
・今現在の私はワインによって酔っ払ってます
・性的内容をふくむためR-15位の感覚で考えてください(まあ別に大したこと書いてないけど)

 

 えー、私という個人は実にネット弁慶であるため更にパロールの人ではなくエクリチュールの人なので文章においては性的内容をふくむ話も何の臆面もなく話しますがそれは私にとって性的行動というのはかなり「実証」ではなく「観念」としてのそれでしかないという「虚実」でしかないためにこういった恥も外聞もない文章を打てるというわけでありましてさらに私は大変、安酒によって脳をアレされているため、しらふに戻った際にはこの文章を修正するという未来がありえるはずなので、とにかく今は酔いに任せて「ユリイカ!」した内容を忘れないうちに書き留めているというドキュメントなんであります。

 

 つまり、私は今現在『失われた時を求めて』を読んでいる、いや、眺めているわけなんでありました。
『失われた時を求めて』というのは言わずとしれたマルセル・プルーストによるもしかして世の中で一番長い小説であるかもしれないあれでありまして、私はそれを集英社文庫版と光文社古典新訳文庫とを交互に「眺めている」今現在なんであります。
 で、今日、私はワインを飲みながら『失われた時を求めて第二篇 花咲く乙女たちのかげにⅡ④』を読んでいたんでありますが、そこで語り手(主人公)が語ったある一行が、酔っ払った私の頭にバチーンと飛び込んできたんでありました。

 

 それは、こういう一行――

 

 アルベルチーヌは育ちが悪いというより、かなりいい部類だと思ったのだ。結局彼女の顔で際立ったところと言えば、かなり炎症の痕が残るみっともないこめかみであり、私がそれまでずっと何度も考えてきた独特の眼差しではなかった。
(光文社古典新訳文庫版、高遠弘美訳 P557) 

 

 酔っ払っている私は、ほとんどすべての前提をすっ飛ばしてこの文章を書いていて、しかも私などという人はプルーストという作家に何の親しみも愛着ももっていない読者失格のていたらくであるから、偉そうなことは一文字も言えないのであるが、しかしそれでもプルーストという作家は説明の作家ではなく「読即了解(よめばわかる)」の作家だとおもっているので、くだくだしい説明はしない。

 

 つまり、アルベルチーヌというのは語り手(あの有名な、マドレーヌを紅茶に浸してすべてを思い出したおじさん)の想い人である、と。
 で、そういう語り手は、自分の気になる女性のことを、「みっともないこめかみ」を持っている人だと供述(!)する。
 酔った私はこの供述を読んでははーんとおもった。
 そうか、分かったぞ。
 誤解を恐れず言ってしまうと、プルーストを読む快楽というのは、一種のオナンの行為の延長線上にあるのだった。
 このようなことは多分プルーティスト(ナイアガラーみたいにプルースト愛好家のことはなんていうんだろう?)(プルースティアン "Proustian" らしい。)たちには周知の事実なのかもしれない。そんな、今更鬼の首を取ったかのように言われても……というところかもしれないが、とにかくプルーストというのは、読んでいて、あるいは眺めていて、なんとなく心が落ち着くのである。その「流れ」に、読者自らの人生が乗り切れていない場合は、「どうでもいいことをだらだらだらだら書きやがっていい加減にしろ」というところかもしれないが、自らの感受性の流れがプルーストの速度に合っている(または合わせている)と、プルーストの文章というのは、とにかくノイズがなくて、眠たくもなければ興奮もない、そう、まるで自分が天界の人間になって、天人の甘い退屈を噛んでいるかのような薄い快楽が全身に広がることうけあいなのである。
 と、いうところで、私はまだ四巻までしかこの大河小説を読んでいない身の上なんであるが、それにしてもやはり、語り手やスワン(第2巻の主人公、高級娼婦オデットとの恋に悩むがその後オデットと結婚し、一女をもうける)というのは、自身のことを「神」あるいは、「神に疑似したもの」だと自身を思い込んでいる。であるからして、彼らの恋愛対象となるものは、「美のほつれ」を有した女性でなくてはならない。なぜなら、完璧な生を擁する自らの鏡として、「美のほつれ」を有すような女性に恋することで、彼らはようやく、自身の生を「完璧な神に擬似した生き物」ではなく、「生身の人間」として把握できるからだ……

 

 完璧な人間であるスワンは、オデットという欠点だらけの女を愛したことで、「なんであんな好みでもない女を愛してしまったんだろう!」と自嘲する。そして語り手もまた、アルベルチーヌという「みっともないこめかみ」を持つ女性が気になって仕方がない。彼ら完璧を擁する(と、自分自身で思い込んでいる)、”オナン”の末裔たちは、完璧を欠く他者=女性を得ることによって自らを人間化しようとする。自らの退屈な「生」の張り合いにしようとする。彼女らは彼らのおもいどおりにはならない。だからこそ、彼らは彼女らの中に「社会」を見る。彼女らと関わることによって、社会的男性を獲得、あるいは回復する。彼らという「個人」でしかないものは、彼女らという「社会」というままならなさをおままごとのように使用し、それを「恋」、「愛」と加飾し、みずからの生を、あるいは「性」を慰める……そのありさまを眺めるのが「心地よい」あるいは、自己憐憫化することによって、われわれはプルーストという読書体験から快楽をかすめとっているのではないか……


 僕は何も、「自らの半欠け鏡である女性を使用してセルフプレジャーを達成することを恋愛などと嘯くな!」と怒っているわけではない。恋愛小説なんてみんなそんなもんであって、『嵐が丘』だって『チャタレー夫人の恋人』だってみんなそうなんであってね。


 地面に穴掘っていい塩梅になるなら、それはそれでいいとおもうんだけどね。誰にも迷惑かけないし。
 というわけで、酔っぱらいのたわごとでした。
 酔いも冷めてきたし、今夜はこのへんでお開き。

2026/08/18

 

太宰治と三島由紀夫の死後対談……ごっこ

 

 

太宰治と三島由紀夫が対談をしています。(ふぃくしょんです。)

 

 

 

 

 

 

太宰「お久しぶり。」
三島「どうも。」
太宰「どうですか。やってますか。」
三島「ぼちぼちですね。」
太宰「最近は春めいて。」
三島「春というのはなんだかどうも厭らしいね。」
太宰「そうかね。」
三島「生ぬるい風なんかが吹いてくると、どうもね。」
太宰「それは分からなくもない。」
三島「太宰さんは、春生れですか。」
太宰「どうして。」
三島「なんとなく。春生れという顔をしている。」
太宰「僕は6月です。」
三島「じゃ、春だ。」
太宰「夏だよ。」
三島「僕は冬。1月。」
太宰「ああ、そういう顔だ。冬という顔をしている。」
三島「太宰さんは、僕が夏生れだといえば、そういう顔をしているというんでしょう。夏生れという顔をしている、どうも暑苦しい顔だ。(笑)」
太宰「そんなことはない。冬という顔をしていますよ。」
三島「ほう。それはどういう顔ですか。」
太宰「夏に憧れているという顔だね。夏に遅れたという顔だ。」
三島「秋に遅れたというのじゃなくて?」
太宰「蝉のようなもんだ。夏に生れるはずが、冬に生れちまった。」
三島「なるほど。言えてますね。」
太宰「僕は6月に生れて6月に死んだ。三島さんは?」
三島「僕は11月ですよ。11月25日。」
太宰「だいぶ評判になったそうで。」
三島「えらくバッシングされたようですよ。僕はよく知らないけど。」
太宰「それは同じだ。僕も同じようなもの。」
三島「お互い苦労しますな。」
太宰「本当に。」
三島「…………」
太宰「…………」
太宰「僕はつくづく、他人に自己同化されるというのに疲れ切ってね。」
三島「それがあなたの手法だったのだから、それは仕方がない。羨ましいですよ。僕にもそういうものがあれば、いくらかは違ったんじゃないかと思いますね。」
太宰「俺は別に、人間の代弁者でございなどと思ったことはない。」
三島「それが太宰さんでしょう。それだからいいんだ。」
太宰「君は生れ変ったら、どんなものになりたい? 僕は二度と人間というのはごめんなんだ。」
三島「太宰さんが人間に生れなかったら仕方がない。太宰さんがカメレオンに生れ変わったとしても、誰も喜びませんよ。やはりもう一度やってもらわないと。」
太宰「人間を?」
三島「人間を。」
太宰「嫌だね。絶対に、嫌だ。」
三島「しかし太宰さんが人間以外になっちゃあ仕方がない。これは不可能です。あなたには人間以外には仕様のない者に違いないよ。そうに違いないんだから。」
太宰「君はどうやら人間というものにはならないほうがよさそうだ。」
三島「僕はどんなものに生れ変ったら良いとお考えですか。」
太宰「まあ、桟敷とか、そんなもんだろうね。あるいは河原の小石。」
三島「無機物か。それはいいな。」
太宰「とにかく、人間というのは疲れるよ。とにかく考えることが多すぎる。」
三島「その点無機物ならば考える必要はない。」
太宰「石の思考というのもあるかもしれないよ。木にも感情はあるというし。」
三島「それでは感情からは逃れられない。石になっても桟敷になってもむだですね。」
太宰「時々、誰の人生を生きているのか分からなくなることがあった。」
三島「死んでからもそのようなこと、考えますか。」
太宰「そうだね。とにかくひまがあるものだから。」
三島「生きているときは目の回るような忙しさだったけど。」
太宰「そうだね。妙に忙しぶってたね。あれは何だったんだろう。」
三島「テニスの試合と同じじゃないですか。ボールが来るから打ち返していただけ。」
太宰「君もそうなの?」
三島「僕は太宰さんとは違いますよ。」
太宰「僕は時々、雑誌なんかで君の書いたものを読んでいましたよ。」
三島「それは、どうも。」
太宰「非常に、演繹的だね。」
三島「それは意識していた。しかし、そこから人物が飛び出す瞬間というのを、僕は待っていたんですよ。」
太宰「しかしその時は遂に訪れなかった。」
三島「太宰さんにはそう見えましたか。」
太宰「僕は一寸法師だったんだな。」
三島「そうでしょうね。」
太宰「一寸法師の踊りでご機嫌を伺ってね。みなさんの仲間に入れてもらおうとしていた。さもしい人生でしたよ。」
三島「そんなことはない。」
太宰「三島さんはどんなものに憧れましたか。」
三島「想像の余地を残してくれるもの。逃げ水のようなもの。」
太宰「一緒だ。」
三島「何が。」
太宰「僕と一緒。」
三島「それは違うだろう。あなたの憧れていたものは、自分のおもいどおりにならないものだ。そうでしょう。」
太宰「そうかもしれない。」
三島「みんなあんたの思い通りになるから、なんにも面白くない。そうですね。」
太宰「そうかもしれない。」
三島「死さえも……。」
太宰「それは違う。あなた、それは違いますよ。」
三島「私は、日本風にべしゃべしゃしているものは嫌いでね。どうも性分に合わないんですよ。」
太宰「それは君、エゴですよ。」
三島「エゴですか。」
太宰「性分から離れよう、離れようとしている。だけどおのれの性分というものは、結局言動から臭ってくるものだ。無意識です。無意識の臭い。」
三島「臭いますか?」
太宰「臭うというか、脱臭だね。君のものは……非常に脱臭的なんだな。」
三島「臭い消しをしていますか。」
太宰「しているね。」
三島「私に言わせれば、太宰さんのは無理矢理に臭いをつけているようだ。即席のね。」
太宰「それは非常に分かる。」
三島「それが僕には非常に鼻につく。どうも身分違いの女が、無理をして月給以上の香水をつけているかのようなね。」
太宰「僕はその逆をしていると言いたいんだろう。」
三島「迎合することはないでしょう。堂々としていればいいんだ。」
太宰「僕は怖いんだよ。仲間はずれにされることが。」
三島「だからって馬鹿踊りをすることはない。」
太宰「君は仲間に入るのがうまいね。餌を撒くのが実に巧妙で。」
三島「餌とは、よかったな。」
太宰「やはり君は石に生れ変ったらいいようだ。」
三島「石は石でもただの石ころというのは閉口だな。御影石なんかならいいけど。」
太宰「路傍の石は嫌かね。」
三島「性分ではありませんね。」
太宰「………………」
三島「………………」
太宰「時々、言葉でしか自分を表現できないというのが嫌になる。」
三島「それが人間というものですからね。言葉と言葉によって分かり合う。」
太宰「肉体性というのが、希薄なんだな。」
三島「太宰さんほど肉体的であった作家はいない。」
太宰「どこが。そんなふうに思ったことは一度もない。」
三島「肉体を置き去りにして精神の世界にこころを遊ばせるというのは、肉体の体験なしではいられない。太宰さんは、実に己の肉体というもので十全に快楽を得ていたと言っていい。」
太宰「肉体なんてものは、無けりゃ無いで一番いいんだ。」
三島「そんなことはない。脳は肉体ですよ。我々は肉体を使って物を考えているんだ。それをないがしろにしちゃいけない。」
太宰「頭でっかちでね。何んにもいいことはなかったですよ。」
三島「太宰さんは、体のほうは丈夫でしたか。」
太宰「母は病弱な方でしたけど。」
三島「私はあまり丈夫な方ではなくてね。」
太宰「ああ、それは、分かる。」
三島「太宰さんは、私が固執するものを、すでに持っているんだな。それを平気で投げ捨てるようなことをするから、癇に障るんですよ。」
太宰「それは君だけに始まった話じゃない。みんなそうですよ。みんな。」
三島「宝石を投げ砕き散らかすようなものだからね。本人にはガベージだったとしても、捨てる神あれば拾う神ありと言ってね。(笑)」
太宰「俺のことなんか、誰も分かってくれない。」
三島「そんなことはない。」
太宰「三島さんは演劇の何が好きですか。」
三島「虚構性ですね。そして、そこに通り抜ける真実というのは、演劇という暗闇の中でしか成せないものです。」
太宰「だから君は、石ころだと言うんだなあ。」
三島「まあ、一献。」
太宰「いただきます。(盃で受ける)」
三島「僕はオレンジジュースですけど。」
太宰「何んでもいいよ。甘いものは好きですか。」
三島「羊羹なんか、好きでしたね。」
太宰「酒が入らないというのは、どこか不安になりますね。」
三島「脳内で酒を製造できるようにならなきゃ。」
太宰「そりゃ、いい。それは素晴らしいですよ。」
三島「金がかからなくていい。(笑)」
太宰「虚構性ですよね。あなたの書くものはみんなそう。」
三島「自分としてはリアリズムのつもりなのですがね。」
太宰「人間じゃないね。」
三島「誰が?」
太宰「糸が見えるなあ。実に。チョキンとその透明な糸を切ってしまいたくなるね。」
三島「なるほど。」
太宰「僕は、君なんかはもっと正直になったらいいのにとおもっていた。」
三島「僕は丸裸でしたよ。」
太宰「いや、肉襦袢だね。」
三島「なるほどね。」
太宰「さっき君は、僕を肉体的な作家だと言ったけど。」
三島「言いました。」
太宰「実際、おれは肉体でしかなかった。」
三島「分かります。」
太宰「肉体を与えれば、俺は歓迎された。」
三島「分かりますよ。」
太宰「君は、他人に肉体を捧げたことがある?」
三島「そういえば、ありませんでしたね。」
太宰「君はおのれの肉体を自慢にしていたようだけど。」
三島「いやァ……、あんなのは、虚仮威しでね。」
太宰「だがその気持は、分かる。」
三島「なんだか二人して分かり合いごっこばかりしていて、しょうがないようだが。(笑)」
太宰「おれはおのれの肉体というのは、捨てなきゃどうしようもないものだとおもっていてね。それで何度か挑戦したんですよ。」
三島「あれも虚仮威しですね。」
太宰「そのとおり。」
三島「私は自分の体が嫌いでしたよ。骨と皮ばかりでね。」
太宰「俺はその程度でも別にいいという人がいたから、そのままだった。肉体は武器でしたよ、あなた。」
三島「ほら、やっぱり、太宰さんは肉体派だ。」
太宰「そうかもしれない。」
三島「僕が太宰さんの体を持っていたとしたら、まさかあんなことにはならなかったかもしれませんよ。」
太宰「まあいいだろう。君は徒花として散るが美しいというのでいいんじゃないですか。」
三島「徒花?」
太宰「君も僕も、道化の華だったとおもう。」
三島「ああ、嫌だ、嫌だ。」
太宰「肉襦袢色の花として、華麗に散ったじゃないですか。」
三島「太宰さんは、人生で、何がしたかったですか。」
太宰「僕は好きな人に認められたかった。もう堪忍して下さい、これ以上小説は書かないで下さいと言われたかったんだ。」
三島「だけど、誰も言ってくれなかった。」
太宰「そうなんだ。」
三島「どうでもいいことだけが評価されてね。」
太宰「そうなんだ。」
三島「どうでもいいことの詰め合わせみたいになって。」
太宰「そうなんだよ。」
三島「お歳暮みたいなね。これはどこに回そうかな、なんて。(笑)」
太宰「そうなんだよ!」
三島「そんなことの繰り返しでね。遂に一編も満足の行く小説なんて書き上げられなかった。余計なことをしすぎたんですよ。」
太宰「僕なんかは、特にそうだね。」
三島「太宰さんは違うよ。立派でしたよ。」
太宰「僕なんか書き散らしですよ。芥川さんの一編の価値もない。」
三島「それは太宰さんが決めることじゃない。もしもそんな評価をご自身の作品に持っていらっしゃるのならば、それは間違ってますよ。」
太宰「どこが?」
三島「作者の手を離れて雑誌に載れば、それは作者だけのものじゃない。太宰さんには百万の読者が居たじゃありませんか。」
太宰「そうだ。おれは、大衆だ。大衆はおれなんだ。」
三島「太宰さんは消えちゃった。」
太宰「そうなんだ。」
三島「でも作家としては本望じゃないですか。」
太宰「おれは幸福が欲しかったんじゃない。喜びが欲しかった。」
三島「お坊ちゃんではどうしようもない。我儘な人です、あなたは。」
太宰「三島さんは大衆ですか。それとも先導者ですか。」
三島「どちらでもありません。」
太宰「では、影?」
三島「影であり、全体への奉仕者でもある。」
太宰「奉仕者は、よかったな。」
三島「私は還元の循環の中に入りたかった。」
太宰「ああ、なんとなく、分かるな。」
三島「私だって、大衆の中に紛れ込みたいという願望はあった。」
太宰「ああ、それは嘘だな。私に嘘をついても意味はありませんよ。」
三島「嘘じゃない。」
太宰「じゃあ、演出だ。演出を掛けている。」
三島「自分の言動に?」
太宰「そう。」
三島「でも、少なからず人というのは、言動に虚言を混ぜるものじゃないかな。その按配のさじ加減の程度はあるだろうが。」
太宰「君はそれが過剰だと言うんですよ。」
三島「海老天の衣のようなものだな。あれはうどんのつゆなんかにつけるともろもろになって、増えれば増えるほど、実は旨い。(笑)」
太宰「衣を面白がっている連中ばかりだ。そうじゃありませんか。あなたの読者は。」
三島「なるほど。」
太宰「だかその分厚い衣を剥がしてみると、ひょろひょろの紐みたいなえびしか出てこない。(笑)」
三島「そうです、もともとは骨と皮ですから。」
太宰「開き直ることはない。」
三島「太宰さんは墓掘り職人ですね。しゃれこうべなんか持ったりしてね、ハムレットに掲げてみせる。(笑)私はあなたよりも遥かに下部の存在でございと白塗りに顔を塗ってみたりしてね。その実、常に腹はくちているし、ポケットの中には銀貨がゴロゴロ、家に帰ればかみさんと、それから別宅に行けば甘やかしてくれる女給上がりの女なんかが居てね。」
太宰「虚言、虚構、虚飾ですな。」
三島「ほんとうに。」
太宰「…………」
三島「…………」
太宰「実際に…………」
三島「エビを食いに来たんじゃないんだな。みんな、衣を食いに来てるんだよ。」
太宰「そのとおり。」
三島「エビなんか、実際旨くもなんともないですよ。」
太宰「そうだね。実際旨くないね。うどんの汁に染みた天かすなんかのほうが、よっぽど旨い。」
三島「実際、僕は、衣食いに飽きたのかもしれないな。いつまでも、そんなことを続けていたところでね。」
太宰「そんなことはない。続けていれば、また違う世界が見えてきていたかもしれませんよ。」
三島「太宰さんは、そんなものを見たかったですか?」
太宰「…………」
三島「やってください。どんどん。(徳利を傾ける)」
太宰「ありがとう。(盃を干す)」
三島「僕は、太宰さんの書いたものを読むと、過去に置いてきた自分の姿をおもいだすようでね。実にやりきれませんでしたよ。」
太宰「そうだ。君は実に、おれによく似ている。」
三島「追従笑いなんかしてね。あの顔が、憎らしいんだなあ。」
太宰「本人をめのまえにして何も言うことはない。」
三島「まあ、こんな機会も二度とないでしょうから。失礼な言い方をして、ごめんなさい?」
太宰「謝るくらいなら言わなきゃいいんだ。」
三島「へらへらしやがって、とかね。僕も若い頃だから、変に……どうも、太宰さんが軟派に見えてね。」
太宰「実際軟派だから。」
三島「俺もまかり間違えば……とおもうと、太宰さんの本は怖くて読めなかった。」
太宰「実際におすすめしないね。ああいうものは。大衆迎合ですよ。芸なんかじゃない。」
三島「右や左の旦那様。」
太宰「因果なもんですな。」
三島「太宰さんの文章は、水のようですね。良い酒は水に似るというが。」
太宰「それで実際に酒だと称して水を飲ませるんだろう。いい酒が手に入ったと言って。」
三島「あはは。」
太宰「君の文章は……なにか、石に彫刻しているようなものだね。チクチクと時間を掛けて。ああいったものは、やりがいがあるだろうねえ。」
三島「そんなに悠長なことをやっていたら、あれほどの量は書けはしない。やはりそれもハッタリでね。」
太宰「自分たちのものを貶し合ってちゃあ世話はない。」
三島「だがやはり、僕は太宰さんのようなものは書かないし、書けないとおもう。僕はありのままの生れただけの人間というのが信じられないから。私たちは津島修治が太宰治になって、平岡公威が三島由紀夫になった。そうでしょう。」
太宰「平井太郎からの江戸川乱歩とは、少し調子が違うわけだ。」
三島「全く違いますね。あれは変身ですね。」
太宰「我々のは何だろう。蝶への変態ですか。」
三島「肉襦袢でしょう。」
太宰「よかった、なんとかまとまった。(笑)」

 

 おわり。

好きなピアノの曲:DJ ごっこする

 

 

 やさしいピアノを弾く人が好きなんですよね。
 これはニュアンスの問題じゃなくて、タッチの話。やさしいタッチでピアノを弾く人の演奏が、好きです。
 私自身は楽器の演奏はからきしなんですが、聴くのは本当に好きで。
 ピアノ弾きの人が、「真珠を転がすように弾くときれいに弾けるんだよ」なんて話をしているのを聴くと、あー、別世界の人のうつくしいお話だなあ、とおもう。
 だから、真珠を転がすようにピアノを弾く人の演奏が、好きなのです。
 私、一番はじめに好きになったクラシック音楽ってのが、ショパンの『英雄ポロネーズ』だったんですね。
 まあこれは「優しい」とは正反対の、激しい曲ですけど、この曲が、あるアニメーションのワンシーンで使われていたんですね。すぐにこうやってアニメーションの話になっちゃって悪いんですけど、それを聴いて、ガーンと来まして。「なんだこのかっこいい曲は!」と。それで、生まれ変わったら、ショパンの『英雄ポロネーズ』が上手く弾ける人になりたいなあとおもっていたのでした。
 『英雄ポロネーズ』はそれこそいろいろなピアニストの方が弾いていらっしゃって、色々と聴いてましたけど、中には「ガン! ガンガンガン!」って弾いていく人もいるんですね、この曲を。激しさをともなった曲だし、それもいいんですけど、耳には良く響かないなっておもっていたとき、ふとラジオから、すごくやさしいタッチの、ふわっとした『英雄ポロネーズ』が流れてきたんです。
 わー、とかおもいまして。


 『英雄ポロネーズ』って、こんなにやわらかく流れるように弾けるんだ、ということにびっくりしたんですよね。音の置き方がやさしいんですね。それこそ「真珠を転がすような」弾き方なんです。「おれの演奏を聞け!」というよりは、「ここに音楽がある」って弾き方なんですよね。決して押し付けがましくないけど、そこに在る、ってかんじの弾き方。
 誰がこんな演奏をするんだろう、とおもって、ラジオの前で耳を凝らしていました。
 演奏が終わったあと、ラジオDJ の方が、その演奏者の名前を読み上げてくれました。


 だから今、私はその演奏者の名前の入ったアルバムを買って、いつでも好きなときに、その方の演奏する『英雄ポロネーズ』が聴けるというわけなのでした。もしかしたら、情熱を持ってこの曲を弾いてほしい! とおもう視聴者にとっては物足りないかもしれないけど、私は好きですねー。


 「やさしいピアノ」の聴ける音楽としては、もう一曲。
 私、斉藤由貴という人の、1985年から1992年くらいにかけて醸し出していた雰囲気が好きなんですよね。今から話す曲は、1986年のLP『ガラスの鼓動』に入っている最後の曲なんですけど。この曲はねー、バックはピアノだけで、そこに斉藤由貴の深刻な歌声が乗る、シンプルなバラードなんですね。そしてなんとなんと、この曲の編曲をやってるのが、谷山浩子さんなんですねー。
 谷山さんは言わずと知れた天才シンガーソングライターさんですけど、この曲のバックでピアノを弾いてるのが、谷山浩子さんなんですよね。(ディレクターの長岡さんが斉藤由貴CD-BOXのライナーノーツで言ってた)


 このピアノが、いいんですよねー。なんとも柔らかくて悲しくてきれいで。まさに「真珠を転がすような」響きで。
 ちなみにこの「真珠を転がすような」という表現も、谷山浩子さんが昔言っていた表現です。彼女の書いた童話やなんかに、出てくるんだよねー。
 夜中、深刻な気持ちになりたい時に、聴いてみると楽しい曲です。自分の人生が深刻になっている時は聴けないかも知れないけど、「深刻ごっこ」をしたいときなんか、いいんじゃないかな。午前二時の、夜中のティータイムに聴いてみてください。季節は秋の夜長なんかがよろしいんじゃないでしょうか。

 

 というわけで、二曲続けて聴いてください。
 エリザベート・レオンスカヤで『ポロネー ズ 第6番 変イ長調 作品53《英雄》』
 斉藤由貴で、『今だけの真実』

 

 DJごっこでした!

 

栞が上手く使えない! の巻:読書にまつわるエトセトラ

 

 

 相変わらず、読書ざんまいのまいにちです。私は年間において常人の4倍YouTubeを見ていますが(去年の年末にYouTube側からそういう統計みたいなのが表示(?)されて、そこにそう書いてあった)、本は人の平均かちょっと下くらいの感覚で読んでます。年々物語の本を読むのがきびしくなってきていて(世界になかなか入っていけない)、ノンフィクションの本とか歴史の本とか旅行の本ばっか読んでます。


 というわけで今回の主題は、「栞」。
     栞……これが問題だ。

 

 私は、飽き性です。かなりの。熱しやすく冷めやすいを地でいくので、三か月前に熱中していたことが今ではどこへやら、シリーズものの連ドラとか、連続アニメなんかのたぐいを完走することがなかなかできない。完走するまえに飽きてしまうから。であるからして私の信条としては、「鉄は熱いうちに打て」ということなのですが、まあ「飽き性」の話はこの程度として。


 問題は、本なのです。本を一冊、最初から最後まで、別の本に浮気しないで読みつぐというのが、私には不可能なのよ。
 というわけで、読書する前という段になれば、生活のいろいろなごたごたを済ませ、ご飯を食べ、コーヒーを淹れ、さあ読書の時間だ、となったときに、私の手元には、少なくとも十冊の本が用意されることになる。
 まず、一冊、そのなかから、もっとも気になっている本を手にとる。出版社と値段と著者と発行年を確認し、「なるほどこの出版社でこの値段でこの発行年か、勉強したな(=訳:値段設定を頑張っているな)」とか、「この出版社でこの内容でこの値段って強気すぎる」とか、「この発行年でこの薄さでこの値段ってどういうこと? あ、〇〇書房でしたか、失礼しました」とかやってひととおり一人遊びしたところで、本編を読む。
 私はだいたいそれで、30ページくらい読むと、他の本に目移りしてしまう。そして、ここで問題なのが、……「栞」、なんです。(この文章を書く前に新井素子サンのエッセイの本を読んでいるので口調が移ってます)


 栞って、どんなものを使いますか?
 本にもともと挟んであったものを使うってのが大半だとおもう。あとはスピンがついている本なら、それで完結するからありがたいけども、スピンのついてる本って最近の本ではなかなかないですね。
 あとは手作りの栞とか。買った栞ってのもいいだろうし、クリップ式の栞なんかもありますよね。ね。栞というのは読書のたのしみのひとつでもあるし、凝ればけっこう楽しいもので、私も自分で栞を作ったり、買い集めたりする時期もありました。
 しかしここで今再び問題が発生する。
 私は、栞をなくす天才なのである。


 栞って、目を離すと消えてません? 椅子に座って本を読んでいて、ふと本を閉じて立ち上がろうとすると、そばに置いてあった栞がない。立ち上がってそこらじゅうをかき回すけど、栞はどこからも出てこない。こーゆー非効率的な動作で、私は、人生の貴重な時間のどれほどを浪費したかしれない。
 いきおい、そばにあるなんらかの「栞代わり」になるものを探すことになる。そういう場合……あー、ほんとに、本好きの人には人非人あつかいしていただいてかまわないのだが、あんまりよろしくないものを挟んでしまうんですよね。
 ちかくにあるペンとか。(こういうことをするせいで、いざメモを取ろうと思ってペンを探しても、本の中に挟まっているせいで見つけられないという悪循環を繰り返す)
 あるいは、ティッシュ……とかね。(ティッシュボックスから新しいのを引き出す)
 あるいはちらしを短冊状に引き裂いたものとか……(あああ……)
 あと、多いのがレシートの類。最後の手段は……本の角に耳を折るとかね。(これは自分の買った本にだけやろう!)
 本を四冊、五冊、六冊と並行して読むという悪癖(?)と、栞を異常になくすという習性のせいで、私はいつも「栞びんぼう」で、本を閉じるたびに挟むものを探すという小旅行に出てしまうため、ただでさえ効率的に行動できない私の行動は益々愚鈍の体を極め、読書自体もままならないという日々を繰り返してきたのだった。
 しかし、今日、すべての過去の私の問題を解消できる、すばらしい「栞」に、私は出会ってしまったのです!!(ババーン)

 

 それは……
 紙の付箋、だっ!!!

 

 弱粘着性のある付箋を、机のうえに用意する。
 コーヒーを淹れ、椅子にもたれかかる。ここで一息。
 コーヒーを飲む。おもむろに本を開く。十分経過。飽きる。ここで私がいざ取り出したるもの……
 ポストイット! もう、僕の相棒は、これしかないっ!!
 栞代わりに、付箋を付着させる。ここ、あとでメモしたい、という箇所が出てきたら、そこにも貼っておく。
 次の本を開く。十分経過。飽きる。新しい付箋を取り出だし、貼り付ける。本を閉じる。本を開く。飽きる、付箋を貼る、本を閉じる……
 これ、完璧じゃありませんか!?
 そんな簡単なことすぐに思いつかなくてどうするって言われても……(見えない敵)まあ一応すみませんと言っておきます。
 ここからさき浮上するに違いない問題は、私が付箋自体をなくしてしまうということですね。所定の位置に戻せばいいってことは分ってんだけど……それができてたらこんな苦労してないんだ。
 しばらく私は付箋という栞とともに、読書時間を遊び抜こうとおもっております!
 現場からは以上です!

 

「お客」とか「お医者」って言葉が好きすぎる 2026.03.07

 

 

 まーたくだらないことを書こうとしているが、許してください。いや許さなくてもいいです。タイトルのまんまの話です。
 「お客」とか「お医者」って言葉は、どうしてこんなに良い響きなんだろう。
 ここで「お客さん」とか「お客様」とか「客」とかになってしまったら、たちまち魅力が半減する。「お医者さん(普通過ぎる)」「お医者様(へりくだりすぎ)」、「医者(ただの単語)」そこへ来て……
 「お客」! 「お医者」!


 敬っているのだか呼び棄てているのだかよくわからない。「お=御」をつけているのだから、一応敬ってはいるはずなんだけど、現代の日常遣いの言葉としては、どこか尻尾が足りてないという印象がある。たとえば、
「昨日来たお客のこと、覚えてる? あれ最悪だったよね」
「昨日来た客のこと覚えてる? あれ最悪だったよね」
 という二通りの台詞があるとして、もしもこの台詞に校正者がついたとしたら、前者の台詞の「お客」の「お」の部分の上に“はてな”か何かがついても不思議じゃないんじゃないか。(この“お”って、かならず必要ですか?)


 そして「お医者」。この語がとにかくたまらん。「お医者」のどこか不遜で愛らしい響きを音声によって聴こうと思ったら、ぜひおすすめしたいアニメーションがあります。もちろん『母をたずねて三千里』です。主人公のマルコ・ロッシくんのお父さんはある病院の事務方で、マルコ・ロッシくんと「お医者」の関係はそれだから深い。そしてこのマルコ・ロッシくんは、その「お医者様(ちなみに『アルプスの少女ハイジ』のハイジはドクトルのことを「お医者様」と呼びます)」のことを、「お医者!」と呼び棄てるのであります。
 そう、「お客」や「お医者」の声に出して気持ちいいところは、「御」をつけてその語を敬いつつも、平気でそのあと敬った対象を呼び棄てるというウルトラCな「投げっぱなし」の妙を、このひとつの単語によって十全に味わえる点にあるのです。


 というわけで、「お客」や「お医者」という呼び方は、積極的に日常遣いしていきたいですね。
「昨日お医者に行ってきたんだけどさー、その対応がひどかったんだよね」とか。「あーあ、今月もお医者に診てもらわないと、もう薬無くなっちゃったしなあ……」とか。
「お医者」! ……いいね。(なにがなんだか……)
 ちなみに「お客」という語の使用例は谷山浩子サンの神妙な曲、『草の仮面』なんかを聴くと、聞けます。
 おわり。2026.03.07

 

キライな言葉 2026.03.07

 

 

    少女、とか、少年、という言葉が、ウー、嫌いです。
 理由は、特にてらったような理由はないんですけど。
 老人、とか中年、とかいう言葉もあんまり好きじゃない。「青年」は好きだな。わざとらしいし、かなり露悪的だから。(ほとんどイヤガラセに近い言葉だと思う)寺山修司はちなみに、青年、の反対語に「青女」なる語を採用しようとしていましたが。
 少女とか少年という語が嫌なのは、それはもちろん「少女」とか「少年」という状態の人間が、幼い現在進行形である自身の少女性とか少年性を嫌悪しているにもかかわらず、その少女性とか少年性のレッテルを彼らに貼ろうとするのが、少女少年以外の人間であるというのにつきます。ねっ、普通の理由でしょ!!


 もしも「少女」とか呼び慣らされてもよい年齢帯の人間が、自身の少女性なるものに対して有る種の陶酔やナルシシズムを抱いているのだとしたら、その時点でその“少女”のなかには自身をなんらかの檻の中にカテゴライズして眺めるというマゾヒズムが発生することになる。その時点で、彼女の中の“少女性”なるものはガイコツと化し、彼女は少女でありながらすでにして老婆になり果ててしまうのである。
 世の中の少女少年だった人間がすべてそうだとは断言しないが、しかし少女少年というのはその少女少年時代に、「はやく大人になりたい」と考えている。


 自身の未熟であるということがある瞬間から憎くなるのである。だからその瞬間が訪れると、彼女たちは大人から与えられるもの、あるいは課せられている何らかの“虚像”を否定しようとする。そしてその瞬間から彼女たちは、「大人たちが理解しやすい少女少年性」を有していた時代の自分を否定したりする。だけど、身近な大人にとっては、そのような少女少年性を有していた頃の彼女たちの姿が懐かしい。学ある人はその変化を「自我のめばえ」とか表現するのかもしれないけど、自我というか、やっぱり、急に嫌になるのだ。自分がこどもでしかないということ自体が。
 それなのに、「少女少年」という言葉は絶対的にこの世からなくなったりなんかしないし、ある種のイデア像的利用のために、その語は「少女少年」ではなくなった人々によって、様々な理想を被せられてロマンチックに使用される。その使用者の頭の中にあるロマンチックな理想が、私は、苦手なんですよねー。
 まあ、私が、碌な少女少年期を過ごしてないってだけなのかもしれないけど。もしかしたら他者の少女少年期には、大人の想像する思春期(映画『小さな恋のメロディ』に代表されるような)があるのかもしれないけど。
 別に、フィクションとしてそういった創造のために少女少年という言葉が使われるのは悪いことではなく、ごく自然なことだとおもう。それでなければロミオとジュリエットなんて存在するはずもないもの。(うーん……)


 少女少年という言葉には幻想がつきまといやすく、だからこそ便利に誰でも使用してきたし、その使用によって幻想の(あるいは、失われた、得られるべきだった特権を疑似的に取り戻す)少女少年時代を慰めるという慰霊に似たものを獲得できるというのは分かるし、私もそれに与するものだという自覚があるから、大人の幻想としての少女少年像をはじめから抱こうとするな、なんて潔癖な発言をしようとはおもわない。けれどやっぱりそのような使用を目にするたびに、私の中のむくわれなかった「少女少年」時代の私が、「今の私の幼い苦しみが、お前ら中年に分かってたまるか!」とすごい顔をして怒るので、やっぱり「少女少年」という言葉は、注意深く使っていかなければいけない危険な単語だな……とおもう次第です。
 おしまい。2026.03.07