※いつも以上に憶測と「個人の間違った解釈」で貫き通されている内容なので、話半分で読んでください。だけど読者として現段階で感じたことを残しておこうとおもったので、書きました。
私は読者である。そして、たった一冊の本のまえで、読者というのはたったひとりである。
めのまえに様々な本が並んでいる。それぞれは一冊かもしれないが、その本が世の中という流通に乗るためには、何十人、何百人の人が関わっている。ために、何百人の人間が、好悪は別にして、その一冊の本の存在を強制的でも知っている。それが社会性であり、流通であり、広がりであり、そしてそれこそが「本」というものの存在意義でもありえる、ト。
つまり、「本」とは世の中に流通し、販売されてしまった時点で、「個人」、つまりプライベートではどうしてもありえなくなってしまうものなのだった。
もしも本の著者が、本という形を個人の中に押し留めたいと願い、そこへ社会という雑多なものを紛れ込ませたくないと望むのであれば、個人で書き記したなんらかのものを個人で製本し、そしてできあがった本とやらを、自分以外の他人には誰にも読ませないように、部屋の暗い隅にでも立てかけておくが望ましい。しかし、今から私が感想を述べようとおもっているところのその本はそうではなく、流通し、販売され、そして「読者」という、作家とは何の関係もない人間の手にまで及び、そしてその全く作者とは関係のない他人の脳に、その本の中に書かれている内容というものが既にして刻まれてしまったものなのだった。これは長い言い訳だが、というわけで、私はなんにも悪くないんだもん。こういう感想を抱くのは、私が悪いんじゃなくて、この本を書いて、流通させようとおもって、販売して読者というものを想定している「そちら側」が悪いんだもん、というのを、まず今回は逃げ口上としてかかげておきたい。私は悪くないんだからね。多分……
で。
まず橋本治『武器よさらば』の概要。
武器よさらば―橋本治書簡集 1972‐1989
作家の書簡集というのは、出るんだったら死んでから出る。それが普通ではあるんだけど。掟破りの感動本。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784896670660
発行元の弓立社のホームページがなかったから紀伊国屋のだけど。
そして本書のまえがきにはこんなことが書かれている。
普通、作家の書簡集というのは、出るんだったら死んでから出る。(中略)書簡集なんかを出しちゃうからしょうがない、私は一時的に死んだふりをするのだが、しかしだからといって、現実の私が書作の段どりに引きずられて死んでしまうようなおめでたい人間であるという訳では全然ない――。(5)
つまり『武器よさらば』とは橋本さんの書簡集であると。1972年から1989年までの。これ、ほんとに1989年までっていうのがすごいよねー。意識的すぎるというか……
そしてそのまえがきを読めばみんな分かるとおもうけど、つまりこの本で作者は自分自身(というか、本の中に立ち現れた自己)の生前葬をやっているのだった。そして作者は死んだ後に復活した――となると別のアレになるのであんまりこういうことは言わない方がいいですか。
往復書簡の妙味というのは確かにあって、私が好きな往復書簡というのは、みっつあります。寺山修司と山田太一の往復書簡、室生犀星と萩原朔太郎の往復書簡、そして北杜夫と辻邦生の往復書簡。辻邦生らの往復書簡なんて、「僕のリーべ。」から始まるんだからね。まったく絵に描いたような旧制高校感だよね。だから、そういう雰囲気を醸し出す往復書簡の類が流通に乗って読者を得ているってことになれば、やっぱりこの『武器よさらば』も、ある種の旧制高校感を残した青年同士の交流のさまを眺むることに読者がある種の共感ないし快楽を窃視する、という作用においては十分に「流通」に値するのではあるが、しかし、この本に載っている「手紙」は一方通行的であり著者本人の手紙のみが延々と載っているだけなので、“往復”には成り得ない。というわけで、往復するところの両者の感情の交差というものを、われわれ読者が追体験できないまま、本の内容はずんずんと進んでいく。
一体この本はなんなのだろう? どうしてこれほど「個人」でしかない内容が、本として存在し、読者という存在を想定することが可能になるのだろう。というところで読者が参加できない種類のナゾの本なのか? というと多分違って、この本を紐解いた読者がそれぞれに、この本との関係性を探って行けばいいのだろう、であるからして、これから私がここに書くことに、普遍性はない。つまり、現代人の伝家の宝刀を抜くよ。個人の感想です。(つまんないやつ。)
まあ、はっきし言ってね、ワタシ、この本読みながら泣きそうになっちゃった。なんでかというとほんとに切実だから。恋愛ってほんとに切実。恋愛という言葉が正しくないとしたら、「愛」って、ほんとうに、切実!
僕はね、フフフ……これは“読者”としてのかなり傲慢で、らんぼうな解釈なんだが、これがどこにも接続しないはずの“読者”としての自由なところだね。読者っていうのは作者に隷属する種類のものではなくて、作者の対岸に城を立てて望遠鏡で対岸の城を観察しているもうひとつの城の主=つまり王様だから。それで王様である読者の私は本書を読みながらこうおもったのだった。「あーあ、こんなのもうフランスの恋愛小説だね」と。
うーんでも総体としてかなりのフランス文学だよ。舞台をフランスに移して登場人物の名前をちょっといじったらかなりサガンってかんじだね……コレットかもしれないけど……(両者の違いがよく分かっていない)イギリスに移したら、ロレンスかフォースターかってかんじだよ。
でね、本書を読みながらそういうことを考えて、考えながらこの文章を打って、いまこの本のあとがきを読んでいるんだけど、著者がそのあとがきのなかでこんなことを書いているから笑っちゃった。あー、私という読者はほんとうに、どんな国の王様なのかって、こじつけの国の王様だからね。A=Aだ! というより、A=Cだ! っていう展開の仕方しか知らないからこういうことになるんだけど。
私は別に日記なんかつけてないが、実は大昔に日記をつけてたことがある。そんなもん、私のことだから、“そうやって遊んでる感情の日記”でしかないんだけど。実際のとこは”ロマンチックにしようとして失敗しちゃったノンフィクション“だったけど。「どうして現実(ノンフィクション)は素敵な物語(ロマンス)にならないのか」って焦れて、あまりのヘタクソさ加減に頭来て燃しちゃったけど。(198)
でね、この書簡集でしかないものが、どうして「恋愛小説」になってしまったのかというと、以下のようなことがこの本には書かれているからなの。
こないだ私はあなたに肩をつかまれて「固ァい!」と言われた時に、はっとなったのだった。私は男にしては異様に肩の関節が柔いので、“肩”と“固い”はどうも結びつかないと思っていたのだったが、あれは「がっしりしていて逞しい」という意味な訳でしょ?「あ、そうか」と思って、私はつかの間の幸福になったのだった。(中略)
「逞しきゃいいんでしょ? がっちりしてればいい訳でしょ? じゃァ筋肉質になっちゃうよ。どうせもう、“後はそれだけだ”って思ってたんだし(後略)」(137-138)
そして作者はこの本のあとがきのなかでこう言う。
僕にとってプライバシーというのは、自分が持っているものではなくて、”他人が持っていてくれる自分のある部分なのであって(後略)(206)
しかし人はぼーっとしていると、いつのまにか他人の視線によって「公的な他人」にしたてあげられて、「だから他人は嘘くさく見えたり素敵に見えたりする(197)」ということになり、更には作者によるこういう考え方も出て来る。
俺、ヘンなとこで少女マンガは嫌いだからね。月並みなロマンチシズムなんていうのは、吐き気がするほどいやなのサ。“優しい男色家”だの“きわどい青年”なんてのは、女の生み出した妄想の最たるもんだと思ってる私は真実にしか興味がないの。(134)
まあ、俗っぽくいえば「室生犀星と萩原朔太郎の関係性って、素敵だわ♡」ってやつだけど。まあいいじゃんそれでもとおもうけどね。私は。それが嫌なら流通させるなとおもうけど。
というわけで、“妄想”だけではいわゆる「本」にはならない。で、「本=流通=公」になるためには、ここへ「他人の目」というのがどうしても必要になってくる。そして、それが薄くなってしまうと、時として流通は「本屋のある一角」ということになり、ハーレクイン小説になったり、ボーイズラブ小説になったり、官能小説になったりする。
そういうとこへ来て、私的に存在するはずの「手紙」が、どうして「本」というパッケージをされて流通し、「読者」を獲得する“目”に至る、あるいは“遭ってしまう”のか。
人がフィクションを書く時って、①「そうだったらいいのにな」と、②「そうでしかないんだよ」と、③「そうでしかないけれども、そうでないものも望みたい」の三種類に分かれるとおもう。
そして、読者である「受け手」にもその感覚は広く存在している。その三種類のなかで、一番現実というものに密接している考え方というのが、まあ順当にみれば②であると。
そして、②でしかない考え方によって映し出される「橋本さん」というのは、例えばこんな風であったりする。
書評見て驚いた。(中略)取り上げたからって、書ける執筆者がいるとも思わなかった。あの文章書いた人って女でしょ?(中略)今度も彼女から手紙もらって、似たようなこと言ってた。「こんなにプライベートなことまで知らされていいんだろうか、なんかこわい。困る」って。(中略)
俺『恋愛論』書いた時、(略)「ああ、ついに私小説書いちゃったな」と思ったの。俺の場合評論が私小説になっちゃうんだもんね。(略)
俺に言わせりゃ、アレは私小説になってんだから、誰に何言われたって別にかまわないけどっというのはあるのね。(略)「人が切(ママ)角作品にしてるものを“プライベート”だなんて、作者に失礼じゃない」とかさ。(149-150)
で、作者はあとがきでさらに続けて、こう言うのだった。
書簡集などというものを出したいという話が来て、その瞬間「お前はまだなんか隠していることがあるだろう」と誰かに言われているような気がしたもんだから、私は勝手に「いいよ、別にそんなもんないもの」とひとりごとを言ってしまった結果、このような恥さらしをしてしまったのである。(193)
さあ、もうここまでくれば分かってきたね。
つまり、みんなが言うんだよ。「“それ”って、隠さなくてもいいんですか?」って。
近代的自我を持った由緒正しい伝統にのっとり、それゆえに現代的“アップデート”とやらを経なければ自己を更新できない=まともな現代人として取り扱ってもらえないかもしれないという不安が、近代的自我を得た以降の人々の中には潜在的に存在している、とする。
ということになると、人々は「公私」という二律背反するものを、別個に考えるようになる。表で見せている仮の”私”と、自分だけのいる部屋の中で、ものすごい恰好をして足の爪を切っている”私”とを。そして、前述したように「こんなにプライベートな部分を見せられていいのかしら?」と不安がる人というものに中には、きっちりとした自己の「公私」があって、その人にとって自分がすっぴん姿で、顔ににきびの薬を塗っている姿を他人に見せるということは、「恥をさらす」=「私(ワタクシ)でしかない自己を公の場に晒す」という行為以外の何ものでもない。だから、それを意識的に公の場に開示して見せようとしている作者のその姿をみて、「なんか、怖い……」と、おもう。なぜかというと、その人にとって、「私」というものは、「公」という完璧な姿を仮取った自分自身の「本当の姿」であるところの裏面、つまり「負い目」でしかないから。
作者はつづけてあとがきのなかで言う。
前を隠すか隠さないか。別に「見ろ」という趣味もないし、「見られたら困る」という負い目もないし、かといって「羞恥心がない」と言われるのもやだし。一番の問題は、そういうことを考えて「なんかひょっとしたら自分にはそういうことで頭を悩ませなきゃならない“負い目”ってあるのかな?」という状態に立ち至っちゃうこと。(203)
近代的自我が運んできたところの「公私」という感覚をまっとうに継承した人間にとってみれば、作者の「開示」は、あけすけすぎるように見える。なぜかというと、近代的自我を自然に自身の中に取り込んでいる人からしてみれば、人間というものには必ず公私があって、その「私」というものは公の場には決して乗り込まない種のものであり、隠されているものに違いないと一面的におもっているから。だから、「実は……」と「私」を打ち明けられた、と”勘違い“した読者は、びっくりして、「こっちは何の準備もしてないのに、そんな打ち明け話をされても、(急に距離感を詰められたようで)怖い……」という反応になる。
しかし、作者は、そういう人が「まあ……」とおもって新鮮に驚いているそれを、「負い目」だとはおもっていない。おもっていないというよりも、これは言葉が強すぎるかもしれないが、「自分の持っているこの感情を、負い目なんて薄暗い言葉で表すのは、失礼だ!」と、おもっているのだった。
で、その他人が「負い目」……だとして困惑しているそれというのは、たった一文字の言葉でしかない。つまり、あーあ……なんだかごめんなさい、こんなことになってしまって、まあつまり言ってしまうが、それって、「愛」なんですよね。
だけどその「愛」は、近代的自我が自然に獲得してきたところの、西洋的輸入品でしかない「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」に根ざしただけの「愛」ではない。つまり、異性愛→結婚→出産→育児→老後という順序のなかにおさまるだけの感情でしかないものでは決してないのだ。そして、そのロマンティック・ラブ・イデオロギーに根ざすところの愛というものは、実は、「私」の中には存在していない。それが存在しているのは「公」のなかだけであって、だからこそ「公」のなかにおさまりきれない愛というものは、近代的自我を得た、自分をアップデートしよう! と常に心掛け怯えている、勤勉な人々によって、「LGBTQ+」とかいう「檻」のなかに閉じ込められている。だからこそ、その「檻」のなかに入っている感情(公の愛ではないもの)を見せられた、近代的自我を持っている人々は、「なんだか怖い……」ということになってしまうのだった。根幹が違うから。愛の種類の。
だがしかし、愛というものは愛でしかなく、そこに種類などは、結局存在していないのだった。
さらに日本というところの文壇というのはおそろしいところで、なんと「“私”小説」と冠を打ったジャンルというものが存在する。そして、その“私”のなかで、近代的自我を形成するところの黎明期に存在していた男の作家たちというのは、その“私”であるところの自分自身の姿を、どうにかこうにか“公”にするために頑張っていた。つまり、「私」でしかないわたしだけれども、このように「公」になれるほどの立派な感情を有しているのだ。それをこれからご覧に入れます、どうです、私の感情と、そして私の持つ愛というものは、このようにして公の場にふさわしいほどにデコレーションできるものなのですよ。物語になりうるもの=読者という広場を獲得できるものなのですよ、ということになって、「私」でしかないものが、「公」の流通を経て、商品としてわれわれ読者のめのまえまでに運ばれるようになる。
しかしその反面で、彼、この本の作者=ハシモトさんはそれら「愛」の可能性をつぶしていく。「公的な他人」として一方的に愛される/愛すのは嫌だ。近代的自我に則って、私小説的な「暴き」によって愛の形を「私」としての「公」によって示すのも嫌だ。で、そういう作者の「愛の場所」っていうのは、隠すもの=私でもなく、近代的自我によって妄想の集合体として具現化したもの=公でもなく、それは他人の視線のなかにある。しかも、その他人というのは「どうでもいい他人」じゃない。好きな人の目に映っている自分自身。自分一人だけではとうてい覗き見ることのできない「自分」。そして、ここにとどまっていることが出来ればそれは素敵な恋愛小説で、だけどこの本はやっぱり恋愛小説なんかじゃなくて、そういう愛の中に浸っているうちに、闇から忍び寄って来たものを「殺す」ために存在している棺桶だから、すごく憶測でいうけど、この本が1989年までに書かれた書簡を扱っているというのに、私はすごく何かを感じる。つまり、うーん……なんていうのかな、『蓮と刀』的な啓蒙は、もういいと。自分の「こうしたい!」にブレーキ=理性を掛けることが愛情なんだ、言葉によって、言葉を武器にすることによって、他人を何かに仕立て上げようとしていたかもしれない……そんな過去の自分は、みんな馬鹿だったって。だから私、この本のタイトル、『武器よこんにちは』ではないのか? とかおもう。「武器」の意味が「理性」なんだとしたら、「さらば=さようなら」なのかもしれないけど、大島弓子の『さようなら女たち』に倣ってさ。(あー、こんな「分かっている風の分かっていないこと」を言い続けたら橋本さんに益々「バーカ」って言われてしまう……)
私はこの本嫌いだよ。だってここにいる自分の九割は嫌いだもの。(略)バカだとおもうもの。「なんでお前はこんなことしなくちゃいけないの?」と思うもの。バカ丸出しとか。ここにあるものを必要としてる人なんてのがいたとしたら、はっきり言うけど、バカだと思う。ここにあるのはただの無意味な過去だと思う。僕がこういうものを公刊してしまうことに理由があるんだとしたら、それは「今までの自分を撲殺したいから」っていう、それだけのことだもの。(210)
あー、もうバカって言われてたね。私。私はなーんにも悪くないんだからねっ。(全部お前が悪いんだよ)
昔、どこかの作家か誰かが、「作家なんてものは大通りで全裸で道に横たわるくらいの羞恥心をおしてなるもんだ」的なことを書いていて、素直な僕なんかは「はーそんなもんか」とおもっていたが、橋本さんって、そうやって大通りに裸で寝転んで、でもあとで「あれって裸のようだけど一枚肌色の肌着着てたの分かった?」ってなもんだね。みんなのためだとおもっていた鎧も、武器も、自分の為だとおもっていた鎧も、武器も、捨てちゃうと、つまり生前葬して、それまでの自分と『さようなら女たち』をしちゃうと、次に目指すものが見えて来ていいんじゃないかな? という、明るく、未来志向のいい本だとおもいます。私は。
というところで私はすれすれに終わりたいとおもう。間違っている話を延々としてしまって、すみませんでした。
おわり。2025.12.14