観た! 最高だった!
以下、よかったこと! 何から書いていいかわからないから箇条書きで書く!
・一話から五話まで、はじまりからおわりまでずっと号泣
・美術が良い!!
・キャストが良い!
・五話完結なんて素晴らしい!
・俳優は根性だ!
ところで、「日本映画はつまらない」という感覚がうまれたのはいつのことなんだろう?
もしかしたら、「日本製のエンタメは端から受け付けない」という人々がいて、そういう人は、ずーっと日本映画”的”なものを倦厭してきたのかもしれない(古い日本映画はジジ臭いからあまり観ない、という意見を聞いたこともある……)。
しかし、過去、日本映画は面白かったのだ。日本のドラマも、やっぱり面白かった。そしてきっと現在も、誰かの感情を興奮させるような映畫やドラマは作り続けられているし、その映畫やドラマを愛している人たちもやっぱり存在するだろう。で、あるからして、十把一絡げに、最近の映画やドラマはつまらない、と捨て置くことは出来ない。
と、いう前提があり。
それにしても、私個人としておもうのは、やっぱり最近のドラマ(とくに、某連続テレビ小説……)をいざ「見よう!」とおもって観ていると、どんどん辛くなってしまうものがある。
美術が気になるのである。俳優の演技が、気になるのである。
まあ、嫌なら見なければいいんであって、私は、近年のそういうものを観ていて「嫌だな~」とおもったので、あまり見なくなった。
見なければ、「叫びさえすれば熱演ってことになんのか?」とか、「自然な演技ってのを作り込むことができればそれで演技派か?」とか、「なんかアニメキャラみたいな演技してるけどそれどういうことなんだ?」とか、思わないで済む。そういうものを見たい人は見ればいいし、見たくない人は見なければ、それでいいのである。
というわけで、私は過去に作られた映畫やドラマを見て、それで満足していた。そして不遜なことに、「最近の俳優の演技は別に見なくてもいい」という……傲岸な考えを持っていたのである。
でも、それは、ただの認識不足にすぎないのだ。
俳優の演技が悪いのではない。ほんとうに悪いのは、そういう演技をつけて平気な「演出側」なんである。
「演出側」が、「その程度の演技さえしてもらえればいい」というところで、妥協している。あるいは、その程度の演技しか引き出せない(その程度で十分な)脚本しか存在しない。
要は、「演技に値するもの」が、存在しないのだ。
昔がすべて良かったというわけではない。昔だって、「演技に値しない」脚本や演出がなされた作品は、それこそ掃いて捨てるほどあった、だろう。そういうものが淘汰され、濾過された結果、名作のみが後世に残る。そして過去の名作ばかりを目にするわれわれ現代人としてみれば、「過去の演者の演技は、そして作品は素晴らしかった。それにくらべ現代は……」となりやすい、と。
更に、現代ではすでに「ドラマ」が失われている。
電話というアイテムがフィクションに登場したことによって、「その場」以外に舞台を広げることに成功して以来、人々の中に起こる悲喜こもごもというものは、次第に縮小していくことになる。近所の電話持ちの家に行かないと掛けられない電話に始まって(まあ、始まるってこたぁないけど……)、家電、二階の個人電話、ポケベル(が鳴らないということだけで一曲のドラマが生まれた時代も……)、個人携帯、スマートフォン……と来て、個人間のやり取りが容易になった結果、いわゆる「すれ違いネタ」(”佐田啓二”の『君の名は』……)で長々と恋愛模様を描く悠長も余裕もなくなって、世の中には大仰な”ドラマ”が次第になくなっていく。そして、大時代ではゆるされていたかもしれない大げさな演出も(大映ドラマ、トレンディドラマ、『未成年』などを筆頭とした野島脚本作品)も、「眺めるもの」でしかなくなっていったが、しかし相変わらず、人々を熱中させるものは「下剋上もの」であったり、「弱小企業が成長していく」物語であったりして、「大きな物語」をのぞむ人々の気持ちは、やっぱり大時代より変わらない。しかしそれらは「大きな物語」を描くがゆえに、どうしても様々なものが大味になりやすくなる……。
演技というものには様々なアプローチの仕方がある。そして、「場所」が変わるだけで、演技プランも変わる。その場所、演出にふさわしい「演技プラン」というものを、演者として、演技をするということを「生業」、おまんまの種にする人々というのは、考えないではいられないはずだ。そして、その「演出」と演者の「演技プラン」の相克として、現在の「ドラマ」というものは、作品として存在しているはずなのである。
それらすべてのことを一度肯定した上で、ここからは「あえて」そういったものを、一度否定してみたい。
一体、何なのだろう。地上波のテレビドラマに出る俳優たちの演技というものは。
でもたぶんそれらは仕方がないことなのだ。様々な大人の思惑やしがらみ、圧倒的に「無い」時間、ていねいな作劇や画作りよりも求められるのは「早い、安い、(そこそこ)旨い」であり、求められるのは「完成品」だ。「作品」ではない。
そういうものから逃れようと頑張ってみても、たったひとりがあがいてみても、蟻のようにふみつぶされてしまうだけ。
でも、それが10人になったら……
100人になったら!!?
1000人になったら……
突然ですが、ここである本の引用。
その実体については無知同然の女子プロレスについて記事を書こうと(筆者が:引用者注)思った動機は、その当時、観客席で繰り広げられていた、ひとつのダイナミックな変化にある。(略)
それは、どういう変化だったか。
数ヶ月前、初めて会場に行ったとき、女子プロレスの観客は、おおむね中年男性で占められていた。(略)
こういった会場の隅に、小学生らしい年代もまじえたローティーンの女の子たちの一群が出現しはじめたのは、いつ頃のことだろう。(略)
最初に、相手の集団に対して、そこはかとない敵意をしめしたのは、少女のほうだ。中年男性が、リングに冗談まじりの野次をとばすと、1000人近い少女たちがひと塊りとなって体をゆすり、ざわめく。(略)
そして、”カエレ”コールが始まった。
会場の一劃に孤立した中年男性たちの野次は、その頃には、ヒステリックなまでに野卑になっていた。少女たちは、その野次に匹敵するものを模索しているように見えた。あるとき、突然、足踏みが止まった。次の瞬間、やや確信なさそうに、手を握り込んで親指を下に突き出し、小さな声で、
「帰れ」
と言ったのは、彼女たちの中の誰だったのか。
それが、すべてのきっかけだった。
少女たちは、握った右手の親指を下に突き出し、足を踏みならし、中年男性の小島にむかって、カエレ! カエレ! と際限なく叫びはじめた。(略)
このカエレコールによって、会場から中年男性は完全に駆逐され、女子プロレスは少女たちの専有物になった。
(『プロレス少女伝説』/『井田真木子著作撰集』 p.10-11)
あの……いいですか?(どうぞ)
『極悪女王』は、そうやって、作られました。(泣)(嘘です)
ここに引用したものは引用に過ぎないので、「中年男性がかわいそうだ!」とか、「女子プロレスは少女たちだけのものじゃない!」とか、まあいいんですけど。
とにかく、数である。「現状を変えていこう」「素晴らしいものを作ろう」という気概と根性のあるものが一人ではなく、千人でもあつまれば、『極悪女王』のようなものは、できるんです!
作品に対して「誠実になろう」とおもっている人々の作った「作品」というものは、かならず観ているものの心を打つ。それが、誠実に作られているからである。そして、作品への「愛」を、端々にまで感じるためである。そう、『極悪女王』を観るものがなにに感動しているのかと云うと、それは作品を貫く「愛と誠」を、否が応でも感じるためなのだ……(号泣……)
もちろん、あの頃の「全女」に起こったものは、作為的なものだったかもしれない。お互いが憎み合う必要もないはずなのに、リング状の「ドラマ」をより強く、激しく演出するために、少女たちの感情は「利用」されたのかもしれない。それらは所詮「作られたドラマ」でしかないのかもしれない。そしてそれを「観劇」することによって消費するのは、ひょっとしたら、あまり趣味の良いものではないのかもしれない……
しかし、彼女たちはその「嘘」のなかで、「現実」を生きるわれわれよりも、「生きている」のである。
そしてここで飛び出してくるものが、「スポ根」という概念である、と……
本当は、誰だって「スポ根」したいのだ。自分という体のすべてを燃焼して、なにか崇高な場所にたどり着きたい。でも、そんな体力も根性も根気もない、「そんなことしてなんの意味もないよ」という我々の中の日常と怠惰が、その代わりといって提出してくれるもの、それが「スポーツ観劇」という「提案」であり、「スポーツ観劇」のなかに付随する「人間ドラマ」なのだ。
そして怠惰で日常でしかないわれわれのようなどんがめであっても、何か全身全霊を掛けてなにかに取り組みたいと、短かったり長かったりする人生で、一度や二度は考える(別に考えなくても生きていけるからいいんだけど)。でもやっぱり、そういう機会というものはなかなか訪れない。しかし、われわれどんがめとは違い、「演技」や「演出」という形のないもので「身を立てたい」と願う人々のめのまえに、そのような「チャンス」がいざ現れたとき、彼らはどんなものを作り出すというのか?
『極悪女王』を、生み出すのである。(うおぉお~~~~)
「演技」に値する作品が、脚本が、題材が、演出が、存在しないのである。だから、「演技」ができないのである。「憑依」に値しないのである。
尊敬できない、大げさな言い方をすれば「命を燃やすに値しない」対象に対して、ヒトは、全身全霊で取り組むことはできない。「そう在ろう」といくらがんばってみても、やっぱり「ヒト」は「ヒト」である。どこまでその対象に「乗る」ことができるか? そしてその「憑依」を、どのくらいの熱量を掛けて維持できるのか? そして、そのような状態にめぐまれる機会というものは、今現在においてはごく少ない。例えばの話、俳優は「北野武作品だから」頑張るのである。体を張るに「値する」土壌を作ってくれるという信頼と尊敬と「価値」、演技をする「価値」……
「価値なんて関係ない! 演技というものはそんな計算ずくで取り組むものじゃない、どんな題材でも、その題材のこころになりきって「演じる」、それでこそ「名優」というものだ!」
ちがいます! ぬるい脚本にはぬるい演技、ぬるい演出にはぬるい演技、ぬるいラーメン汁にアチアチ麺をぶちこんだら、そのアチアチ麺はいずれどうなりますか?
『極悪女王』最高!
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その他ほんとうに感動したことと普通の感想☆
美術がすばらしすぎ。私が一番感動したのは登場人物たちの着る服の「質感」です。とくに最終話ちかくで主人公の父親の着ているあのシャツ? 上っ張り? のてろてろした質感……!! あの当時のああいう服の生地の質感ってああいうのだったよねえ!!!!
あと、レイザーラモンRG大先生も(You Tubeで)おっしゃっていたけどライオネス飛鳥の「あの」髪型の再現度の高さね……!!! かっ………こいい……よおお………ちょっとまえに「剛力彩芽って売り方が間違ってただけだよね」的なつい~とを見かけたけど、ほんとそのとおりでしたね。もう……ライオネス”剛力”飛鳥のあのかんじが映像として半永久的にパッケージされたという伝説を、われわれはかみしめて生きるべきです……
俳優の存在感がすごい! 俳優さんみなさんほんとうに素晴らしかった。(言うまでもないことだけど)剛力彩芽さんのキレッキレのダンスもほんとかっこよくて……うううう……私はずっと剛力彩芽さんのほとんどノーメイクでは? なかっこよさにへろへろになってしまいました……最高すぎた…… あと感動したのはデビル雅美役の役者さんの眼力……たまらん……あれは確実に芸術だった。あと唐田えりかさんの相手を煽るときのちょっと張った声。好きだった……
私は全然全女の当時からのファンというわけではなく後追いで、その後出版された各書籍を「紙のプロレス」として楽しみ、当時の映像を昔ちらっと観たり、その結果長与千種にめろめろになって『東京爆発娘!』のEP買ったり(ジャケットの千種の笑顔が宇宙のようにかわいくてかっこよくてせつなくて見るだけでなんか悲しくなってくるくらいかわいいので、見て!!)、クラッシュギャルズの再発物のCD買ったり(ライオネス飛鳥の『…Rain』とゆー曲が名曲なので聴いてください!)した程度のにわかものだったのですが、それでもドラマを観ながらずーー……っと号泣してました。なんかもう一話のオープニングだけで「わーーっ」ってなってしまってオープニングだけで泣いて、それから要所要所でずっと泣いていて泣きつかれた。
あと、RG先生も言っていたけど、「ブック」云々の発言はそれこそ”あの”ヒールとしての製作者があえて仕掛けたひとつのフック(?)なのかもしれない……という解釈には感動いたしました。
主役のゆりやん氏はもう……私なんかが色々言えるアレじゃない。とにかく私はオープニングのゆりやんのあの変化だけで泣けます。役を演じてくれて、「成ってくれて」ありがとうございました。でもあんまり無理はしないで……ほんとうに一時期のあの報道は心配だったので……いちばん大切なのは体の健康なので……
20241003