わが屍に化粧する/『廃墟に置かれた交換日記』
廃墟に探検に出掛けた中学二年生の男の子が、廃墟に残された日記を読むと、そこには不思議なことが書かれていて……という話。倫理的にあやうい描写等ありますが、フィクションです。さいごベタになっちゃった。
倉田啓明の同名作を読みたくて読みたくて読みたいのだが資金繰りが出来ず多分一生読めないので、そのタイトルから妄想した話を、書きましたという話。なんかタイトルから想像してお話を書いてくださいって課題があったら100人中90人が考えそうな内容になっちゃった。想像力がなくて悪かったな。倉田啓明というひとはいわゆる「マイナーのメジャー」の人。「陰の陽」の人ですね。(つまりいしかわじゅん系統の人ではなく、吾妻ひでお系統の人ということです)ほんものの倉田啓明『わが屍に化粧する』が読みたい人は、根気よく古本をさがしてください。
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町外れの廃病院には、”出る”という噂がある。
ずっと、行ってみたいとおもっていた。でも、ひとりで行くのはこわいし、誰かに見つかって怒られるのはもっと嫌だし。
ある日の放課後、ともだちとその話をしていたら、俺も行きたいとおもってた、とその友人が言った。
「何が出るか知ってる?」と、友人の入沢は言った。
「知らない」
「なんだよー、知らないで行きたいって言ったの?」
「だっておもしろそうなんだもん」
「俺もよく知らないけど、髪の真っ黒な女を見たとかさ」
「えー」
「いりょうじこで失敗された患者の幽霊が出るとか」
「ふーん」
「ちいさい町病院なんだけど、その二階に行く踊り場のおっきな鏡に、夜十二時ちょうどふりむくと、連れて行かれちゃうんだって」
「どこに?」
「知らない。地獄とか?」
「怖えー」
「でもさ、夜遅くならなければ行ってもいいとおもわん?」
「行くとしても塾無い日な」
「ふたりで行くの? ほかも誘おうよ」
「というか、入ってもいいの?」
「いいわけないじゃん」
「じゃあ、ないしょ?」
「そう。冒険」
多分、普通の同級生の男はこういうこともっぽいことには付き合わない。冒険とか、探検とか、中二にもなって何言ってんの? そういうのは小学生で済ませておくことだから。がき? みたいな。でも入沢は違う。好奇心旺盛だし、学校の図書館でも怖い話とか借りてて、その話で盛り上がったりする。
「B組のやつ誘ってみる。そういうの好きなやついるから」
というわけで、俺と入沢とB組のやつ二人、合計四人で、放課後の探検に出掛けることになる。
四人で行動していてはめだつ、ということで、先発隊がふたり、出発した。「中にはいれたら連絡して。ひとりずつ行くから」
B組の連中は、たきうえくんといのうえくん。たきうえくんのほうが背が高くて、いのうえくんのほうはまだ小学生みたいにぼんやりした顔をしている。ふたりとも趣味は怖い話を読むことと、あと家族旅行らしい。
B組のふたりは頷いて、俺たちに背を向けて歩き出した。風がざあざあと鳴って、あたりの木々をらんぼうに揺らしている。
十二月だった。クリスマスまえだというのに、今年は二回も雪が降った。今日は空気が乾燥していて、肌寒い。俺はダウンのファスナーを首まで閉めて、そのなかに顔を埋める。
「さむい。帰りたい」
「軟弱者が。先に逃げたらあとで罰ゲームな」
「逃げねえよ」
ダウンのポケットに手を入れて、足で軽く蹴り合う。
「蹴んな」
「お前が蹴んな」
「泥つくだろバカ」
「泥つけるよバカ」
とか、バカをやっていると、ポケットに振動。
俺たちはじゃんけんをして、俺が負けたために、先に廃病院に入ることになる。
『入り口は鎖が掛かってて入れないから、裏回って。勝手口みたいなとこがあるから、そこから入って』
人通りのないことを確認しながら、俺は足早に裏手に回って、いりぐちを探す。
病院の裏手は身の丈ほどの草が生い茂っていて、いちいち体にあたって気持ち悪い。夏とかに来なくてよかった、と俺はおもう。蚊とかすごそうだし。
病院の壁は、元は白かったのだろうけど、今ではあちこちが煤けて薄汚れている。蔦とかもじょうずに絡まって、廃墟っぽい雰囲気がある。「あ、あった」
俺はひとりごとを言って、その扉らしきものに手を伸ばす。ドアノブがはんぶん取れかけて、そのろしゅつした部分の木は腐っている。俺はほんのちょっぴり開いていたドアの隙間に手を入れて、ドアをこじ開けるようにして動かす。ギー、と扉の軋む音。
病院の中に入る。
足元は散乱した紙類だの布類だのがごちゃごちゃと捨てられていて、そこに外から入ったらしい土とか葉っぱとかがついている。再び、ポケットに振動。『床がくさってるとことかあるから、踏み抜かないように気をつけて!』
俺はすり足のようになって移動しながら、少し足元がぐんにゃりとするようなことがあれば避けて歩く。
裏口から入った場所は、どうやら水場らしい。水道があって、薬品棚があって、その周囲に空き瓶がこれでもかというほど散らばっている。俺はそれを避けて通りながら、ドアを開けて、廊下に出る。
廊下に出ると、底冷えするような冷気が、足元から上ってくる。緑色の床に、なんとなく空気もどんよりしている。俺は二度、空咳をした。B組の連中は、どこまで行ってしまったんだろう? 俺はポケットから携帯電話を出して、文章をうちこむ。『いま、どこ?』それはなかなか既読にならない。俺は携帯電話を仕舞って、しかたなく廊下を歩く。
ふるいつくりの病院だ。割れた薄いガラス窓から、外の空気がどんどん流れてくる。めのまえで、何かが動いた。
「うわっ?」
俺が怯えていると、その何かはちょろちょろと動いて、俺の足元を通り抜けていった。ねずみ?……
「ゲーッ、もうさいあく……」
なんか、想像していたほど楽しくない。これなら家に帰って温かい部屋でゲームしてたほうがよっぽどよかったかも……
「ねー、たきうえくんたち……どこ……?」
俺は大きな声を出していたつもりだったけど、実際に出たその声は掠れていて、とてもじゃないけど誰の耳にも聞こえないような音量にしかなっていない。俺は緑色の空気がただよっているような廊下をただ歩き、そしてどん詰まりに来たので、左に曲がった。
妙に明るい廊下だった。外は曇っていたはずなのに、なぜか右側一面に貼られた薄いガラス窓からは、燦々と穏やかな暖色のあかりが注いでいる。そのせいで、廊下の惨状は先程の廊下よりもひどく映った。
ほこりがぼんやりと日光に反射して、きらきらと輝いている。割れたガラス瓶、大量の黒いキャップが散らばり、木くずがあちこちに散乱している。ちょっと、ここは通りたくないなとおもう。「たきうえくーん……」呼んでみる。返事はない。
でも俺はそれ以上やっぱり進む気になれなくて、ちょうど手前の部屋のドアを、指で押したりして時間を潰していると(まったく入沢は何をしているんだ?)、そのドアが開いてしまった。
半開きのドアが、それ自体が意志を持っているみたいに、ゆっくりと開いていった。
廊下の明るさとの対比のせいかもしれなかったが、部屋の中は暗かった。カーテンは閉まっているが、ところどころ破れていて、その破れ目から外の明かりが入ってきている。俺はちょっと首を伸ばして、その中を覗いた。
ちいさな部屋だ。作り付けの棚があり、本や紙箱などがまばらに入っている。その向こうにはところどころ割れたあとの見える窓、てまえに長椅子があって、パーテーションがひっくり返っている。それから、棚の下の机の上には、大量の紙もの。なんか面白そう。俺はその部屋の中に足を忍ばせた。青い空気がまとわりつくように、俺の皮膚にまるで染み込むみたいに馴染んだ。部屋の雰囲気が青く感じられるのは、窓に引かれているカーテンが、青色をしているからだ……
………………
俺は机の上の紙ものをぱらぱらとめくる。日……とうなお日誌。ちがう、とうちょくかも。当直。当直だな。
とくに楽しそうなことは書かれていない。山になっていたその紙ものの殆どは、その当直日誌らしい。おれはきょろきょろと部屋の中を見回して、他になにか楽しそうなものはないかと探す。たとえば……呪いのホルマリン漬けとか。めだまの標本とか。人体模型の心臓部分だけとか……
「………………」
そして、そのノートが俺の目に留まる。
パーテーションのひっくり返っている奥に、ひとつの机があった。その机のうえに、そのみずいろのノートは、誰からも忘れられたかのようにぽつんと乗っかっていた。
端っこがちょっと破れている。表紙には、大きな黒い字で、『こうかんにっき』と書かれていた。
「………………」
こんな興味をそそるような文字が書かれていて、このノートを開かないやつがいるだろうか。いやいない。
というわけで、俺はそのノートを、開いた。
でもそれは、交換日記ではなかった。なぜかというと、その文章はふたり以上の人間が交互に書いたものではなさそうだったから。
1995.02.01
癒着失敗。でも、未来は明るい。
1995年? 三十年まえだ。俺は生まれてもいない。三十年まえの日記かなんかだろうか。でもどうしてそんなものがここに?
1995.02.21
いたずらに過去ばかりが思い出されるようで胸が苦しい。あなたと会ったときのことを覚えている? いつまでも、かみ尽くしたガムのように、あの頃のことばかりを考えてしまう。あの頃に戻れたらどんなにいいだろうね。そして、同じ景色をいっしょに見るんだ。そうやって想像することは、今現在の僕の、たったひとつのなぐさめであって……
俺はそのノートから目を離した。なんだ、これ。甘ったるくて読んでいられない。他人のポエムなんて読んだところで、おもしろくもなんともない。
俺はそれからぺらぺらとページをめくって、めくってもめくっても同じような字体の、同じようなインクの色をした文章が続いていることにへきえきして、ノートを閉じそうになる。
けれど、そこへ来て、奇妙な文字が俺の関心を誘った。
1995.04.21
きのう、とうとう、切腹する女の人を見に行った。きちんと白い着物を着ていて、五人くらい並んだ女の子たちが、それぞれに宴会場の台座のうえに、ひなにんぎょうのようにちんとして座っている。宴会場には鈴の音がずっとしている。りんりんという音に重なるように、どこかから老人の歌声のようなものが聞こえている。司会の男が入ってきて、それぞれの女の子のなまえを紹介していく。女の子たちはうつむいて、何も言わない。そのうちに、彼女たちの前に三方が置かれる。それぞれのうえには、白い紙の巻かれた短刀が、ぽつんと鈍い光を帯びて乗っている。司会の男の紹介が終わると、女の子たちはめいめいに、自身の纏っている着物の襟をくつろげると、上半身を露出させる。うつむいたままの五人の女の子たちを見守る観客は、僕を含んでたった三人しか居ない。右端の女の子がうつむいたまま何かを言っている。「死んだ後の話をしますと私は灰になりたいのであります」うつむいていてかつ早口なので、おおよその意味しか聞き取れなかったが、そのようなことを言っているようだ。「そして私は灰になりその灰が木や水や鳥や小鳥をうるおし私は地球全体の私となるのであります世界は私であり私は私ではなく世界であったそのような世界を恐れる道理が果たしてあるでしょうか」それに輪唱するかのように、右から二番目の女の子が、となりの女の子に被せるように話し出す「私はそして大気になるでしょう大気になってえいじくんの口の中から出入りを繰り返し寝食を共にしともに食べともに眠りともに生きるのです私という個体はまったくなくなってしまっていつか私はえいじくんとふたりきりで永遠の時を過ごすのですそのために遣わされたものは死ではなく生ではありませんか」更に真ん中の女の子が「私は液体になります液体になることによってじめんにしみこみますしみこんだことによって私という液体はすべてのあまねく人々を支える地面になりますつまり私はわたしこそは私が居なければ、あなたがたはその場に立つこともできなくなってしまうこれが幸福でなくしてどんな言葉でいいあらわせるのでしょう私はあまねくすべての人類が二足歩行を可能にするための最重要機械となって永遠を生きるのですつまり私が居なければ人間は二足歩行がなりたたずやくたたずの猿に戻ってしまうこれを人類の幸福といわずしてなんとする」そして四番目の女の子「助けてください、助けてください。私は死にたくありません、殺されてしまいます」そして五番目の女の子が「この子は嘘をついています私はこの子の嘘に騙されてこんなところにまで来てしまいましたがその嘘を私は愛していました私はこの子の嘘を愛していました、その嘘によって生命の場所が変換されるならこんなにうれしいことはありませんあなたとともにこのいのちを散らせるなんてそれ以外に、それ以外にこの世で成すべきことなどなにもありはしませんでした」というような言葉がぴーぴーがーがー壊れた拡声器のような少女たちから聞こえ続けていて、五月蠅いことこの上ない。そのうちに司会の男が彼女たちの頭を叩いてだまらせると、それから彼女たちは上半身を露出させたまま、一斉に三方から短刀を取って、そしてその切っ先を、自身の唇に付け、真一文字に引いた。五人が同時に。そのめいめいの下唇から、真っ赤な血が滴った。司会の男は五人が同時にそれを行ったことを認めて、こう言った。「死化粧は女のいのちです。死化粧を施すことで、彼女たちは、永遠の命を生きるのです」
「おい」
「うわああ!」
俺はびっくりして、大声を出してしまったので入沢に笑われた。「なにやってんだよ、こんなところで」
「びっくりしたあ」
「何読んでんの?」
「あ、違う」俺はそのノートを慌てて閉じて、それ以上見られないように、入沢のダウンを引っ張った。「なあ、もう行こうよ。つまんないし、寒いし、お腹すいたし」「B組のやつら、もう外に出てるってよ」「嘘ぉ!?」「マック寄ってこって。おこづかいある?」「えー、マックかあ……」「嫌なの?」「食欲ない……」「今腹減ったっつったじゃん」「え? そうだっけ……」
俺は気が動転していたので入沢には奇妙な顔をされたが、俺の見ていたノートについては何も言われなかったので、更にごまかすために、「やっぱ行こ。俺ポテトとシェイクだけ頼む」「お腹すかない? それだけだと」「あんま外で食べるとお母さんに怒られるもん」とか、言いながら、半ば俺は入沢を押し出すように、その部屋を出た。
その夜、俺は夢を見た。
暗い部屋に、ちいさな、ぶあついテレビのようなものが置いてあって、そのめのまえに、ひとりの男が座っている。テレビ画面からの青白い光が、その男の正座した全体に掛かっていて、だけどテレビの中には、何も映っていない。
「死化粧は女の命です」
突然、テレビ画面が切り替わり、はでな化粧をした女の人が、低い声で言った。
テレビの前の男が、その画面に指を這わせる。女の人の真っ赤な唇を撫でる。女の人が微笑んでいる。陽気な音楽が流れ出す。女の人の形の良い唇が、言葉を作る。「死化粧は女の命です」
目を覚ます。
****
友人たちは一回で廃墟探索に飽きたらしかった。寒いし汚いし虫居るしつまんなかったらしい。俺もほとんど同意見だったから、あんなの全然楽しくなかったよなー今度お互いの持ってる怖い本見せっこしよとかあたらしくともだちになったたきうえくんたちと話していたが、でも本当のところ、俺はあのノートのつづきだけは読みたいとおもっていた。
これから本格的な冬になるし、夕方だってすぐに暗くなってしまう。じっくりとあのノートを読むには、どうしたらいいだろう?
俺はお父さんに相談した。「今度の土曜日、ともだちと遊びに行く予定なんだけど、お母さんにないしょにできる?」
「どうして?」とお父さんは言った。
俺のお父さんは普通の会社員。今はなんとかという会社の部長さんをやっているらしい。最近白髪が目立ち始めたといって、お母さんに頼んで白髪染めを手伝ってもらっている。「だってどこいくのかとか誰と行くのかとか宿題終わったのかとかうるさいから。おれは午前中から図書館に行ってるってことにしてくれない? 宿題は今日のうちに済ませるから」「まあ、それはいいけど」お父さんはあごひげのあたりを撫でながら、「本当はどこにいるのか教えてもらわないと」「入沢んち」で、俺は嘘をついた。「そこからどこに行くかは分からない。携帯持ってかないかも。さいきんみんなでデジタルデトックスしようって話してるから」「デジタルデトックス? なにそれ」俺はかんけつにその言葉の意味をお父さんに教えてあげた。そしたらお父さんは、「それは素晴らしい心がけだね」とか言っていた。
で、俺は、土曜日の朝からこっそりでかけて、その廃病院に行く。カイロ2個持ち、水筒と、あと図書館に行くって設定だからリュックと、あとお腹が空いた時用のおかし。あとマスク。ほこりがすごいから。
廃病院の近くは人通りが少なく、店などもほとんどないので行き交う人もあまり居ない。俺はそれでも左右を確認して、人がまわりにいないことを確かめてから、裏に回って、再びあの部屋に向かう。
部屋の中は、この前と別に変わった様子もなかった。俺はめあてのノートを見つけて(なくなってたらどうしようとおもったけどちゃんとあった)、ページをめくって、このまえ読んだ続きから、読み始めた。
1995.05.24
僕のリーベ。すきとおった白い頬。首筋に動く青白い静脈、浮き出た鎖骨、ちいさな顎。そのすべてが永遠に持続するならばどんなによかっただろう。あなたはそんなことを考えたことはないだろうか?
なぜ僕たちはこのようにうつくしく生まれてしまったのだろう。そう考えたことはないか? 僕はおさないころから、ずっと考えていた。かわいらしいと愛されて、無遠慮に顔に触れられたこと。その時の他人の弛緩した顔と、ひなたに放置してぐずぐずになってしまった生肉のような指の温み。すべてが不快だったが、僕はお礼を言わなければならなかった。そのような不愉快な温みを与えられて、どうして感謝のきもちなどがわいてくるだろう? だけど僕の母親は言うんだ、けんちゃんお礼を言いなさいって。褒めてもらえたんだから、ありがとうって言わなくちゃおかしいでしょって。僕はおかしいんだってさ。アハハ……
僕はそれでもありがとうと言った。感謝して、微笑みさえした。それだけしていれば、世界はそれで平和なんだからね。誰も僕のことを醜いとは言わないし、じゃけんにあつかったりもしない。ただ、僕を崇めるか、あるいは愛するだけ……でも、僕はそんなことのために生まれてきたわけじゃない。いらない他人の愛のために、生まれてきたわけじゃない……
僕は歳を早くとりたいとおもっていた。だってその分、顔には皺が刻まれ、体は薄く萎えていくだけなんだからね。はやく無駄な称賛から開放されたかった。僕がうつくしくて、それで益するものとは誰だろう? そうやって自棄になったこともあるけど、おとなになるにつれ、どうでもよくなった。見たければ見ればいい、称賛するのならば称賛すればいい。僕は、そのへんの、うつくしい花や木や動物となんら変わらないものだし、それらに対して人々は称賛を惜しまない。ただそれだけのことだ。
そうやって少しずつ僕が歳を取っていく途中で、僕はあなたに出会った。
あなたが僕のことをその目にみとめてくれてうれしかったよ。
僕の顔は……うつくしい僕の顔は、このときのために用意されたものだったんだなっておもった。
あれは暑い夏の盛りだった。研究室に来たあなたは、白いシャツに黒のズボン、少し、首筋に汗をかいていた。
「西島先生の使いで来ました」
と、あなたは言った。
その時の僕のこと……覚えている?
まるでばかまるだしだったね。ぽかんと口を開けちゃってさ。あなたから、一切目が離せないで……
僕はぐりぐりとよく動くあなたの喉仏を見ていた。君はズボンから白いハンカチを取り出して、首筋を拭いていた。そして、言った。「すみませんが、水を一杯いただけませんか」
それは多分僕に願われたものではなく、僕の奥にいる助手のAさんに乞われたものだったんだろう、が、おろかにも僕は立ち上がって(つまり、Aさんに先を越されてたまるかとおもったので)、研究室の簡易キッチン、そこでお茶をわかしてみんなで飲んだりする――ところへいって、ガラスコップへ水を注いで、あなたのところまで持っていった。
あなたは一瞬、キョトンとした顔をしていた。僕はその顔を、じっと見つめた。目の奥が、困惑したように動いた。僕はそれを見ていた。あなたの白い頬に、赤い色が散った。僕は笑った。
「どうぞ」
あなたはひとこともなく、それを僕の手から受け取った。そして、この世で最も甘露なものを飲み干しているというように、急いで喉を鳴らして、うまそうにその水を飲んだ。喉仏がぐりぐりと動いて、僕はそれを、指で潰してみたいとおもった。
「ありがとう。ごちそうさまでした」
あなたは右手の甲で口元を拭って、それから僕に向かって微笑んだ。
僕はその時から、ずっとあなたのことが好きだった。
僕はそれまで、自分のこの顔が、武器だとはおもっていなかった。僕にとってのそれは、すてきに飾られた花束を、みんなにも惜しげもなく見せている……そういう感覚だったんだ。でも、僕はその花束を持っているだけで、眺めるわけではないから、なんにもおもしろくない。それで、僕の花束をみた他人は、その花束のことをきれいだと言っている。そういう感覚。だから、そういう賞賛の言葉は、僕自身からは切り離されていた。
でも……あなたに向かっては、ちがう。
あなたは僕の顔を見て顔を赤らめた。僕はあなたに、あなたのきれいな目に、鑑賞に値するとおもってもらえた。僕は、この顔でうまれてきてよかったと、そのときになって初めておもった。僕に与えられたくだらない称賛も、嫉みも羨望も性欲も、全部このときのための代償であって、あれが僕の全てではなかったということ……その事実だけで、僕は十分だった。あなたからはもうひとつたりとも求めようがないし、求めたりしない。僕はあなたとおしゃべりをしているだけで楽しかった。すべてが満たされた。あなたと視線をぶつけあって、互いに、どちらともなくその視線から逃れて、含み笑いを何度隠したことだろう。僕は幸福だった。あなたがあなただけの、恋を僕に打ち明ける前まで。
僕はあの日、キャンパスの中を歩いているあなたとそれから女の人を見た。僕はあなたにぐうぜん会えて、有頂天になっていた。すぐに声を掛けようと、走り出したのに、僕はあなたに声を掛けることが出来なかった。
どうして?
けんじくん。どうしてあのとき、あなたは僕のことを見てはくれなかったの?
部屋の中で、電子音がした。俺は自分の腕時計に視線を落とした。あれ……もう夕方の五時だ。まだ幾らも読んでいないのに。でも、午前中から図書館に居て、五時まで帰ってこないということになったら……お父さんは、お母さんに俺の秘密をばらして、それで入沢のお家に電話を掛けてしまうかも。そんなことになったら……
俺は急くような気持ちで、ノートを閉じて、そしてそれをリュックの中に入れようか、入れまいか、考えた。でも……こんなアブナイもの、部屋に持って帰りたくないし。万が一呪われたりしたら嫌だし、お母さんに見つかってその内容を読まれたりしたら、もっとさいあくだ……
俺はためらったあと、そのノートを元あった場所に戻した。そして、足早にその部屋を出た。
その後はお父さんが口裏を合わせてくれたので、そんなにお母さんにも怒られなかった。長いこと図書館に居たのねえと言われたから、怖い本読んでたと言ったらあんたも好きねえと言われた。
日曜日はおとなしく家に居た。お父さんはドライブに行こうと俺を誘ったが、気分が乗らなかったので断った。
月曜日、俺は放課後一番に教室を飛び出して、誰かに声を掛けられる前に、廃病院に走った。裏口の前で息を整えて、鞄の中につっこんであるマスクを掛けて、病院の中に入る。
部屋の中でページを捲り、癖の強い、引っ掻くように書かれた、青いインクの文字を読む。
1995.06.01
僕はみじめな気持ちだった。
あなたは僕と、哲学や文学を語り合ったなじみの喫茶店で、あなたの隣に座る女の人のことを、はじしらずにも紹介してくれた。
女の人は、ワンレンに赤い唇をして、ずっとガムを噛んでいる女の子だった。あなたはそういう女の人の横で、にこにことこの世の春を謳歌するようなのほほんとした顔をして、僕に向かってこう言った。「これからは三人で付き合っていこう。旅行に行くのも遊びに行くのも勉強をするのも、みんな三人でやろう」
女の人はつまらなさそうに、自分の長い髪の毛の毛先を撫でていた。でも僕は笑っていた。そして、頷いていた。そうだね、それがいいねって。だって僕はあなたに嫌われたくなかったから。
なんてみじめなんだろう。
僕はその頃、よく涙で枕を濡らしてくらしたものだよ。こんな体は何の意味もない。こんな性別も、こんな頭脳も、こんな考え方をする僕のすべては、すべて、なんの意味もない。
僕は自分が男であることを憎んだ。そして、男である以上、あなたのなんらかの対象にはなれないということが、僕じしんに与えられた罰なんだとおもった。男女同士ではたどり着けない境地がある? 男女の関係よりも、男同士の友情の方が、濃く、長く続く。きっと僕が男に生まれたのには意味があって、そしてそういう僕と、男の君が出会ったのにもきっと何らかの意味がある。
人というものは、なんらかの、どんなちいさなものでもいい、未来に対しての希望のようなものを持っていなければ、生きていくことはできない。僕の希望というのは、君そのものだ。君と過ごす日々や、君が僕の隣で笑ってくれること、僕を認識して、僕に話しかけてくれること……そういう平凡な、ただの日常でしかない未来を、あなたは、めちゃめちゃにしてしまった。僕たちの関係に、女という厄介な存在をもちはこぶことによって。
だけど僕は結局よわむしだ。いくじがなくて、あなたに反論することすらにも怯えて、ひねこびた笑顔を浮かべることしかできなかった。
僕たちはいろんな場所に出掛けたね。登山にも行ったし、キャンプにも行った。美術館にも行ったし……星空を見に行ったこともあった! あの時は、流星が見られるというので、野辺山の方にまで出かけて行ったんじゃないか。どの記憶も……僕の中では、宝物のおもいでだ。
僕はその女から、あなたを引きはがそうなどということはチットモおもわなかった。だってその女と過ごすのが、あなたにとっての幸福ならば、どうしてこんな僕ごときが、あなたの幸福を台無しにするようなことがあるだろう。あなたは、こういう僕の考え方を、分別臭いといって笑うかもしれないね。でもね、僕はおもうんだ。あなたに嫌われるような存在になった僕のことを、きっとあなたは愛してくれないだろう。僕はあなたに愛されたかった。だって僕は結局、好きなものは何、とあなたが他人に訊かれたときに、僕の好きなものは、僕の大親友のけんじくん、とあなたに言われたいだけだったんだから。僕が……あなたの恋人のことを台無しにしたとして、その結果、あなたが僕のことを大親友だと言ってくれる……そんな未来があるともおもえない。僕は君のことが好きだったんだ。そして、君が僕のことをおともだちだと、気のいいおともだちだと認識してくれるかぎり、そういう“気のいいおともだち”であり続けるための努力を、怠ってはいけないとおもった。ただそれだけのこと。
けんじくん。僕はゆうこさんのことは嫌いだよ。ゆうこさんは、僕とあなたとの間に入ってきて、ぼくとあなたという円球をひきはがし、あなたとゆうこさんという融に変じせしめ、そして僕だけをその環から追い出してしまった。
僕はゆうこさんのことが憎くて堪らない。でも、そのゆうこさんのことを選んだ君のことを、僕は尊重する。だから、僕はこれ以上ゆうこさんのことが憎めない。それならば……この感情は、どこに吐き出せばいいの? 僕は誰かを憎みたい。でもそれはできないことなんだ。
吐き気がする。
そこまで読んで、俺はその日記帳から顔を上げる。
ゆうことけんじ……どこかで聞いたことのあるような組み合わせの名前だ。
俺はノートを閉じて、帰り道を歩きながら考える。でも、ぐうぜんだろう。ゆうことけんじなんて、ありふれた名前だし、俺のお母さんとお父さんが、この日記のもちぬしと、何の関係がある……
その日の夜、お風呂から出てビールを飲んでいるお父さんに、俺は何気なく、世間話の一環みたいにして訊いてみる。
「お父さんの知り合いでさ、けんじさんって人いる?」
お父さんはビールをグラスに注ぐ手を止めて、ビール缶をテーブルの上に置く。
「けんじさん?」
「うん。なんか。俺のともだちに”みなと”ってなまえの子が多くて。なんか、自分とおなじなまえの子のこと呼んだりするのってどういう気持ちかなとかおもってさ」
「ふーん」
「お父さんには……おなじなまえのともだちとかいた? なんて呼んでた……?」
「同じ名前のともだちかー」
お父さんは感慨深そうにつぶやきながら、ビールを一口飲んだ。
「居ないなあ。でも、居たとしたら名前で呼ばないかもなあ。たとえば”やまだけんじ”さん、だったら、”山田”、って呼んだりするかも」
「あー、なるほどね」
「クラスではどうやって呼び分けしてるの?」
「いやふつうに名前で呼んでる。だからみなとくーん、とか誰かが大声で呼ぶと、三人くらい同時に振り返ったりしてる」
「ははは。不便そう」
「でもさー、そういうのってない? 名前のはやりすたり的な」
「あるね。お父さんの時代は大輔くんとか多かったな……」
「大輔って、入沢のお父さんの名前だよ」
「あーそうなんだ。じゃあ世代だね」
とか、俺たちは話して、やっぱりあのノートとお父さんは関係ないんだ、まあそうに決まってるよな、とか俺は安心していたけど、それでもやっぱりノートの続きは気になる。
俺はだんだん人付き合いが悪くなる。入沢に、「いつもダッシュで教室からいなくなるけど、放課後なんかあんの?」と訊かれる。俺は、「やー今回のテストの結果さいあくでお母さんが勉強しろってうるさくてさー、次のテストで平均点上げないとおこづかいカットするとか脅されてて」とか平気でうそをついている。
ノートの続き。
美人薄命という言葉がある。あなたというひとは、まさにそれの典型だったというわけだ。
その秘密を打ち明けられた時に、あなたはまず僕にこう言った。ゆうこさんに申し訳ないって。しょうらいを誓い合った仲なのに、結局僕が“こういうこと”になるのなら、僕と付き合っていた時間を、他の男に割くべきだったのに、と。
僕にはあなたの言っている言葉の意味は分かりかねましたけど、でもあなたはそういうことを考える人だったんだから、それは仕方ない。そんなことないよ、と僕が言ったところで、あなたのなかでのあなた自身の評価というのは、揺らがないんだろうし。
だから僕があなたにしてあげられることといえば、あなたのその時の不安を拭ってやることであって、僕の欲望を満足させるということではなかったはずだった。それでも、このいやらしい、欲望のてあかにまみれたような僕という悪鬼が、喫茶店の、さしむかいの、あなたの青白い顔と真っ白な半袖のシャツ、薄い色のジーンズ、左手の腕時計、テーブルの上のアイスコーヒーに向かって口にしたのは、こんな言葉だった。 「けんじくん。いっしょにドライブに行こう。ゆうこさんは抜きで。僕はまだ君から離れたくない。君が死ぬなんて嫌だ」
あなたは顔を上げた。そして、少し困ったようにして笑った。
ドライブは素晴らしかった。目にするもの、耳にするもの、なにもかもが新鮮に感じられて、吸う空気も、吐く息も、すべて洗いたての新品のようにさわやかだった。高速のインターで降りて、サービスエリアでアイスクリームを買って食べた。「ゆうこさんに迷惑をかけたとおもっているんだよ」と、きみは言った。
「僕があの人に関心を向けなければ、あの人はもっと別な、健康な男といっしょになって、幸福な人生をまっとうできたかもしれないのに。僕が死ねば、きっとそれはあの人の傷になる。それを仮に、のちのちにおいては克服できたとしても……これからゆうこさんは、傷つかずにはいられないだろうね。僕にはそれが堪らない。関係なんてむすばなければ、こんなことにはならなかったのに」
と、言いながら、きみはサービスエリアのベンチで、しばらくのあいだしくしくと泣いていた。僕はてもとでどろどろに溶け始めたアイスクリームを、それでも口に運ぶことも躊躇われて、ただそれがいたずらに溶けていくのを見つめることしかできない。しかし僕は溶けていくアイスを眺めながら、そうだ、これが僕の生まれた意味だ、とおもった。
だから僕は幸福だ。なぜならこの僕というものは、おのれがこの世というろくでもない場所に放り出されたということについての、本当の意味を知っているのだから。
よく、人生の酸いも甘いも知りつくし、他にはどんな醍醐味も楽しみもない、とうそぶくようなニヒリストが、人生に意味などない、生命に意味などはない、などと、知ったような口をきくのを目にする。しかし僕はおもう。そういう類の発言をする存在というものは、自分の発するそのようなニヒリズムを、どこかで誰かに否定してほしいと望んでいるのではないか。
おのれの生命そのものの存在意義が不安定で仕方がないから、その不安定そのものを否定しようとする。しかし、おのれがいくら自身の不安定さを否定したところで、その不安定という非・安定が揺らぐことはないのだ。それに僕は、人から肯定されて、「あなたの人生に意味はありますよ」なんて、無責任な言葉を吐きつけられるなんてことは真っ平御免。
だから僕は、けんじくんに向かって言う。
「ゆうこさんを悲しませない方法を知っているよ」
けんじくんは顔を上げて、僕を見る。
僕はその時、僕の欲望を、けんじくんに話して聞かせたりなんてしなかった。それを僕は、いまでも後悔している。
俺は今度はお母さんに、話を聞きに行く。
「ねえ、お母さんとお父さんのなれそめってなに?」
「なれそめぇ?」
お母さんは素っ頓狂な声を出して、スマホから顔を上げる。
「嫌だ。なにそれ。学校の宿題?」
「まあそんなところ」また嘘をつく。「ファミリーツリーがどうのこうのって。だからいちおう訊いておこうとおもって」
「なれそめって、別にそんな大したこともないよ」
しかしそういうお母さんの声は、少しはしゃいだ色を帯びている。そしてそれを一生懸命に声に出すまいとして抑えている、というか。
「普通に、学生のときに知り合っただけ。でもねー、お父さん、若い頃きれいだったんだからあ。今は見る影もないけど」
「ふーん」
「多分実家に行けばまだ写真あるよ。おばあちゃんにアルバム見せてって今度言ってみな」
「えー、めんどい」
「お父さんの在りし日の姿見たくないの?」
在りし日の姿ってなんだ、ヘンな日本語。と俺はおもいつつ、しかしなれそめなんて訊いても仕方がない。
なんだか最近うつうつとする。いい気分じゃない。
いい気分になりたい。
廃墟へ行って、日記の続きを読む。
まさか、けんじくんが僕のした話のすべてを、まるごと信じてくれたともおもえない。僕が彼にしてみせたことは非人道的行為だったのかもしれないし、倫理的にも、正しい行為ではないのだろう。
だけど僕のした行為は、けんじくんのためにも、ゆうこさんのためにも、 そして僕のためにもなる行為だったと信じている。そしてけんじくんは、僕の信じるものをまた、信じてくれたというに過ぎない。だからほんとうは不思議なことなんて、なにも起こらなかったんだよ。
コトン、と音がした。
俺はびっくりして後ろを振り返った。俺の後ろには棚があり、棚の上には埃を吸った書類が積み重なっているだけ。この部屋には誰も居ない。俺は深呼吸する。マスクをつけていて、呼吸が苦しい。少しだけマスクを下ろして、廃墟の空気をじかに吸ってみる。でも、すぐにきもちわるくなって、マスクをつけ直すと、再び日記の文章を読み始める。
家に帰る。
俺は家に帰ってすぐにお風呂に入って(沸いてなかったから自分で沸かした)、ちょっと頭が痛いからさきに寝るといって自室にこもって、コンビニでコピーした日記の残り十ページを、もう一度読む。
僕はきみに、きちんとした説明をしなかった。でも、きみが僕に質問をしたのは、ほんのちょっぴりのことだけだった。それで、ああ、僕はけっこうきみに信頼されていたんだな、ということを知った。嬉しかったよ。
「あなたが僕になるのはいいとして、それじゃあ、きみはどうなってしまうの?」
「もちろんいなくなるんだよ」と、僕は答えた。「その儀式に参加した女の子たちはみんな、それぞれがそれぞれの目的のために、あたらしい生命に生まれ変わる。でもそれは、古い自分の肉襦袢を脱ぎ捨てるように簡単なことなんだ。蝉かなんかの脱皮といっしょだよ。僕は皮を脱ぐだけ。だから僕という皮はなくなってしまうかもしれないけど、死ぬわけじゃない。僕はけんじくんとして生きるんだよ」
「でも、そうなれば、“けんじくん”の人生は?」
“けんじくん”は、哀れっぽい目をして、僕を心配そうに見つめた。「僕のせいであなたの人生を台無しにすることができるとおもう?」
「出来るよ」と、僕は答えた。「僕はきみのことが好きだから。好きな人のためだったらなんだってしてあげたい。けんじくんがゆうこさんにおもうような気持ちを、僕もあなたに持っていることを、あなたが否定することはできない。もしあなたが僕のこの気持ちを否定するなら、平等に、あなたもゆうこさんへの気持ちをてばなしてよ。できるの? できないくせに」
と、言いながら、僕は堪らず泣き出してしまった。こんな、泣き落としみたいな格好悪いことはしたくなかったんだけど、泣くという行為は、本人の制御できるものとできないものがある。結果として僕は泣き落としというひれつな行為によって彼からの了解を得て、彼は僕の人生を台無しにしてくれることに肯ってくれた。
ああ、大好きな人に台無しにされる人生! それ以外のものなんて、何も要らない!
でも、“癒着”はなかなかうまくいかなかった。僕としてはビデオに映っていたとおりの手順でやっていたつもりだったけど、細部がどうしても違ってしまうらしかった。
成功したときの瞬間のことはおぼえている。その時の、幸福だけどとても悲しい気持ち、きっともう二度と味わうことはないんだろう。
僕はおしまいに、あなたの――つまり、自分の唇に――紅を差してやった。死体の唇っていうのは、ゴムみたいな感触がする。それが紅筆の先からも伝わってきた。僕はあなたの、つまり僕の死体に化粧をしながら、どんどんと涙があふれて来て、泣けて泣けて仕方がなかった。
もう、いっしょにアイスクリームを食べられないんだな、とか。人間の生とか、自分たちの生き方とか、まじめな話もたくさんしたけれど、もっと馬鹿馬鹿しい話、たとえば――北杜夫と辻邦夫の関係と、北杜夫と阿川弘之との関係、どっちの関係の方が好き? とかいうような、どうでもいい話ももっとしておきたかった。彼とこれから二度と会話できないのに、それ以外の人間とはこれから嫌でも会話しなければ生きていけないなんて、そんな理不尽なことが許されていいんだろうか、とか。
冷たい頬に紅を這わせて、それを指先でまるく円を描くように伸ばしていく。長いまつげが真っ白な頬に影を差していてきれい。二度とこうして彼の姿を客観的に眺めることはできないんだから、もっと真剣に見つめておくべきだ、とおもうのに、なぜか視線はそぞろになり、彼以外のことが頭の中に浮かんでくる。今日、帰ったら何を食べよう、とか。明日は早いから、目覚ましを一時間早めておかないと、とか、どうでもいいことで頭がいっぱいになって、彼のことが考えられなくなる。僕は流れてくる涙を乱暴に服の袖で拭って、用意して置いた手鏡を覗いて、少し笑う。
「ああ、きれいになった。けんじくん。これからはずっと一緒だね」
ビデオから女の声が流れている。「わたしはこれより草木と同じになります。死んでからもそして草木となって生存します。わたしは生まれ変わるわけではありません。誰もが皆勘違いをしています。死後はありません。わたしたちにあるのは、ただの塵とそして永遠です。死化粧ののちに、私たちは全能になり、すべてを知るのです。新しい門出を寿ぎましょう。わたしはあなた、あなたはわたし、わたしはもともと、あなたとおなじ、あなたとおなじ存在」
1995.08.16 大場健児しるす
次の日、俺は学校を休んだ。
その日の夕方近くになって、部屋のドアがノックされた。
顔を覗かせたのはお父さんだった。
「気分が悪いんだって? 病院には行ったの?」
お父さんはスーツ姿のまま椅子に座って、起き上がった僕のおでこに手を這わせた。つめたくて、ぶあつい手のひらだった。
「熱はないみたいだけど。風邪がはやってるらしいからな、気をつけろよ」
「お父さん」と、僕は言った。
「何?」
「お父さんはさー」俺は俯いている。正面を見ることが出来ない。「お母さんと結婚して幸せ? おれが生まれて幸せ?」
「………………」
お父さんは黙っている。
部屋の中に西日がいっぱいに差していて、カーテンを閉めていても、なんとなく眩しい。今日は一日中ずっとねむっていたから、なんだか体もきもちわるい。
「なんだよー、急に」
お父さんの手が、俺の髪をがしゃがしゃとかき混ぜるように撫でる。
「幸せだよ。どうしたんだよ、急に。学校休んだから、不安になっちゃったのか?」
「日記、」
「え?」
「日記、読んだ」
「日記? 誰の?」
「日記、読んだ、お父さん。お父さんの交換日記。お父さんは別の人なの?」
「………………」
“けんじくん”は黙っている。俺は“けんじくん”の答えを、その場で、息を殺して待ち続ける。
おわり