小津安二郎とヤン・シュヴァンクマイエルと“I am Alice ! “な中年たち:『ボーはおそれている』(2023)感想

 

 朝、まぶしくて目を覚ました。

 で、テレビをつけた。すると、アマゾンプライムの宣伝が目に飛び込んできた。「どうせ有料でっしゃろ?」とおもいつつページを開くと、『ボーはおそれている』(2023)が、はじまった。ので、私は、朝っぱらから優雅に(?)その三時間になんなんとする映画を観たというわけだった。

 

 で、その感想。

 面白いか面白くなかったかといわれれば、面白かった! ので、感想はそれで終わり。以下、雑感。

 

 ところで、映画や本や漫画というものは、「面白い」ものと、「好き」なものに分かれる。

「この映画、面白かったなあ」という感情が、続いて「この映画、好きだなあ」に必ずしも繋がるわけではない。また、「この映画たいくつだったなあ」という感情が、続いて「この映画好きだなあ」につながる場合もある。そういう意味合いでいくと、私は『ボーは……』を面白く鑑賞したが、決して好きな映画であるとは言わない。だけど、とても楽しかった。そして私は鑑賞しながら、私はこの映画の中に、二つの映画をおもいうかべていた。それが、『東京物語』(1953)と、『ヤン・シュヴァンクマイエルの“アリス”』(1988)である、と。そしてこの物語の根幹にあるものはもちろん、『不思議の国のアリス』。僕たちはたったいま、それだけのものを内包した物語(の・ようなもの)を、三時間になんなんとする時間の中で、たっぷりと濃厚に過ごしたということになる。こんな映画が、オモチロクナイ! はずは、ないんである。

 しかし……………

 

 それと同時に、この作品を面白がりながら、この巨大な世界観のまえに立ち尽くしながら、私(たち)は、また同時にこうもおもうのだった。「ああ、またこの話か」と。

 

 僕たちは物語に、その生命を犯されつつある。

 これは、普段からフィクション漬けになっている人特有のものかもしれない。現実問題にめをむけず、めのまえの現実をとりあえず保留にして、映画館のくらやみのなかに走る。あるいは、部屋の電気を消して、真っ暗闇の中で、配信サイトから配信されるドラマ、ないし映画を観続ける。しかし彼らにとって、それはひとときのなぐさめだ。画面の中に起こっている様々な“ドラマ”を、最も安全な領域から眺めること。それは、日常のつまらないあれこれに奔走しなくてはならない我々にとって、唯一の、憩いの時間でもある。

 もちろん人それぞれに憩いの時間というのは千差万別にある。家族と過ごすことが憩い、ペットと過ごすことが憩い、一人でぼんやりとするのが憩い、一人で絵を描くのが憩い……………なんでも良い。しかしとにかくその時間、“嫌だけどやらなければならないこと”から離れている時間というものは、現代人にとっては、絶対的に、無くてはならない掛け替えのないものである、と。

 

 そして人々は、他人が画面越しに見せてくれるドラマの中に、憩いを見出す。そしてそれは、他人の見ている「悪夢」であればなおのこと、楽しい。僕たちは、画面越しにみつめる、他人の不幸が大好きである。画面越しに他人のみのうえに起こる、殺人、犯罪、猟奇、嫉妬、陰謀、組織、散弾銃、馬の首、人間の首、呪い、悪魔、不倫、炎上……………現代人にとって、「他人の悪夢」は最大の娯楽だ!

 

 というわけで、『ボーはおそれている』(2023)。

「このシーンの意味というのはこういうことなんですね」とか、「この時の撮影裏でのエピソードは……」とか、「このモチーフに隠された意味は……」とか、そういう「しのぎ」になるようなネタをたくさん含んでいる映画だというのは、分かるんですが、そういうのは置いておいて。

 

「国境の長いトンネルを抜けると……………」的に、「Down, Down, Down―――」とやられてしまえば、私たちは、もうすでに、『不思議の国のアリス』を連想するように、ほとんど躾けられている。そして、「Down, Down, Down―――」してしまえば、もはや私たちは無敵だ。夢の中でなら、われわれは空も飛べるし、スーパーマンにもなれる。そして、「なんでもないこの僕」でも、きちんと主人公になれる。国家組織から命を狙われることがなくても、私立探偵でなくても、一流のスパイでなくても、アンドロイドでなくても、美少女じゃなくても、大金持ちでなくても、マフィアでなくても、「この、何の存在でもない僕」だけで、われわれは、大きな物語の主人公になれる。僕たちは、何ものでもない僕たちは、精神世界の中では、ほかのどんなものにも負けない主人公だ。

 

 著名な実業家を母に持つ中年の男ボー・ワッサーマンは、極度の不安感に苦しみながらも治安の悪い地域で一人暮らしをしている。ボーを妊娠した初夜に腹上死したと聞かされている父の命日に母を訪ねるつもりだったが、目を離したすきに玄関先で荷物と鍵を盗まれて飛行機に乗り遅れてしまう。さらにホームレスに部屋を占拠されてしまい、屋外で一夜を過ごす羽目になる。翌日、母に電話をかけると、電話にはUPSの配達員が応答する。彼は配達に訪れた家で、落下したシャンデリアで頭部の損壊したボーの母親とみられる遺体を発見し、警察に通報したと伝える。うろたえるボーは、部屋にいた侵入者に驚いて路上に飛び出し、警官に助けを求めるも誤解されて銃を向けられ、逃げようとしたがトラックに跳ね飛ばされ、挙句の果てに連続殺人犯に腹部と手を刺されてしまう。

 

 

 引用は相変わらずWikipediaからお借りしました。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%81%AF%E3%81%8A%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B

 

「部屋(子宮?)」から出た瞬間、われわれのまえに広がっているものはワンダーランドだ。主人公のまわりにはおかしなことが起こり続け、主人公はその「現実」に翻弄される。そしてやっぱり『不思議の国のアリス』よろしく、最終シーンは裁判の場となって、主人公は自らの罪を咎められ、「ママに愛情を返さなかった罪」とともに自らが乗るモーターボートごと転覆、彼はしかし、アリスのように「目を覚ますことなく」、物語は語りっぱなしのまま、終わってしまう。

 

 すべては夢でした。

 

 たとえばそれは『ゲーム』(1997)、あるいは『タクシードライバー』(1976)、そして『ジョーカー』(2019)……………

 

 主演のホアキン・フェニックスは同じような役ばっかりやってご苦労様であるが、その姿をどんなに「美化」ではなく「醜化」させようとも、彼はれっきとしたハリウッドスター。百万ドル長者の名優がどれだけ痩せようが、太ろうが、奥歯四本を引き抜こうが、スターはスター。彼らは映画の中ではねずみのように逃げまどい、無残な死、あるいは美しい死や滑稽を演じてわれわれの「ミゼラブル」な生活を、「ミゼラブル」の皮をまとって慰めてくれるがしかし、彼らが本来帰る場所には高級車が停まり、セキュリティは万全、お手伝いさんがいつでも、車も、バスルームも、キッチンもベッドもなにもかも、ぴかぴかにしてくれる……………

 

 そして現代のわれわれは、自分自身の、そして自分自身を映し出す鏡としての「醜」に対して、喜んでそれを楽しみ、受け入れ、嫌悪しつつも金銭を払って「それ」を歓迎する。

 しかしそれは、今に始まったお話ではない。映画という表現手段において、「醜」であるものがある種の「美」を伴って「大きな物語」になる瞬間を、われわれは、何度も、何度も、目撃している。

スミス都へ行く』(1939)が陽の物語だとすれば、『廿日鼠と人間』(1939)は陰の映画。
『七年目の浮気』(1955)が陽の物語だとすれば、『エデンの東』(1955)は陰の映画。
アパートの鍵貸します』(1960)が陽の物語だとすれば、『太陽がいっぱい』(1960)は陰の映画。
がんばれ!ベアーズ』(1976)が陽の物語だとすれば、『タクシードライバー』(1976)は陰の映画。
 だんだん面倒になってきたのでちょっと飛ばして、
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)が陽の物語だとすれば、『ジョーカー』(2019)は陰の映画。

 ……………というように、われわれは、人生の、映画の、陰も陽もみんなひっくるめて、人間の演じるドラマというものを、ずっとずっと眺めて来た。だから、現代人のみが、特有として「悲劇」「悲喜劇」ばかりを望んでいる、作っているというわけではない。

 

 さて……………

 

 というわけでわれわれ「陰のもの」たちは、長い長い歴史の中で、どんなものに虐げられてきたか?

社会そのもの。
家族。(とりわけ、父親)
金持ちの友人。
社会。
社会……………
そして母親。

「虐げられた人々」、つまり「弱者」が「主人公」となるとき、彼らが主人公として物語のいちばんてっぺんに浮上するためには、まずはじめに「虐げられること」が、必要になる。

 おおくのばあい、その「マイナス」をばねにして、主人公は物語を動かしていく。犯罪に手を染めてピカレスクを演じたり、「美しい青年であるにもかかわらず」(つまり、本来であるならば祝福された青年像を演じるべき器であるはずにもかかわらず)、父親に顧みられない悲劇の青年としての存在を恣としたり、女にも社会にも顧みられないおれだけど、少女娼婦を救って、まちの英雄になったり、して、彼らは主人公の座を勝ち取る。そして彼らは多くの場合、その主人公になるために、たいへんな犠牲を払って、いる。それが犯罪者になることであり、社会的逸脱行為をすることであり、友人に成り代わることであり、夢の中(?)で人を殺すことであり……………

 

 でも、ボーはなにもしない。彼はただ、悪夢を『観ているだけ』だ。

 

 彼のすべきことは、もうすでにしてすべてが終わっている。彼は過去、「ママ」に関わった。「ママ」に愛してもらった。「ママ」から逃げた。ただそれだけだ。

 でも、たったそれだけのことでも、つまり、「母親に関わった」という人生だけで、ボーは、いや、「私たち」は、今や巨大な物語の主人公になってしまったのである。

 僕たちは、「虐げられた」僕たちは、もはや、何を犠牲にすることもない。自分のすべてを投げ出して、少女娼婦を救うために鏡の前で” You talkin' to me?“と話しかける必要もなく、友人の筆跡を必死になって練習する必要もない。父親の愛に飢える必要もなければ、精神病院から脱出する夢も観なくていい。「ありのまま」でいいのである。そう、つまり、ボーは、われわれは、悪夢を見続けるだけでいい、ありのままの姿をすべての人に見せる「アナ」であり、「アリス」なのだ!

 

 ぼくたちは、いまや、悪夢の中でまどろんでいるだけで主人公になれる。こんなにも「お気楽」な人生があるだろうか?

 

 ママの子宮のなかで眠っているだけで、そのすべてが勝手に動いていく。ママの温かい呼吸の中で、われわれは、車に轢かれたり、殺人鬼に脚を刺されたり、少女に脅されたり、その少女を殺した殺人鬼だとおもわれたり、演劇を観たり、初恋の人を腹上死させたり、して、最終的に「ママの愛に応えなかった罪」によって、ギルティ―、物語のなかから姿を消してしまう。

 

 僕たちは、生まれさえしなくても構わないのだ。ママの子宮の中にいるだけで、主人公になれるのだから。しかしそれは、「生まれないから」こそ、主人公で居られるということだ。

 誰だって始めは、誰かの可愛いベイビーだ。望まない妊娠によって、その出産を祝福されなかったベイビーでさえ、子宮の中にいるかぎり、常に、誰かの心配事の第一番だ。その時、われわれは、誰かの中の唯一の人になる。つまり、自らの母親の……………悪夢の中で主人公を演じる「ボー」は、実は、生まれてすらいない。だからずっと主人公だ。誰かの可愛いベイビーちゃんとして、われわれは、「ありのままの」われわれは、こうして、主人公になれる……………

 

 こうしてわれわれは、「そのままの君」「ありのままの君」であるというだけで、「主人公」になってしまったのだった。

「ありのまま」であるわれわれはそして、醜ければ醜いほど良い。醜悪な僕、を曝け出せば曝け出すほど良い。そしてそれは『ソドムの市』(1975)のような露悪ですらない。露悪を披露するためには、ある程度の無理をしなければならない、逸脱をしなければならない。そのためには、他人を必要以上に加虐したり、荒唐無稽を演じなければならなくなる。われわれが現在、「画面の向こう」に望む「醜怪」とは、そうではなく、「醜怪が、ありのままに存在している」、われわれの生活そのもの、ピーピングそのもの、「監視カメラを覗いたその向こう」なのだ。

 

そしてそのような物語を安易に愛すということは、「ありのままのあなたを受け入れる」という、いびつな、不思議な凸面鏡でものごとを覗くような、「母親の目」を、物語の「ありのままの僕」である主人公に注ぐことに他ならない。僕たちの覗く、画面に映った『凸面鏡の自画像』。パルミジャニーノの描いた自画像と同じ自己像を、われわれは2019年に続いて、なぜか2023年においても、ホアキン・フェニックスという凸面鏡を覗いてそれを眺めてしまった。なんでこんなことになるんだろうね?

 

不思議の国のアリス』の登場人物を演じる「演者」が、「役」の感情を完全には理解できないように(彼らはカーニバルの登場人物である)、『ボーはおそれている』の登場人物を演じる演者も、やっぱり脚本の釣り糸に操られているお人形に過ぎない。しかし、そのお人形劇は素晴らしい。釣り糸を切ってしまえば、すべての物語は機能しなくなるがしかし、登場人物も含め「映画のセット」だとするのなら、これほどの芸術世界を展開してくれるアリ・アスターという人は、ほとんど日本の小津安二郎なんじゃないか。(強引ですか?)

 

 安易に、鏡に映る自分自身と、画面に映ったつくりものの自分自身(を演じてくれる他人)を重ね合わせない方が良い。
 誰かも云っていたけど、それって、『お仕事でやってるだけかもよ♪』(『林檎もぎれビーム!』)

 

 おわり♪♪(2024.09.15)