『橋本治と内田樹』という並びよりも、『橋本治と新井素子』の方がイコールで結びやすいと思う理由:『流水桃花抄(橋本治掌篇短編集)』の「あとがき」感想①

 えー、今、橋本さんの『流水桃花抄(橋本治掌篇短編集)』(1991)を読もうとしているところなんですが、その前に、この本の「あとがき」を読んで「この人はなんて”新井素子”なんだろう」とおもったので、それを書きます(ということで本編はまだ読んでません)。(注:その後読みました。おもしろかったです)


 新井素子橋本治。両者に共通するものとはなにか。別にない、としてもいい。僕は新井さんの読者だが、寡聞にしてか見落としていてかわからないが、新井さんが橋本さんについて言及している文章をまだ読んだことがない。
 しかし橋本さんが新井さんについて書いているのは二回だけ見たことがある。それは、『恋愛論』の講談社文庫版あとがきで、

 えっと、新井素子です(ウソ)。

 ってやってたやつ。もう一つは、どこかのエッセイ本で、「新井素子と対談の予定だったが(橋本は)途中で帰った」という記述。つまり、言いたいのは、橋本さんは少なくとも新井素子という小説家の存在を知っている。そして、知っていて、彼は、この小説(『流水桃花抄(橋本治掌篇短編集)』)のあとがきで、こんなことを言っている。

「ひょっとして、オレって全然小説家としての才能なんてないのかもしれない……」とか。(前書:205)

 

「ひょっとして、私は小説家としてはまったく期待されてない人間なんですね。だってその証拠に、小説の執筆依頼が全然来ない……」(前書:207)

 そして橋本さんは「あとがき」で、自分の見た夢の話を始める。

 ちなみに、その時にした夢の話っていうのは、こういうもん――。(前書:208)

 

 まァ、ひょっとして、フツーの人は夢見ながら泣いたり笑ったりはしないのかもしんないけど、私は夢見ながら歌唄ってますからね。自分の歌声で目ェ覚ましちゃったとか。いいんですけど。(前書:208)

 この文章を読んだ新井素子読者でもあるワタシなんかはそして、こうおもいましたね。「橋本さん、それってまるっきり”新井素子”ですよ」

 新井さんファンなら周知の事実ではあるが、新井さんは自らの見た夢をキッカケにして小説が書けちゃう人である。(『チグリスとユーフラテス』(1999)などを筆頭に)そして、自分の見た夢についての本を書いてしまったり(『もとちゃんの夢日記』(1995))、二度寝をすればだいたい夢の続きが見られるよう訓練して出来るようになってしまった、とかいったような、もうほとんど夢のエキスパートみたいな人である。
 橋本さんの話に戻れば、この「あとがき」では、橋本さんはすっかり「新井素子」してしまっているのだ。その証拠が、以下の文章である!

 思うんですけどね。日本の小説って、あまりにも読者の役に立つことを考えすぎてません?
 もっと単純に”お話”であってもいいと思うんだけどな。単純にお話であることの内容が”複雑”であったっていい訳だし。(前書:211)

 上記のこの文章を、「新井素子が彼女の本の”あとがき”で言ってたんだよね」としても、信じてしまう人って、いるんじゃないでしょうか(この、『考えすぎてません?』って言い方が、「新井素子!」ってかんじなんですが、新井さんファンどうですか?)

 完全に僕しか言っていないことかもしれないけど(いや、言ってる人はいるだろうけど)新井素子橋本治は、似ています。

 二人とも東京生まれ東京育ち。両親は共働き。(新井さんのお家はご両親がお二人とも編集、橋本さんのお家はお店をやっていた)学生時代からメディアの寵児。運転免許を持っていない。小説家である。お二人とも、いわゆる『昭和軽薄体』を引っさげて文学界への殴り込みを行った。
 そしてこれがきわめつけ、二人は練馬に住んでいる!(橋本さんは、練馬の一軒家に住んでいた時期があった!!)
 これは『ぼくたちの近代史』(1988)の中で言ってます。

 僕は前、練馬の一軒家に住んでて、(後略)(『ぼくたちの近代史』p.112)

 そしてもう二つ。新井素子のお家はご両親が共働きだったので、ちいさなころは明治生まれのおばあちゃまにご飯を作ってもらっていた。そして橋本さんは言う!

 僕はね、オバアチャン子だったのね。で、今年の正月に祖母がボケてしまいまして――(後略)(『ぼくたちの近代史』p.139)

 そして、新井素子はどんな賞を得て文学界へと凱旋したか?
 第一回奇想天外SF新人賞佳作。

 そして橋本さんは?

 だいたい俺なんか、作家としては小説現代新人賞の佳作なんだからさ(後略)(『ぼくたちの近代史』p.139)

 そんでもって最終的な決め手はこれ、橋本治新井素子は面白い。

 そんな二人であるのに、橋本さんが小説の才能がないなんてそんなことのあるはずがない、というのが、この文章の趣旨なんである。

 彼の書く『流水桃花抄(橋本治掌篇短編集)』のあとがきを読みながら、僕は、何度も、「それ、新井素子!」とおもった。そしてしかしさらに、「やっぱり橋本さんは(だからこそ)新井素子”モドキ”だな」、とか、失礼極まりないことも、おもったりした。

 しかし、これは橋本批判ではない。

 橋本治は面白い。そして、こんなにも新井素子に似ている、と仮定してみる。しかし、こんなにも新井素子に似ている橋本さんは、なぜ大衆から、読者から遠ざかっていくのか?(余談ではあるが、最近刊行されたさる本に、「橋本治は小説がヘタだ」という趣旨の記述を見つけたこともある。橋本さんはもちろん謙遜を含んで「自分は小説家としての才能がない」と発言しているに違いないが、そのさる本の著者は本気で「下手だ」とおもっていて、橋本治の小説について客観的に”そう”おもっている人物も少なからず居るということだ)

 容易に出る答えだともおもえない。現にワタシだって、橋本さんの小説すべてを網羅的に読んでいるわけじゃない。ただ一つ、今の段階で言えそうなことは、新井さんという人は、大衆を信じている(あるいは、信じているように感じられる)ということである。

 そこで、一つの仮定を立ててみる。 
 彼の小説は面白いのに新井素子にはなれない。(別にならなくていーわ、というのは最もですが、はい)
 橋本さんの小説家としての「才能」は、新井素子の「才能」には遠く及ばない。それは、彼の小説が、上手い/下手を超えて、「ストーリーとしての魅力」「物語としての魅力」を持たない/持てないためだ……

 なぜか?
 それは、彼には評論という手段がある、しかし彼女にはそれがない。これに尽きるのではないか。
 そして、たくさんの共通項を持つこの二人には、決定的に違うところがある。それは、

 新井素子は酒飲みで、橋本治は煙草飲みである、ということ。
 新井さんは煙草はやらないし(エッセイ等で読んだ記憶がない。しかし本人は煙草も愛飲していたらスイマセン)、橋本さんはヘビースモーカーではあるが酒の方はあんましである(飲むと頭が痛くなっちゃうそうである)。この二人の、この決定的な違いを何とするか。
 個人差を認めた上であえて発言をするならば、酒は精神を鈍麻させ、煙草は精神を鋭敏にする。そして、小説を書くということはつまり、地に足をつけつつ、その精神を、どこまでも空想の世界に飛翔させていくということである、と。そして、「小説家」という、いちおう「職種」があることから、そういった”職業”に就けるのであれば、社会と関わることはどうしても必要になる。ということで、個々人差はあれど、一応「小説家」には「地に足はついている」ということが必要条件になる、と仮定する。

 そこへ来て、「酒飲みと煙草飲み」についてを問題にするとなればしかし、当然のように、この単純化には様々な否定の意見を並べることが出来てしまう。
 両刀使いもいる、とか。どちらも嗜まない人だっているとか、そもそもそんなものの差で作家としての能力を測ろうとするのは間違っている……など。一見すれば、単なる決めつけのようにおもえることを行おうとすれば、それに反対する考えなどいくらでもおもいついてしまう。たとえば、決めつけの一例をひとつ作ってしまえば、こうなる。
新井素子は酒飲みで、橋本治は煙草飲みだ。酒は精神をまったりさせるがしかし煙草は精神をきりりとさせる。そのきりりとした分、煙草飲みは酒飲みの持つ磊落なダイナミズムを作品に反映させることができず、物語にかっちりとした理性を持ち込ませてしまう。作品の中で理性が勝つと、物語という熱は途中で”醒めて”しまう。橋本治の小説と、新井素子の小説の違いとはそこである」などと……

 誤解を承知で(もはや恐れるというレベルではない)言い切ってしまえば、これくらいのことはいくらでも言える。しかしその考え方がすべての酒飲み、煙草飲みの人々に当てはまるということではなく、あくまでこれは「橋本と新井」とかいう、とても特殊な人達のみに当てはまるかもしれない「仮説」に過ぎない……と、いうことを前提として(永い言い訳ですわ)、やっぱり橋本が煙草飲み、新井が酒飲みというのは、まったく象徴的な事実だなあ、とおもうのである。

 さて、甚だ唐突ではあるが、『奥さまは魔女』シーズン8 #26 の日本語タイトルは『人の心は謎々』。
 人の心は謎々。人の心は、特に、他人の心の中というのは、複雑怪奇なものと決まっている。人の心がすべて透けるように見えるのであれば、苦労はいらない。また、人の心は複雑怪奇だからこそありがたいということもある。わからないから面白いということもあり(これは『2001年宇宙の旅』(1968)なんかがケンチョですね)、分かるからこそ詰まらないというのもある(『2001年……』の謎が全て解き明かされた時、人は、言います、「なんだ、つまんねーっ」言わなかった人は言わなかった人で別にいいです)。
 そして、翻って考えてみるに、橋本さんは基本的には「分かってしまう」人であると。だから彼の、得意な小説というのにはほとんど「他人」というものが出てこない。そして、ああ、時代はさかのぼり、「他人」でくるしむ小説家というのは一体誰だったのかというとそれは……それはァ!!(つづく)