『虹のヲルゴオル』感想

 

『虹のヲルゴオル』は、大女優の「どうして誰も私のことを分かってくれないの?」のジレンマ、虚像と実像の隔たりを「〇〇って〇〇なんだよね。そうでしょ?」ってハシモトが言い続ける本で、大女優ってのはそういうアンビバレンツ(?)のもとに輝く光であるので「女優の実像を喝破してやったぜ」ではなく「女優とはそもそもこういう状態である。だから彼女たちは「良い」でしょ?」っていう現状肯定(=人間讃歌)であるのだ、という読み方はじゃっかん肯定的というかあえて露悪的になりがちになる読み方に蓋をした読み方だが、こういう読み方もしたいというか「そう読ませてくれ」という向きがある。

 この本はすべての美しい女の Happily ever after...を「いや、違うでしょ」って水を差し、その後が大事なんでしょっていう、実に現実的な見方を提示する。こういった方法は現代的であるがゆえに「現代のわれわれ」が読むとものすごくまっとうなまとめられ方、理論の進め方がなされているとおもうが、だからこそ「まっとうすぎるな、ちょっとな……」という正統ゆえの窮屈さもちょっとある。論がかっちりはまりすぎていて。

 そしてこの本で展開される「普通の女」論、これは本書で取り上げられる一部の大女優を、橋本が「でも彼女も普通の女なんだよ」と説明してくれるという大変ありがたい高説なのだが、実はこれは大女優のことだけを指しているのではなく、橋本はそれを自身のこととしても説明しているのだ(という説で進めていきます)。

 

「(オードリー・ヘップバーンは)女に関するまったく新しい解釈を示したっていうこと。(オードリーの)出してきたものは”少女”っていうものだった。(p36)」

 

「マリリンのやったことは「胸があったって普通の女よ」っていう、そういうこと。「女って、別に肉体だけの存在じゃないわよ」ってことを分からせるためには、”肉体だけじゃない、だから肉体がない”オードリーと、”肉体だけじゃない、そして十分に肉体のある”マリリンの両方が(自分がスケベであるということに傷ついている男の子には)必要なんだ。(p37)」

 

「分かるでしょ? マリリン・モンローっていうのはさ、エロチックなカバーをつけられちゃってる「若草物語」なんだよ!(P39)」


 まあつまりマリリン・モンローは橋本である。いやこれほんとハシモトさん自分のこと言ってんのよ、分かるでしょ? たとえば、

「分かってもらえない悲劇っていうのは結構多いんだよね。悲劇の全てはここにあるって言ったって過言じゃないくらいのもんなんだけどさ、やっぱりそのことっていうのもまた分かられてはいなかったりするんだよね(P43)」

 

 これ自分のこと言ってるでしょ。でもまあ彼の論はだいたい他人のことを示しているようで自分のことを言ってるんだけどさあ、この本に限らず。
 この徹底して「女」を「神話」にしないところが橋本が橋本たるゆえんというか。
 橋本は、人々がシンピを抱いていたい女のことをすぐ「普通の人」っていう。
 橋本が、「私のいう『普通の女』ってのは世間一般での普通の女とは意味が違うかもしれないけどやっぱりジャンヌ・モローも普通の女」とか言ってしまうのも結局自分のことを含めて言ってるんですよね。
 つまり、この「普通」というのは、どのくらい「自分」という存在の「表現」に忠実になれたかってことだと思うんだけど。
 彼が「普通の女」と称したその女達(山口(百恵)、モンロー、モロー)は、自身を「他人に向けられるための表現としての女」として作るため、成るため、達成するために行動を取り、その行動によってたらしめたものが他人に提示されるための「山口、モンロー、モロー」という結果として残った。そしてその結果を「神秘」「伝説」「神話」として称賛するのは一般大衆(男と言い切ってもいいが)である。しかし彼女らのやったことは決して「称賛されるべきもの」ではなく、「山口が、モンローが、モローが」「それ」であるためにしなければならなかった「行動の群」であるに過ぎないのだ。
 人が物を食べないと死ぬように、寝なければ死ぬように、彼女らは「そうしないでいなければ彼女らではありえなかった」ので、それを行ったに過ぎないが、他者から見れはそれらの行動は大衆的視線においての「神秘」「伝説」「神話」としての効果を十分に発揮しているかのように映るので、彼女らを称賛し、めったに行い難い出来事を創造したとして崇め奉ってしまう。だからこそ、それらの行動を「普通の女の行動だ」として喝破するなどということはとてもじゃないけどできない。
 しかし、「自分を自分たらしめること」のための行動をしていた個人が他者から見れば「神秘」になってしまったということを、「それは普通だ」というのは間違っているわけじゃない。だから橋本はそういう「伝説の女」を「普通の女」と言い切ることによって自らのことも言っている、のではないか。つまり「俺って頭いいし、変なことばっか言ってるけど、でもこれが(俺の)普通なんだよ」って。だからやっぱ橋本も(そういう意味では)普通の男なんですよ。本人も再三言ってるけど。(言ってるか?)
 中島某のエッセイの中で「あんまり人に変だ、変だって言われてほんとめんどくさいんで、もう開き直って髪型をわざと変にして「私は変である」ということをアピールしてます。自分では自分のこと変だとおもったことないけどね」っていうおじさんが出てきたことあるけど、橋本さんってほんとそんなかんじだよ。(つまり変であるがゆえに普通だが普通であるがゆえに変ってことですよね)
 つまり「山口百恵は普通の女である」って言っちゃう「橋本治は普通の男である」ってことなんですよ。変なこと言ってるけど。(でもこれも普通のことを言っているに過ぎないんですよ)


 さて、神話解体したら結局こんなもんだよっていう帰結はもはや現代に置いての常道であって、であるからこそ反対に、「夢見たっていいじゃない!」の人々は益々「神話創造」にいそしむ。現代にそっぽを向いて幻想の女/男に走る(Vtuber、P活、おじさんによるおじさんのためのエロチャット)。
 それでは『山口百恵は菩薩である』を解体して『山口百恵は普通の女である』をした後に何が待っているのか? 『ゴミ捨てに行く百恵』という週刊誌の写真を見るのと『篠山紀信の百恵』を見るのと、どちらに重く価値を置くのか? 

「両方大事だよ! どっちもやっぱり『山口百恵』でしょ? そんな君が好きだよ」って言ったのが、本書『終電車』の項におけるトリュフォーとドヌーヴの関係である、と。年取った君も若い君もどっちも素敵だ、どっちも映画の中で撮ろうね、と。これをして、やはり全体をしゅくふくすることが結局肝要なのだと結ぶのならこんな行儀の良い答えもないけど、このような結論を「模範的、優等生的帰結だ!」とするから、そういった帰結を蹴って、片方の「神話創造者」は現実を見ない幻想へ、片方の「神話解体者」は露悪ばかりが目立つ現実へ(しかしこの場合、露悪的であればあるほど現実的だと信じ切ってしまう傾向があるので、むしろ幻想よりも幻想寄りの”一部ファンタジーとしての現実感覚”にもなりかねないところがまた……)舵を切ってしまうんじゃないかという恐れもある。
 みんな極端になりすぎですね(自戒も含め)。極端なものはわかりやすいから仕方がないところもあるが、この幻想と現実という二つを合わせるともっと面白い何かが出てくるかもしれない。というのもある。しかし忙しい現代人が「物事はそこそこ面白ければそれでいい」という価値観を支持するのであれば現状というものはやはり限りなく正しく行われていると言っていいのかもしれない……などとみだりに俯瞰した物言いをするのも危険ですが。小津安二郎だって「人物をみだりに俯瞰するものではありません」と言っていたではないか。つまり何かを知り尽くしているかのように俯瞰してすべてを眺めるのは悪い癖である(別にそれが間違っているということでもないけど)。これが行き過ぎるとクレーンとミゾを使って人間を上からか下からかしかみれない溝口状態になるので注意が必要だ、つまりわれわれは状態を俯瞰しつつ、大地に身を置くしか術はないのであるという溝口健二状態注意喚起ENDでお粗末。