『橋本治と内田樹』感想

 ハシモトの「書くことでしか得られない充足とくるしみとそれに伴う自転車操業」って氏が氏自身と○○○できないっていうくるしみを根本とするものだとおもうよという暴言からこの感想文は始まるが、それにしても「橋本は論じられない」とはどういうことなのか。
 第一から、「橋本論」はほとんど存在ないっていうけどみんながそうだから仕方がなく本人が自分自身で「ハシモト論」やっちゃったというのがこの本なんじゃないのか。
 タコが自分の足をもいで食べてしまい、八本全部もいで食べてしまったのでそこにタコはいなくなったが、確実にその水槽のなかには「タコ」は存在している(いなくなったが生きている、そこには存在している)という萩原朔太郎を演じるしかないハシモトがいるっていう本がこの本に他ならないんじゃないのか(泣)。
 他人が不甲斐ないから仕方ないけど「誰もやらないからやっている」のハシモトのいつものパターンの一つでしかない。誰も「ハシモト論」やらないから橋本自身が自己解説するしかない。それゆえに「ハシモト論」などというものは別に存在しなくても構わないのである。書かれなくてもこっちで自己分析しちゃうんだから、ということにはならない。なぜかというとそういうことばかりしていると「橋本が自覚しきらない(そんなんあるかどうか分からないけど)彼自身も意識していなかった橋本」を指摘する第三者が全くいなくなるから、「ハシモト」というコンテンツはますます袋小路に入らざるを得なくなる。「ハシモトがこう言ってるんだからもういいじゃん。おれらが言うことないよ」だとおもうよ。ほんと。でもそれだとハシモトは全然「橋本治」から離れられない。離れなくても別にいいじゃんっていう向きはもちろんあるだろうけど、でもそろそろいいのではないか? 橋本の自意識から離れたハシモトを見てみたいとはおもわないか?! 自分で質問して自分で答えるなどという離れ業をやってのけた「月刊カドカワ」のセルフインタビューの自分と〇〇〇しているみたいな状況から、そろそろハシモトを開放すべきはないのか!? どうなんだ?(どうなんだか?)


 対談者は「橋本さんってこうでしょう?」って捕まえたとおもったら「それはフェイクだよ」って言われるからハシモトを論じるのは難しいとしているが、その「フェイクだよ」としてしまうところも含めて「橋本劇場」なのではないのか。それにもかかわらず、ハシモトの発言の点と点を追ってああでしょう、こうでしょうと断定付けようとするのがそもそも「不毛」なのであって、大切なのは、氏が「ああ、そうじゃないんだよ、〇〇なの。まあどうでもいいけど」と否定し捨て置くというところまで含めて、ようやく氏のひとつの言葉の区切りなんだと、そこまで行ってやっと、「あなたは〇〇だ」と受け手が勝手に断定するのが本当(というより一つの方法)ではないのか?
 そして対談者は対談の回を重ねるごとに投げやりになっていないか? ハシモトの相手をするのに疲れちゃっていないか? エネルギー値が120:30くらいで話していないか? それとも「相手の言葉を引き出すのがうまい対談のコツなのだ」的精神でわざと抑えているのか? どうにせよ、そういう熱量の差(?)のせいもあって(他にもいろいろな要因はあるけど)「言ってみても仕方がない」「この対談は無意味」に近くなっていくのではないのか。
 そんで最後に一つ。対談者は、ハシモトの説明する、自分自身の一貫性、というものが他人からしてみれば一貫していないように見える、としているが、それはある種当然のことではないのか。
 氏は自身が宗教になることをとても恐れていて、というのも自分自身のスタイル、やり方がともすれば宗教的になってしまうというのを嫌というほど自覚しているから、教祖的なものとして他者に祭り上げられてしまうという自身の過去を確実に持っているということもあり、それを恐れているわけです。(恐れるというか危惧するというか)
 だから他者に分かりやすく映る論の一貫性なんてものを持ってしまったらそれこそ危険だってことをわかっているだけなんであり、そもそも主張に一貫性を求めるっていうのは「俺がお前を理解しやすいように論点をひとつに絞れ」っていうわがままに近いとおもうんだよね。ハシモトは数学ではない(?)ので、たったひとつの正しい答えがあるわけではない。そしてたった一つの正しい答えを求めるために、「〇〇論」は存在するわけではない。究極を言うと、人物評などというものは「僕の考えた最強の漱石」「僕の考えた最強の鴎外」「僕の考えた最強のハシモト」でしかない……のではないか? そして、氏の言動のいちいちが一貫性を欠いてみえるのであれば、一貫性を持たない(かのように見える)、という状態まで含んで、そこで初めてハシモトなんじゃなかろーか?
 だいたいからここからは偏見だが氏は本当のことと反対のことをずっと言っているだけなんであって、氏の「私は変な人ですけどね」という発言はポーズに近く、「俺ほどまともな人間いねーけどな」っておもってるよ(???)
 あとやっぱ氏が対談する意味がわかんない。


 対談とは何か。
 というより「面白い対談」とは何か。
 それぞれの向きというのは確かにあるとおもう。それほど親しくない相手に対してはインタビューアーと回答者に近くなるのもあるだろうし(この対談集はそれに近い)、普段仲のいい二人の酒飲み話、雑誌の中の軽い読み物としての対談とか(吉行淳之介の『恐怖対談』とか)、好奇心旺盛な一人が各ジャンルの識者に話を聞きに行く(というより喧嘩を売りに行く?)のとか(『梅原猛全対話』読んでください)。
 で、こんなことを言うのは非常に青臭くて鼻で笑うような話かもしれないが、やっぱり一番面白い対談っていうのは「AとBの知能がぶつかりCという状態が生まれる」という状態を含むものなのではないのか? とおもう。んである。
「Aってさ、実はBなんですよ」
「ってことはCということもあるということ?」
「あ、そうだよね。AってCだよね」
 の、ユリイカ! が欲しいんだ。どうせ。二人いるなら。二人いるなら一人では分からなかったこと、気づけなかったこと、新しい観点が見える、それが読者にも提示され、新しい道が共有される。これじゃないのか。別に全てがそうあれって言うんじゃないけど。(『光る源氏の物語』なんかはそれに近い。気がする)
 でも橋本さんって確実に「自己完結」の人なので中野翠が「あれはヤダ。これはいい」って言っても「そう?」だし、内田さんが「~なんですよね」って言っても「そうそう!」って同意するだけ。あとはお互いの身の上話をわれわれに交互に教えてくれるだけ。これだともう読んでいる意味がわからない。それなら橋本の公演聞いたほうが氏も自由に話せていいんじゃないかとおもう。橋本さんだって自分のそういう面を自覚してないってことがあるはずないんだから、「対談なんて?」って再三言うのだろうし。(借金あるから受けるけど)
 しかしそのような対談集に意味はないのかと問われると間違いなく意味はあり、それは「橋本治はこのように、対談には向かない人なのです」ということが分かるので、対談集にも意味はあります。『橋本治内田樹』、おもしろかったです。(まだ半分しか読んでないけど)

 

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 まあ氏は別の対談で(『二人の平成』)「理解されることでいやなのが一つあるんだとしたら、俺、オタクに理解されるのが嫌だ」って言ってるのでこんなん書かれても嫌でしょうけど私は理解しているとか理解したいとかじゃなくて「そうでしょ? というか絶対〇〇だとおもうんだよね」って勝手に決めつけたいだけなので余計に悪いが、こればっかりはもう、それがしたいのでそれをしているのですいません。