他者から見たイデア:『対談の七人』感想

 爆笑問題
 今回は、橋本治とそれから、ある一定の時期までの、爆笑問題についてのお話です。が。
 今日の爆笑問題について、何かを云々するというのは難しい(というよりどう見ていいか困ってしまう)。しかし、1998年の彼らというのは、語るに値した、あるいは一つの興味を持って、彼らの交わす”対話”について、何らかの期待を抱くに値した人々、であったのかもしれない。
 そして2000年12月、一冊の本が編まれた。題して『対談の七人』。七人の人々と、爆笑問題が対談をするという趣旨の本で、そのうちの七賢人の一人として名を連ねているのがわれらが橋本治、題しましては、『爆笑問題って小学生のまんまだからね』。これが『広告批評』に載ったのが1998年9月。そして、この小文で問題にしたいのが、この橋本治との対談の後に太田光氏が書いた『対談を終えて』なる文章についてなんである。
 その文章の中で、太田さんはこんなことを言っていた。

 橋本治さんに、「爆笑問題って小学生のまんまだからね」と言われて、とても嬉しかった。まるで自分が、橋本さんの小説の登場人物になったような気がした。
 だが、話しているうちに、橋本さんの言葉によって語られる自分のイメージと、本当の私との間にズレがある事を感じた。本当の私は、もっと嫌らしくて、老いていて、魅力がない。橋本さんの口から語られる私の方が、瑞々しくて魅力的なのだ。橋本さんが語ってくれた爆笑問題の中に、自分が目指しているものがあるような気がした(p.173)

 さて、ここから文章を進めていくにあたっては、多少慎重を期さなければならないことになってくる。なぜなら、このまま軽い気分で進めていくとすれば、この文章が安易な橋本批判にしかなり得ないというのが分かるからだ。
 つまり、こういうことだ。

 「個人的な経験」として、私が橋本治の本に熱中していた当時、彼に対しての疑問(というか、違和感)がはじめて生じたのは、『橋本治のかけこみ人生相談』(2018)を読んだ時だった。
 その疑問というのはこういうものだ。

「どうして橋本さんは、悩みを相談してくる相手のことを、「あなたはこういう人だろう。こういうことを普段考えて、だからこういうことになったんだろう」と、何でも決めてしまうんだろう。その人のことを本当に見たこともないはずなのに」
 橋本さんは時々、他人を断定する。物事を断定する。だから時に、彼の書いていることは他人にわかりやすく伝わり、「どうしてこの人はこれほどまでにすべてのことが分かるんだろう?」と尊敬の念を抱かせてしまう。しかし、自分自身のことについては別だ。橋本さんが、他人から「橋本さんって○○でしょ」と言われると、「そんな見方してほしくない! そんな把握のされ方されてたまるか」とでもいうように、鵺のように自身を様々な手法によって雲隠れさせてしまう。そんなのってないんじゃない?……と、いうような疑問が、過去の、読者であった私にあった、とする。すると、思考の矢印はどこへ向かうか? 太田さんが「対談を終えて」で「ズレがある」と露見させてくれたことに対して、鬼の首を取ったかのように、「やっぱり断定された方の心情というのは、あなたの決めつけた状態とは違っているじゃないか! やっぱりあなたの断定調の論は、驕りを少なからず含んでいる。それは、「自分ならば他人の考えていることなどすべてわかる」というような傲慢だ!」……
 と、いうような調子でこの文章を進め、結論づけてしまうこともできる、ということだ。それは安易な誘惑ではある。が、しかし、私はここで橋本さんのそういった方法を否定するような段は、もう通り過ぎてしまったと感じる。

 たとえば、人が物事に陶酔する際に陥る過程というのは、こんな段をとっていく、とする。

 憧れ→対照化→否定→卑俗化→許し→定着、再評価→恒常

 憧れ(好きで好きでたまらない)→対照化(しかし彼も大勢の他の事物と同じ、ひとりの人間に過ぎない)→否定(そういえば彼のこういうところが気に入らない。やっぱりこんな人間を崇め奉っていた僕が間違っていた)→卑俗化(結局彼も私のような凡人と同じ”人間”に過ぎないんだ)→許し(しかし、そんな彼だからこそ私はその価値に憧れ、認めたのではなかったのか)→定着、再評価(やっぱり私は彼の欠点を含め、彼のことが好きだ)→恒常(そうなんだ、彼ってそういうダメなところもあるけど……でも、良いところもあるんだよ)
 と、いうような……一連の過程を経ていくと。(こんな仮説を立てたらそれはほとんど『だめんず・うぉ~か~』の体をなしてしまっているがでもやっぱ人が人を好きになるって、ダメなところを含めてそこも好きってなんてしまうものでは? とかおもったりもする)
 で、私は、橋本さんの(作品については)すでに「否定」から「許し」、「定着」の段階まで展開してしまっているので、彼を100%否定するという結論は作りにくい、と。
 では、否定という調を取らずに肯定の方向でこの文章を進めていくとすれば、どのような結論が得られるというのか。
 はっきり言って、バカの一つ覚えみたいで申し訳ないんだけど、ここでも橋本さんは、「パブリックとプライバシー」である。もうこの方程式に当てはめれば、橋本治三島由紀夫のすべてはある一つの方向においてであれば話せてしまうと言うほど、この方程式には利便性と永続性がある。
 つまり、太田光さんもいうとおり、ハシモトが断定するものの全ては、その物事、人物の”パブリック”としての正しい場所のことを指しているのである。だから、太田さんは、その橋本の見立てと、自分の中での自己評価に”ズレ”があると言ったのだ。
 それもそのはず、太田さん自身の見る太田光とはそのもの”プライベートな”太田光であり、橋本さんが断定した太田光というのは”パブリックな太田光”の方だからである。
 自己評価と世間の見立てがズレるなどというのは、これはもう当たり前の話であって、だからこそ太田さんは橋本の見立てに対して「自分が目指しているもの」の姿を見るのだ。
 ここで一つの断定をしてみる。つまり、橋本さんというのは、「イデアの人」である、と。
 橋本さんの見る、そして断定する物事というのは、その物事の「イデアの姿(=そうあるべき理想像)」なんである。だからハシモトは平気で物事を断定する。本当は、もう少し慎重になって答えを出さなくてはいけないものについても、「○○って○○ってこと。そうでしょ?」って決め打ちしてしまう。
 一見するとそれは独断的であり独善的ですらあるように見えてくる。が、しかし、それは本来、プライベートな場所に対する断定では決して無い。「あなたにもその理想像に向けて、つまりプライベートでしかない、つまらない”自己”というものを、少しでも理想像(=イデアとしての自分)に近づけていこうよ」という……人間愛……なんですよ……橋本さんの断定というものはァ……!!(こりゃあ否定→からの信仰という裏ルートに入ってしまいましたかな?)

 もちろん、決めつけられた方はたまったものではないかもしれない。批判的な断定をされれば、「なんだ!」ともおもうだろうし、そこまで自己というもののパブリックとプライベートが離れていない人なら「橋本さんってどうしてこんなにボクの気持ちをわかってくれるのかしら……」と、平気で他人(橋本さんね)のことを、「宗教」にしちゃう人もいるのかもしれない。
 で、あるからして、この文章はどう結論付けられるか?
 他人との距離の置き方に気をつけましょう。これである。

 今はどうだか知りませんが、”この当時の太田さん”には、その分別があった。ハシモトが「きみってそうでしょ? こうでしょ?」とお得意の断定で話しているのに、「僕ってそうじゃないんだけどな……」とおもえるだけの(そして文章にして表せるだけの)、自己という名のプライベートを、一人ひとりが、本当はきちんと持っていなくてはならない、ということなんである。
 そうでない人は、簡単に他人の意見に自己が飲み込まれ、いつしか他人に作ってもらったイデオロギー(近頃はイデオロというよりもイデオロもどきかもしれないけど)のみを自身を形作るアイデンチイチイとして生きていくことしかできなってしまうというような、悲しい生き物になってしまう。そのイデオロの中で揺蕩っているのは安楽かも知れないが、その姿は、他人から見れば、大きくなってもママのベッドで一緒になってねむっているような、年老いた赤ん坊のようにグロテスクである。
 みんなも「嫌らしくて老いていて醜いだけ」のプライベートを、パブリックとしてのイデア像に少しでも近づけるよう頑張ろう! という「しゅうぞうしい(@新すぃ~日本語)」お話でした。

 おわり。

 

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おまけ


 太田さんの「対談を終えて」の文章はそして、こんな文章で締めくくられています。

 対談が終わった後、「橋本さんは二人(引用者注、爆笑問題の二人)に是非あげたいものがあると言って、私達に、小さくて、美しい、折り畳み式のナイフを一つずつくれた。(p.174)

 どうですかこのリリック、リリカルなさまは。たとえば橋本さんと太田さんのこんな会話。

編集部 太田さんは、本をよく読まれるようですが、それでも、いわゆるオタクとは違いますね。
橋本 オタクになりかけると自己嫌悪が起こるってたちじゃないかと思う。
太田 メジャー好きですけどね。
橋本 君のどこがメジャーなんだっていうのもあるけど、でも、メジャーだと思いこんでるでしょ?
大田 はい(笑)。
橋本 それをムキになって言うもんだから、人はかえって冗談だろうと思うという。でも、それってまんまオレだったりして(笑)。
編集部 似た者同士だったりして(笑)。(前書:167)

 しかしまた二人は全くかけ離れていた。『タイタンの妖女』のラストを、大田は「くだらない」と言い、橋本は「美しかった」と言った。そして、そのラストを読んで気が楽になって、感動したという大田に、橋本は、

橋本 人間はラクでいいって偉大だなあと思ったもんだから、僕はお笑いじゃなく作家になっちゃったんだ(笑)。ヴォネガットって、なんかいつも感動するの。 

更に、

橋本 くだらないっていうんじゃなく、美しいと思っちゃうの。

 そして編集部。

編集 それがわけたんですかね、二人の道を。
橋本 だと思う。くだらなさをとるか感動をとるかで。(笑)

 そして太田さんは、「対談を終えて」で、こう書いたのだった。

タイタンの妖女」のラストシーンを橋本さんは、美しいと言った。私はくだらないと言った。後日私は、くだらないからこそ美しいのではないだろうかと、ふと思いつき、あの時橋本さんに、そう言えたらよかったと後悔した」(前書:174)

 ある一定の時期まで、太田光は確実に橋本治だったが、歴史のどこかで違ってしまった。ふたりともお笑いが好きで、ヴォネガットが好きで、お互いのことが好きだったのに。
 ちいさなポケットナイフのことをリリカル(あるいは一種のセンチメント)を感じる感性が二人には共通していた。一方はそれを似絵だとおもう人に「贈る」ことによってそれを表現し、一方はそれを「贈られた」ということによってそれを受信する感性を持っていた。だから太田さんはそのナイフのことを「美しい」という。同じものを美しいと思える気分が、その頃の二人には共通していたのである。