みんなで踊りたい橋本と、踊らない人々:『ロバート本』感想②

 ”ひつっこい”ようだが、橋本はどちらかというと炎上したくても出来ない人である。他人から”してもらえない人”である。であるからして、「いいけど別に」とか、「どうでもいいけど」とかいった文言を、文章の語尾によく付けてふてくされている。彼が、「俺がこれだけ過激かつみんながおもってても言わないことを言ってんだから、反論してみろよ! あんたに反論の余地あんの? ないでしょ?」とほとんど喧嘩をふっかけるかのように挑発しているにもかかわらず、である。
 おもうに、あるひとつの文章や意見に対する、文章や言葉によっての反応というのは、現代においてはほとんど、熱いものに触ってしまったときの「アチッ」という脊髄反射のようなものに成り果てているので、熱いものに触ったところで、「何故私はこのようなものに触ってしまったのか? 何故私はこのような熱いものを熱いと認識できるのか?」などというような反省をしている暇など(頭など)なくなってしまっている、ということなのである。
 世はまさにスピード時代。しかし、まあ、こんなことも三木鶏郎の時代から言われていたことではあって、今に限定した話でもない(みんなで『冗談音楽』を聴こう!)。
 で、である。
 今や人々は「バカ」と言われれば「バカっていうお前がバカ!」、「アホ」と言われれば「アホっていうお前がアホ!」などといって、引用リツイートだなんだのといった他人に作ってもらったフォーマットを安直に利用して精々微細な反応をすることしかできないが、それではなぜ橋本が「反応」してもらえないのか。
 橋本が、「そんな下らない反応だったらいらない!」と考えているからである。
 ……という断定が、一つの答えと成り得る可能性もあり、既にしてそれが理由としてきちんと用意されている感もある、が、だがしかし、これほど「みんなで楽しくやろうよ」としている「孤独な」橋本が、それであるがゆえ(=つまり橋本的韜晦さ、分かりにくさ(反応のしにくさ)に、人々が彼に「反応」してくれないという、この寂しさ、虚しさは何とした。何とする。どういうことなのだろうか。(もっとも、橋本ほど分かりにくくてしかし分かりやすい説明(腑に落ちる説明)をしてくれる人もあまり居ないわけですが。)
 つまり何が言いたいのかというとこれである。
『ロバート本』における『39=再び作家の一日『こんどはカッコいいぞォ!)』からの一節、

『みんなで踊ろう? 踊り教えてあげるから』(前書:260)

 これである。もうこれでキマリ。
 橋本治とは何だったのか? 
 その答えは、ほとんどこの一文で説明できてしまうほど、この一文は真理を究めている。
 橋本治とは何だったのか? 
 人々に、「踊ろう!」と言い続け、「その踊り方を教えてあげる」としたが、人々は橋本の説明する踊り方がやっぱり上手く分からなくて、橋本と一緒に踊ってはくれなかった。橋本の悲しみ、孤独とはそれである(キマったね)。


『私としても、実のところ、まァ、何が不満で怒ってばっかりいるのかよく分かんなかったこともあんだけどもサ。自分と現実がせめぎあってニッチもサッチモいかないところで爆発したい。バカらしさというものを、私は、実は実に、長い間持続させてたんですね。
 結局のところ、私は踊りたかったという、そんだけの話なんすがね』(前書:256)

『俺は別に、プロの踊り手になりたい訳じゃない。みんなと一緒に踊ってたいだけ』(前書:256)

 しかし人々は踊ってくれなかった。9000千枚もの『窯変源氏物語』を完成させた橋本の目に飛び込んできた唯一の書評は、「余計なことが書いてある」だった。だから橋本は「あっそう。それならいいよ」とおもった。でも踊ることは止められなかった。それどころか、益々「踊りたく」なって、わざと、これから価値の下落することが分かりきっている不動産を買ってみごとに借金を作って、それをブースターにして、狂ったように原稿を書き続けた。さながら『赤い靴』の女の子みたいに。

 彼は踊り続けたんだよ! 誰も見ていない、しかし「誰かは見ているであろう」舞台の上で。
 言いたいのは、彼にだけ果たして、踊らせているだけでいいのかということ。「教えてあげるよ」と言われているんだから、「踊り方」を教えてもらわなきゃ。これが本当の「相互反応」「弁証法」というものだろう。引用リツイートだけつかって、人の意見をダシにして毎日一人でブツブツ言ってるのなんて不健康だよ橋本に言わせれば……(橋本「弁証法だぜ、人生は……」)

 終わり。