”思い通りにいかないコトはぜんぶ認めねーぞ、俺ァ”、または妄想としての現在、そして花井薫クンである(庄司薫クンではない)橋本治の『わかって下さいお月様』:『熱血シュークリーム』感想

 さて、ハシモトはなぜ分かりにくいのかの問題である。
 ダラダラと書きつけてみてもいいけど面倒くさいので結論。「おまえなんかに分かられたくない」から。
 終わり。

 結論以下は蛇足。もちろんこれを書いている人も「おまえなんかに分かられたくない」のうちに入る類である。では、どんな人物にハシモトは、「わかって下さい」しているのか? というのがこの蛇足によって明らかに……なればいいですけど。分かりませんが。

 タイトルにも記した、”思い通りに……”という文章は、橋本さんの著書では『問題発言』(思想の科学社、1987)や、『熱血シュークリーム』(毎日新聞社、2019)などで読める。これを書いている人は、『問題発言』で一回読んで、それから『熱血……』でもう一回読んだ。以下の文章は、『熱血……』を読み終えての文章である。

『熱血……』の大友克洋論の中に、こんな文章がある。

 おばさんはサァ、人間というものを把握してる訳よ。でもサ、把握された側の人間は、「そんな把握のされ方されてたまるか」と思ってる訳よ。(『熱血シュークリーム』p.196)

 もう、これである。これなんですよ。つまり、ハシモトさんのわかりにくさというのはこういうことなのだった。われわれは凡人が、氏の本に触れ、氏の思想の一端をかいまみるときに発動される感情の一つに、「畏怖」というものがある(だろう)。(氏の本に触れてそれを感じたことのない人は、感じたことのない人で、別にいいです)あるいは「何でこんなことまで知っているんだ?」とか。そういった具合でわれわれは、氏のことをもうほとんど自動的に尊敬してしまう。その感情の作用というのは、自然なことだ。何ら不自然なことではない。しかしハシモトも人間なんだ。われわれ凡人も、ハシモトという人と同じように、「ヒューマンビーイング」、であるというのは変わらない。
 つまり、ハシモトもわれわれと同じ人間である、と。ということはつまり、われわれはハシモトであり、ハシモトはわれわれなのである。(????)
 説明します。

 あなたは、他人に、「あなたって〇〇だよね」という断定を食らったことがあるか。そして、大体においてそういった指摘は、自分からすれば「ムッとする」類のものではなかったか。
 あなたの職場に「オバサン」、あるいは「オジサン」は居るか。まあオジサンでもオバサンでもオジイサンでもオバアサンでも若者でもなんでもいいが、とにかく他人、あなたがあまりいい印象を持っていない、そこまで親しくない他人が、ですね、あなたに対して肯定的な言葉を言う。「〇〇さんって美人ですね」、あるいは否定的な言葉、「〇〇さんって愛想悪いですね」。この時、アナタ(または私、あるいはハシモト)はおもう、「おめーなんかに、そんなことおもわれたくねーんだよ!」

 つまり……なんというか、ハシモトは、ヘタな人に、ヘタなように「橋本治」という状態を「分かられたく」はないのだった。だから平気で文章や言いたいことが複雑になるし、その「複雑」に「ついていけない……」とおもった、ハシモト的「俺について分かってもらいたくないやつ」は、彼のその見事な韜晦によって、他ならぬ「ハシモト」から、振り落とされてしまう……と。


 しかし彼のそのような韜晦に、むしろ参ってしまっている人々は、そうやって振り落とされそうになりながらも、橋本治の本を読む。そして「橋本さんの言ってることわかるなあ……」と、しみじみ”ストーカー”(共感)してしまう。これが、良いことなのか悪いことなのかは分からない(だってそうやって勝手に「わかるなあ……」してしまうわれわれに、橋本さんが「わかってほしい」とおもってるかどうかなんてことは、結局「藪の中」なんだから)。

 しかし、分かってしまうものというものは、やっぱり「分かってしまう」ものだ。「わかんない、何言ってるか」が反応として自然であると同時に、「分かるなあ、それ……」というのもまた自然である、と。「クイス100人に聞きました」のノリで、「まるちゃんの言ってるようなこと、ある、ある……」と共感してしまえる自然というのがさくらももこ的状態であったとするのなら、その反対の「何言ってる分かんねえ」的な、橋本治的状態もまた、自然である、と……

 

 さて、しかし、平気で「分かられたくない!」としているハシモトの言うことを、「分かる、分かる……」と、これまた平気で理解(または理解しているという勘違い)をしてしまう読者が生まれるというのも、自然な状態といえるのだろうか? と問われると、これは言えてしまうのである。なぜなら、橋本治という人は、平気で少女まんがだから。平気で山口百恵、平気で谷村新司だから。『ああ日本のどこかに 私を待っている人がいる……』(作詞者は谷村新司です、分かりますね)だから。じゃないと本の中にここまでセキララな自分を開示したりしない。680円+税×3で、ちくまプリマー新書から自伝出したりしないから。……ということなんである。

 つまり……橋本治というのは、塔の上で『日本のどこかに……』している、ラプンツェルのような人だったんだよ!(????)

 飛躍がすごいがまあちょっと聞いて下さい。だから、橋本”ラプンツェル”治の垂らした長い金髪のみつあみをたどって、ボクたちという凡人(またはラプンツェルを見つける王子サマ)は、その金色の長い紐をたどって(まるで蜘蛛の糸のように!)、女……親という人によって塔の上に閉じ込められている”彼”のところまで登っていこうとする。で、その塔の上から垂らされた長い金髪は、誰の目にも見えるように明示されている(だって本が流通しているんだから。もっとも氏の本は絶版、絶版で手に入りにくいけど)、が、しかし、その金髪をたどって塔の上まで行くかどうかは、読者の手に委ねられているのである。


「なんでこんな訳のわからない金髪を握りしめているんだろう? 他に楽しいことはいくらでもあるのに。しかもなんか登っても登ってもたどり着かないし。たどり着いた先に本当に良いものがあるかどうかも不明だし。やっぱりやめた、家帰ってガチャ回そ」としておくこともできる。それは個人個人の自由である、と。しかし、結局そうなれば「あーあ、分からなかった……」で、終わりだ。だけど、その金髪の糸をそれでも「なんかこうやって登ること自体が楽しい!」とかやっていると、いつの間にか塔のてっぺんにたどり着いて、たどり着いた人だけが、そこに誰が居るのかというのを知る。そして、そこでわれわれは何を見るか?
 そこには、長い金髪の少女が居た――(ああ、ダッシュダッシュ

 そしてその”彼”は自分の顔によく似ていた、と。そこで塔に登った人だけは気づく、「ハシモトオサムという人は、おれ自身だったんだ!」ということを。(…………)
「橋本大先生とおれが同じなわけなーだろ」というのが当然の反応ではある。当代随一の才を持つ人間と、なぜ俺のような「誰でもないもの」が同類項でむすばれるような不正解を正解として書き出さねばならないのか? 
 そこで飛び出してくるのが、『熱血シュークリーム』でも取り上げられている、『バタアシ金魚』の花井薫クンである、と。(えー今更ですが『熱血シュークリーム』は橋本さんによる青年マンガ論の本です)

 ”描写によってしか語られない主人公”というのはどういうやつか? 勿論”あいつの行動ってわけわかんないわ”  ”だめだ わけわかんないよコイツ”と、ただもうひたすら言われ続ける我らの主人公、水泳部のノロマ、花井薫くんその人である。

「なるほど薫以外には誰も薫のことなんか分かりゃしないってとこで『バタアシ金魚』は出来上がってんだから、分かんない人間にゃ分かんなくたって不思議もねェわなァ」とか。(前書:272)

 

そしてハシモトはそんな花井薫クンのような”少年”であると。つまり、

 

 少年というものはパアで、バカで無能で、どうしようもなく自分勝手で、”わけのわかんないこと”だけを言って、わけわかんなくてドジばっか踏んでて思い込みが強く、根拠のない自信だけで生きてて、闘争本能の塊のくせにしかし一向に闘争の場に出会えない――そんな情けないもんが少年というやつ。(前書:273)

 

根拠のないもんは意地でも存在させるというのが少年というやつの厄介な本質でもあるからさ。この少年というやつは色々と面倒を起こすんだ。そんだけの話。(前書:274)

 

 こういう、「自己紹介乙」という文章を前にして、「それって橋本のこと(=ボクのコト)じゃん!」と口に出せない人ばかりだから、「ハシモト論」なんてものはこの世に存在しないんだ。
 橋本という「塔」を仰ぎ見て、「塔を見ているボク」でしかないボク(読者)は、橋本のことを「第三者でしかない」としてしまう。「ハシモト=ぼくらである」という、傲慢や奢り、ナルシシズムを持てないから。だから橋本はずっと孤独なまんまだし、「誤解に基づいた「俺への理解」なんていらない! 俺はそうやってずっと誤解されて、そういうことを他人からされてきた。だから俺はわけのわかんない「女のストーカー」被害に遭ったし、だからお前の(誤)認識した「おれ」なんて、大嫌いだ!」と、あらかじめそういった”誤認識”によって「信者化」してしまいそうな読者(大衆)を避けるような「わけのわからないことが書かれている」「余計なことが書かれている」『この主人公には(引用者注、『桃尻娘』の主人公)まったくリアリティーを感じられなかった(前書:272)』と、他者(あるいはストーカー予備軍)から言われてしまう。

 むしろ、橋本さんは故意にそういう行動を取って、ある種の人物たちに拒絶されることによって、パブリックな”像”としての(つまり、三島由紀夫でいうところの「プライベートな公威」に対する「パブリックな三島」という像)「橋本治」という”像”を作っていた、と。だけどそれは”平岡公威というプライヴェート”の生み出した「三島由紀夫」像でしかない。つまり、「平岡公威」という戸籍は存在するが、所詮は「三島由紀夫」という戸籍は存在せず、「三島由紀夫」という存在は、おばけのようなものに過ぎない……

 

 しかし橋本さんという人は、生まれた時から「橋本治」さんなのだからヤッカイだ。結婚することによって「新井素子」を”屋号”とすることにできた「新井素子」さんと違って、「江頭家」というプライヴェートをしまい込んで「江藤淳」というモダーンな筆名を得た「江頭淳夫」さんとは違って、「江戸川乱歩」という毛皮をまとうことに成功した「平井太郎」さんとは違って、「橋本治」でしか居られない「橋本治」サンは、プライヴェートな自分を「ペンネーム」という名の屋号の中には隠せない。だから橋本サンは他ならぬ、「橋本治」の手によって、プライヴェートである「橋本治」を文章の中に隠す。隠すというか、まあ、紛れ込ませる。おれって実はこんなヤツ。でも、ストーカー予備軍であるあなたたち、まともな対人関係も築けないようなアンタには分かられたくないから、分かりにくく書くね。こうしてプライヴェートな橋本さんは、「文章を書く」”パブリックな”ハシモトさんによって守られる。江頭淳夫を江藤淳が守ったように、平井太郎でしかない一人の男を、とても巨大な「エドガー・アラン・ポー」が守ったように。だから橋本さんは自分の作品を自分で解説をつけちゃう。「プライヴェート」な橋本を、「パブリック」な橋本が「文章」によって、”『描写でしか語られない主人公(前書:272)』”として書き出し、みずから「(パブリックな)偶像化した自身」を、これまた「パブリックである」橋本治によって再び「解説」する。そうしないと、「間違った解釈で描かれた(=ストーカー的妄想の産物である、間違ったハシモト像)「間違った橋本治」が書かれちゃう。”少年”である”おばさん”である(おじさんでもいいよ。念の為)”アナタ”に把握されている、「そんな把握のされ方されてたまるか」っておもっている”少年”であるところのプライヴェートな橋本くんは、だからして「知的な把握」をしてくる「オバサンのようなもの」がおぞましくて、自分の本を他人が解説するのが許せなくて、”パブリック橋本”として、自身の本に自身で解説をつけてしまうわけです。
(だから氏の本には他人による解説ってあんまりついてない(文庫なんかにはついてるのもあるけど)。

 で。

 何が言いたいのかというと、これ以上橋本さんを塔の上に置き去りにしたまんまにしないで、ということ。(?)「いや、塔の上でいいよ。めんどくさいしさあ。ストーカー予備軍に俺のことわかってもらおうとはおもってないしねえ……」って橋本さんがこれほど言っているのに(言ってないけど、こっちの妄想だけど)、「塔に飾っておいてはいけない!」なんて、それこそストーカー的行為なのかもしれない。でも一冊の本を読むことと、一冊の本が書かれることのあいだにあるものって、一方的な伝達、一方的な受け取りでしか無いんだよねえ、これもう結局。そうでしょ?(ああ、橋本さん……)

 そしてハシモトは言ったんだ、

 俺なんかズーッと”花井薫”で生きて来た人間だからさ。(前書:283)

バタアシ金魚』を読んでいないフトドキ者にとっては(すいません私も不届き者です)「だから花井薫ってダレ?」かもしれないが、だがしかし花井薫というのはだから、「”あいつの行動ってわかんないわ” ”だめだ わけわかんないよ コイツ”」と、他人であるもの(=おばさん的な、”非理解者”、あなたの職場の、学校の、あなたのことを「使えないやつ」「暗いやつ」「つまんないやつ」などとラベルを貼って見てくる人)から、「他人」として処理されてしまう僕たちのこと(=橋本治のこと)なんですよ!!

 

 あなたが仕事のできる人で、クラスの人気者で、他人から不愉快なレッテル貼りをされたことのない人であっても別にいい。だがしかし、「決してそう評された人が気持ちよくはならない表現」を使用しての人物像を、他人が勝手に描き、その他人が”理解しやすいように”ラベリングして勝手に貼り付けてくる不愉快なレッテル貼りをされたことのある人が、橋本治の本を理解できずに、途中で「ワケわかんない!」と投げ出せるはずがないんだ。だってそうやって途中で「わけわかんない!」とされてしまったのが、過去に、散々「他人」である「オジサンオバサン」に、レッテル貼りをされて来たわれわれであって、われわれやハシモトのことを「わけわかんない!」として途中で放り出してしまうものというのが「オジサン、オバサンというものである」と、ただそれだけのことなんですから(分かってるとおもうけどこのオジサンオバサンというのは「そういう状態にある人」という意味であり、ただ年齢を重ねたために他者からオジサン、オバサンと命名されてしまった人々、ということではない。ということではなく、”不理解者”=人のことを分かろうとする気なんてさらさら無い、分かる必要を感じていない、分からなくても一向に平気で、自身の生活を成り立たせてしまう人々のことを指す。ので、わけわかんない! と他人のことを簡単に諦められてしまう人は、十代でも二十代でも”オジサン、オバサン”である、と)。

 

「お前になんて、分かってたまるか!」というのが橋本治である、と。(あーあ……)
 そして、「僕のこの気持を、あんたみたいな人になんて分かってもらいたくない!」という気持ちが少しでもある人は、やっぱり橋本治的なのだと。そして、それでも『わかって下さいお月さま』(ああ陸奥A子先生!)、と言いたくて、「そんなキミが好きだよ」と”誰か”に言って欲しいと望んでいる人が、橋本治の「わかって下さい」を、結局必要としている……のである!(この日本語ちゃんと通じるかなあ……)

 

 そういうわけで、橋本さんもどこかで言っていたが(「橋本治は平気で男から女に変わってしまう」、と)、われわれだって実際そうなんですよ。われわれは単純に見えて(=オバサンから把握されちゃった「ボク」)、しかしプライベートでの内実(=ほんとはそんなんじゃないやい、ホントは……という「ボク」)を、裏に表に持っている、それが現代人だ。だからその表裏が混然一体となって、その中のエスが100%満たされている(苦悩がない)ように見える他人を、われわれは憎むのだ、と。(ここらへんは本書p.239あたりに詳しい)

 そして橋本さんやボクらは少年であって少女である。肉体ばかりは年をとって、みためはオジサン、オバサンになったとしても、やっぱりオジサンオバサン的な”他人”から、奇妙なジャッジはされたくない。されたくないために、「されてしまいそうな可能性のある」プライベートを隠して、パブリックを着飾って育てようとする。その相克こそがこの「ボク」だ。

 でもそんな「ボク」は、実際は居心地が悪くてたまらない。ブカッコウで、いつまでたっても風采が上がらなくて、オバサンたちに「いい年をして……」とか、おもわれたり、言われたりしているボクって結局なんなんだろう? ……橋本さんの本を読むと、そういうことが全部書いてある。「苦しいのはみんなそうなんだ」って。橋本さんもそういうふうに苦しかった。だから時々私情に走る。”オバサン”的なものはp.181あたりでメタメタに言われてしまう。

 そういう、「くるしみ」でしかない人々の手から、橋本さんは橋本さんという自分自身を守ってあげたかった。だって誰も”彼”を「そういうもの」から守ってくれる人は居なかったんだから。だから殻にこもるしかない。でもそういう”彼”のことを、「わかって下さい!」とおもうから、橋本さんは文章を書いた。そして、他ならぬ「文章」によって、橋本さんは橋本さんのことを守った。なぜ橋本治の文章はわかりにくく、そしてこれ以上無いというくらい分かりやすいのか?

 

 あなたが「少女・少年」であるとき(まあその他でもいいけど)、橋本さんの文章は劇的に「分かる(あるいは、素敵な方向に”誤解”できる)」。だけどあなたがその逆である限り、橋本治のことは永遠にわからない。

「分かってほしい。でも、やっぱり分かってほしくなんか無い。あんたみたいな馬鹿で不潔なヤローに、あたしのことなんて分かってほしくない!」

 橋本さんって、そういう人でもあるという気がします。だから、「オバサン」であるあなたには、「分からない」んです。

 終わり。