だからどうした?:『風雅の虎の巻』感想 

「必要と非実用は対立しない」という考え方は”実用”と”非実用”を対立させる考えの上にあるものですが、どうしてこれが消滅してしまったのか――だから平気で「分かりにくい」などという言葉が上がるのかというと、実用と非実用を対立させて考える側のものが”非実用”を排除してしまったからですね。思考の構成要素が排除されてしまえば、それを構成要素とする思想なんか存在しっこない。だから、「実用と非実用は対立しない」という考えが分かりにくくなったのです。(『風雅の虎の巻』P.317)

 さて、『風雅の虎の巻』(1988)である。
 一体、この本の目的とは何なのだろう? 
『風雅の~』は、突然始まる。

 昔と今とでは”大人”ってことがかなり違ってしまいましたね。(前書:12)

 こうである。
 一体この本は、「どこへ目的」しているのか、何のために書かれたのか、主題は何なのか、誰に向けて書かれているのか? そして極めつけ、「一体作者は、この本で何が言いたいのか?」
 現国の試験問題じゃないんだから、そういう余計なことを考えずに文章を楽しめばいいんではないかい? というところへ来て、この問題の書(別に誰も問題になんてしてないけど)『風雅の虎の巻』感想なんである。

 現国の試験問題の回答として、先の疑問の正解を導き出そうとするのなら、答えは橋本さんが本書で明言してくれている。

 この本で一貫して問題にしているのは”風雅”という名の非実用です。(前書:316)

 なるほど。
 橋本さんご自身がそう言っているので、この本の主題というのはそういうことなのだろう。
 そこへ来て、この文章の冒頭の引用である。橋本さんが『風雅の虎の巻』で問題にしているのは、”風雅”というものの非実用だということは述べた。では、このブログ記事(『風雅の虎の巻』感想)において問題にしていることとは何か? それは、この種類の文章(『風雅の虎の巻』的内容を含むもの)に対しての「畏れ」から生じた「軽蔑」「冷笑」「無視」「排除」という反応に対する”反応”なんであります。

 さて。
『風雅の虎の巻』はヘンな本である。
 一冊の本が出るには、(多分)編集会議というものがあって、その本が世の中に出されることにおいてのアッピ~ルポイントとか、意義とかが云々されるのであろう(知らないから全部想像だけど)、が、その編集会議において、この本はどういったプロセスを経てGOサインが出されたのだろう? ……などと訝ってしまうほど、この本はヘンテコリンな内容の本なんである。
 結局この本は、「橋本さんが今度こういう本を出します、というわけで一つヨロシクです」ってくらいじゃないと、こういう本は出せないんじゃないかとおもうくらい、ふわふわしていて、掴みどころのない本である。
 内容がふわふわしているという意味ではない。意味ではなく、それぞれの章の内容は、刺激に満ちていて、蒙を啓かれるような発言が各所に存在する。
 たとえば、

 後家が”尼将軍”となって平気で息子を死に追いやってしまうような日本では、母は”女”ではなく”制度”です。(前書:109)

 とかさ。

 仲居だからちゃんとした”お給仕”っていうのもやってるけども、日本で女が男に仕えるってことになると「どうすれば相手の方は満足していただけるか」ということになり、出て来る答えは一つなんです。男のマザコン性を満足させてやればいい、と。という訳で日本的世界の女性第三次産業従事者は、みんなベタベタするんです。女はベタベタして男をリラックスさせてやるっていうのが日本的世界の鉄則ですから、かつて「日本の女は世界一」なんてことを言われてたんですね。(前書:195)

 とかね。(まだまだあるけど本編読んでください、おもしろいから)

 で、である。前述のこのような文章があるとする。そして、それを読者が読む、と。すると、ある一定の反応として、どんな反応が見られるだろう? それが「橋本的文章」に対する一つの反応の典型例なのであります。つまり、
「だから、その事実があるとして、それだからなんだって言うの? 一体あなたは、このボクに、この本を通じて何が言いたかったの?」
 これである。

 そしてこの、恥を恥ともおもわないような発言を容易に使用できる人のことを、橋本は『実用と非実用を対立させて考える側のもの』(前書:317)と呼ぶ。「金に還元されない知に何の意味があんの?」とか、「もはや教養っていうのは現代においては娯楽になってしまったんですね」とかいう類の発言も、みんなこれですね。そして橋本という知の使い方というのは、主にどちらの使い方を採用し続けてきたのかというと、それは”非実用”のほうである、と(いうことを仮定して話を進めていきます)。

『風雅の虎の巻』に書かれていることはつまり、橋本さん言うところの”非実用”の方であると。そしてその逆が実用、つまり実用書のたぐいであると。編集会議を通りやすい方ですね。橋本さんの本でいったら『上司は思いつきで……』(2004)とか、『「分からない」という方法』(2001)とか『手トリ足トリ』(1989)とか、『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(2002)とか(もっともこれは実用の皮を被った非実用でしたが……)。そういう、「ボクはあなたに向かってAというものについての実践的な利用法を説明しますよ」っていう本。そのもの実用書とか自己啓発系とか料理本とかそういうの。そしてその反対の「非実用」についての本とは、「今からボクはあなたたちにAというものの実像を、実践を、実用を説明します」というたぐいの本では、決してないということですね。だからこそ、「この本読んで何のイミがあんの?(=橋本言うところの『非実用を排除』しようとする)」という反応が生まれてしまう、と。

 実用は他者に(何らかの)利益をもたらす。実生活で使用できる、たとえば共通の会話とか、現実への心構えとか。(「『バカの壁』読んだけど結局よく分かんなかったよ」とか)。(「『上司は……』を読んで、上司に対する疑問がなんとなく分かった気がした」とか)。その本に関わったことでそのものお金が得られるとか。(「『ケーキの切れない……』についてYou Tubeで解説してみた」で収益得る)とか。しかし、非実用の方ではそうはいかない。

「尼将軍ってさぁ、けっきょく『一地方の利益管理者(前書:109)』なんだよねえ」とか突然会話の中で口にしてみても、「はあ?」っておもわれてしまうだけです。橋本は、その頭脳によって、自身の著作を「実用」と「非実用」に使い分けることができる。「まあ今回は分かりやすくしてあげよう」という時もあれば、「分かる人には分かるように書いてあげるから、分かりたいと思う人だけはついてきて。まあめんどくさいから別に分かってもらわなくてもいいけど、俺がそういうことを「分かった」ということは書き留めておきたいから(また、書き留めておく価値もあると思うから)読みたい人は読んでね。俺もものすごく分かり良いように書くつもりもないから」という時もある。そしてこの本は後者的気分によって書き出された、「非実用についてを云々する橋本」=「それこそが風雅という状態である」という、橋本による橋本の「非実用本」に対する、説明の書なんだよ! ということなんですよ!(ホントか?)

 だから、「本」という全般に対して、「実用」だけを求める人にとって、この本は分かりにくい。「で、この本でアンタは何が言いたいの?」と上から目線で餌を口にまで運んでもらわないと何も理解しようとしない人にもこの本は分かりにくい。しかしこの本は「非実用」であるハシモト本の代表例であるといっていいくらい、「非実用」を愛するものにとっては、トッテモオモチロイ!(水木しげる語)本なんだ。
 つまり、遊びなのです。
 労働で金を稼ぎ、遊びでそのロードーでつくった金をホートーする。橋本は「実用書(=労働)」でせっせせっせと(ハシモト語。その他には「ヘンテコリンな」がある)稼いだ金を、こーして「非実用書(=遊び)」によって消費、放蕩している。だから橋本さんっていう人は、土木作業の日当のほとんどをその日の飲食代にあててしまう、元トップリードの和賀さんのような人なんだよ!(なんだそれは??)

 和賀さんを見てわれわれが感じるのはなんだろう?
「みんなが出来ないことをやってのける、そこにシビれるッ! あこがれるゥ」だろうか? それとも、「そんな刹那的なことで将来どーすんだよー」ということだろうか? 両方だ(とおもう)。そして、その光景はとても「風雅」だ……(飛躍がすごい)

 橋本は言う。

 風雅を排除してしまったのは、サラリーマンというただ一直線の思考体系で、ここには機能という名の実用だけあって、他はなんにもありません。”他”に属するものを全部切り捨ててしまった結果、虚無に由来する怠惰だけがあるのです――排除の後に。(前書:319)

 実用という言葉があるのだとすれば、その反対の状態も存在する。つまり実用を得ようとするのであれば、非実用もまた存在する。存在するものを「無い」「無意味だ」としてしまうあなたたち(つまり、『上司は思いつきで物を言う』(2004)や『桃尻訳枕草子』(1987-88)のような「実用としての俺(の書いたもの)しか必要としない、「非実用の俺」、『シネマほらセット』(2004)、『アストロモモンガ』(1987)なんかをを必要としない、無視するあんたたちには”風雅”が欠けている! そんな美しくないものは嫌いだ! ということなのではないか。(そーなの?)

「オレってタイトル付けるの上手いと思う」と、ハシモトはどこかの本で言っていたが、『風雅の虎の巻』というタイトルで一体どんな層の読者が、タイトルのみによって惹きつけられるというのか? というのは分からない。(この反対が、橋本に限って言えば『上司は~』であり、もう少し広げてみると、例が古くてあれですが『バカの壁』とか『もしもドラッカーが……』とかですね)。
 しかしこの本がこのタイトルであるのは正しい。なぜかといえば、この本もやっぱり「オレってこういう人。」という、ハシモト本人の自己紹介本であるからだ。
 つまり…… 何故この本がこれほど目的意識を欠いているのか? この本を読む人にある種の戸惑い、「この本、どーやって読めばいいの?(どういうスタンスでこの本を受け取ればいいの)という感想を抱かせるのはなぜか?

 この本が、橋本の日記帳だからである。彼のその膨大な知識と言葉によってつい納得して、「ああそういうことか……」とおもしろく読めてしまうが、その実、本としてまとまっていないのは(あるいはまとめる気がないのは)この本が公共性(「分からせようとする力」)を「わざと」欠いた、日記帳の延長として作られたものだからなんである。(?)

 橋本さんという人は、様々な過去の人物に自身の姿を映す。それで暗に(明に?)自己紹介をしている。今回の本で彼が「ポヴァリー夫人は私だ」したのは、かの源実朝である。

「儚さ」って言っちゃう心理よりも、「儚いんだよ、そんだけさ」って言っちゃう心理のほうがズッと怖いでしょう。自分の感情が周囲からは決して理解されないことを当然のことにしている人間の孤独感っていうものはそういうもんですからね。(前書:114)

 橋本治という孤独者は、他人に自分の言っていることを分からせる気なんか本当は無いのである。だから平気で「分かりにくい」。だから黙殺される。「分かるかなァ……分っかんねえだろうなァ……」というのでアイデンチイチイをつくって「ひとりでできるもん!」してるのが橋本さんなんだから、これはもう仕方がない。ハシモトは和賀勇介松鶴家千とせ源実朝だったのである。(もう知らないよ僕は……)
 そういう人がわざわざ門戸を開いてその知識をこうして披露してくれている。それに乗らないでどうするというんだろう。こんなに楽しい本なのに。

 この本との関連書籍として橋本さんの他の本を挙げるとすれば(何が書いてあるかわからない、と読者を混乱させる)、『いとも優雅な意地悪の……』(2017)や「あなたの苦手な彼女について』(2008)等がありますが、前者は「おれがこんなにいじめてるのにそれに気づかないあんたたちに付ける薬はない」で、後者は「結局・・・というのはどうしようもない」と言ってたりするのかもしれませんがあんまりいうとアレなのでやめておきます。(というか、私自身も『あなたの苦手な……』についてはどう考えていいのかまだ結論が出ていない)

 金、金とばかり言ってるだけなの止めようね。風雅じゃないから。(もちろん困窮している人が金金言うのはあたりまえであって、もう既にありあまる富を持っているにも関わらず金金言ってる人が風雅じゃないってことだよ)
 終わりです。2022.08.15