灰になった人魚姫

 

 あらすじ。

人魚の女の子、マシリの究極の目的は、自分のお姉さんたちのように、恋に破れただけで泡となって消えるというような馬鹿馬鹿しい目に遭わないようにすることでした。が、マシリのおばあさんは言います。人魚というのは人間に恋をするのが一番だ、そして人間になれば、天国というとてもよいところに行けるのだから、と。半信半疑のマシリはある夜、大きな船から落ちてきた男と恋に落ちます。ところがその男は、実は人間ではなく吸血鬼で……!?

 

 TL(てぃ~んずらぶ)とハーレクインの中間をめざそう! とおもって書いたら、書いている途中で落語の本とか読んでたので講談みたいになっちゃった。ジャンルにむりやりあてはめれば、多分童話です!(どこが……?)だけど全然ロマンチックじゃないしはっぴいえんどでもない。こう……いいところだと思って出かけた場所と、いい人だとおもって近づいて行った相手が、全然いいところじゃなくていい人でもなかったけど、どうすることもできなかった、みたいな話。

 おひまだったら読んでください。

 

 

-------

 

 恋に破れたら泡と消えなければいけない生き物なんて……と、マシリはおもっていた。
 人魚という存在は半分が魚で、半分が人間だ。
 へんなの、とマシリはちいさいころからおもっていた。
 だからマシリは、育ての親であるところの祖母に向かって、いつも文句を言っていた。
「近所のキンメがいうのよ。あんたたちは海の中のつまはじきものだって。敵か味方かちっとも分からない。僕たちがいくら親切にしても、いくら同情を寄せてみても、いつかうっかりしたときに、その長い五本の指でひっつかまれて、蒸し焼きにされたり、ムニエルにされるかもしれないという恐怖と僕たちがいつも戦っていることを、いい加減自覚した方がいいんじゃないかな、ですって」
「ハハハ」
 マシリの憤りを、祖母はパイプのけむりをもくもくさせて笑った。
「そうだね。わたしらは半分人間で、魚というのはその人間の食料の一つだからね」
「売り言葉に買い言葉だったのよ。あたしはキンメに、あんたの目玉はあんまりにも大きすぎると言ったの。むしゃくしゃしていたのよ。二番目のお姉さんがまたくだらないことで死んで、それでぼんやりと海の中を散歩していたら、あの近所のキンメが、ボケーっと海水の中をゆらゆらしているじゃない。あんまりにも暢気すぎるじゃないの? いい気なもんだわ魚なんて。ただ海水にゆらゆら揺られて仲間同士で番って卵産んでそれで終わりだもの。人魚なんて……くだらないわよ。まっとうな魚と比べれば」
「それは違うよ」
 祖母はパイプから口を話すと、のんびりとした口調で言った。
「わたしらには感じるこころというものがあるじゃないか。お前は一族のなかでは特に喉の“きかせ”が素晴らしいし、その歌声によって海の船頭たちが毎晩、どれだけの慰めを得ているか。それはたかが魚にはできないものだよ。魚が陸に上がって呼吸できるか? 魚が人間のこころを和ませる歌を歌えるか? あんなものは下等生物じゃないか」
「どうして人間なんてものを喜ばせないといけないのよ」
 マシリは憤ったまま、言った。「そんなものあたしはいらない。人間なんて好きじゃないし、人間なんてものを喜ばせても、チットモこころなんてものは動かない」
「それはおまえが人間というものを知らないから」
お姉さんたちを見てよ。みんな、人間とかいうものに興味を持って、それで、恋に破れて泡になって消えた。あたしはそんな馬鹿馬鹿しいことにはならない……」
「お前はまだ若いから」
 と、祖母は言った。
「若いから何なのよ」
「まだ知らないんだよ」
「何が」
「天国という場所がいかに素晴らしいところか」
「ああ」マシリは低い声で、「天国か」とうんざりする。
 マシリも、天国というところのことは知っている。そこでは常に気分の良くなるような歌が流れていて、人々は毎日踊ったり歌ったりおいしいごちそうを食べたりして、毎日愉快に暮らしているらしい。
お姉さんたちはそういううまい話につられて、それで死んだのよ」
「そうじゃないよ。どうもお前は二人の姉に先立たれて、だいぶすれっからしになったようだね」
 祖母はマシリに忠告するように、その節くれだった長い指を突き出した。
「天国はいいところだよ。畜生と、人間の中間であるわたしらが、逆立ちしても到達できない、それはそれは尊い場所」
「天国ってのは人間専門の施設なわけ?」
「そう」
「どうしてあたしたちは行けないの?」
「魚と人間の半分だから」祖母は注意深く言った。「畜生には畜生の、人間には人間専用の天国というところがある。ところがわたしら中間種は、そのどちらでもない。ということは、畜生専用の天国の門のまえでも、人間専用の門のまえでも、門前払いを食っちまうということさ」
「バカみたい」
 マシリは呆れて、言った。「バカみたいね、あたしたち。とんでもない生き物だわ。こんなどうしようもない生き物って、あたしたちの他にあるかしら」
「だからこそ恋をするんだよ」
 と、祖母は言った。
「あんたの姉さんふたりは正しかった。正しく人間に恋をして、そして正しく人間という“まともな”生き物に生まれ変わろうとした。その結果、その恋に破れて泡となって消えたとしても、お前のお姉さんたちは海の一部になって、こうしていまでも、お前のめのまえをちゃぷちゃぷと行き来して、わたしたちを見守っていてくれるんだよ」
「だから何?」マシリは歯噛みして言った。「だから、あたしも、“正しく”人間に恋をしろというの? それで、荒れ屋の魔女のところへいって、薬をもらって、激痛に耐えて、言葉をなくして、人間風情に恋をして、それで“結婚”してもらえというの?」
「そのほうがいいよ」
 と、マシリの祖母は言った。「天国はいいところだよ」
「知らないくせに」
「少なくとも、こんな海の中で、こんなおいぼれを相手にして文句を並べ立てているよりはマシだね」
 マシリは黙った。自分のなかの正当な“文句”が、醜いものだと断定されたような気がして、面白くなかった。
「それじゃあ、どうしておばあちゃんは人間に恋して、人間にならなかったんだよ」
 マシリは最後のすてぜりふとしてその言葉を口にしたに違いなかったが、祖母にとっては糠に釘、暖簾に腕押しでしかなかったようだ。
 マシリの祖母はこうのたまった。
「わたしの愛する人はたったひとりだけ。あんたのお祖父さん、それだけよ」
 理由になってないよ、とマシリはおもった。が、黙っていた。


****


 マシリはその晩も、海の上へ出て歌を歌いに行った。退屈と鬱憤を一気に晴らせるのは、歌を歌うよりほかにマシリには考えられなかったからだった。
 マシリはいつもの岩部に座って、海を眺めた。波は穏やかで、空は薄曇りだ。ときおり雲のきれまから、まんまるに太った満月が覗く。マシリはその満月をぼんやりと見上げた。
 一番上の姉が生前、マシリにこう言っていた。
「あの満月のむこうがわに、天国というところはあるの。そこには悲しいことも嬉しいことも何もなくて、私たちはものを考えるという必要がない。そこでは毎日が安定していて、毎日が穏やかなの。悲しみも苦しみも飢えも快楽も何もない……魂の救済ってそういうことよ。人間は良いわね。人間に生まれたら最後、そんな天国が約束されているんだもの。私もはやいとこ、人間に認めてもらいたい。そして、天国に行くの。私のことを好きになってくれた人間と一緒に」
 バーカ、とマシリはおもう。そして、誰もいない海で、歌を歌ってみる。すると、その歌につられたように、一艘の大きな船が、水面を揺らしてやってくる。
 マシリはこういう大きな船が好きだった。マシリが気持ちを込めて歌い始めると、海はその歌声に合わせて暴れ出す。波が高くなり、船が左右に揺れ、そのうちに嵐になる。そしてそのうちに、船はその嵐に負けて、転覆する。すると、ちいさな魚たちが親魚の腹の中から産まれるみたいに、船から幾人もの人間が飛び出して来る。マシリはそれを見るのが好きだった。そしてその日も、その魚の子を散らすように逃げまどう人間のことを、退屈しのぎに見学するつもりだった。
 しかし、その船は、いつも転覆させているような船とは違う、それよりも遥かに大きなものらしかった。マシリはその船がどれほどの大きさなのかに興味がわいて、海の中に入ると、その船の近くへ行ってみることにした。
 水面に顔を出し、船を見上げる。その船は、マシリが今までに見てきた中でも群を抜いて大きな船だった。見上げても見上げても、甲板の様子が見えない。マシリは少し船から距離をおいた場所で、再びその船を眺めた。そして、その人間を、発見した。
 その人間はただひとりだけ甲板の先に出ているようだった。男だ、とマシリには分かった。そしてその男と、目が合った。
「    」
 男が下を向いて、何かを言っている。だけど距離が遠すぎて、マシリの耳には何も聞こえない。
「え? 何?」
 マシリは叫んだ。男は口元に手を当てて、声を張り上げた。
「うううあああうううああ」
 マシリにはその意味が分からない。もしかしたら、人魚と人間では言語が違うのかもしれない。そんなことはおばあちゃんも言っていなかったし、お姉さんたちから聞いたこともない……だけど……
 その時だった。マシリのめのまえに、何かが落ちてきた。
 ぶつかる! とおもって、マシリは目を瞑った。バシャン、とちいさな水音がして、まぶたをあげると、マシリのめのまえに、男が浮かんでいた。
 甲板に居た男だ、とマシリはおもった。
 マシリはその男に急いで泳ぎ寄った。男は目を瞑っていて、男の着ている服は海水を含んでずっしりと重そうだ。
「あんた、どうしたの」
 マシリは声を張り上げた。けれど、男は瞑った目を閉じたままだ。
「死んじゃったの?」
 マシリは尋ねた。反応はない。マシリは不安になって、その男の真っ白な頬を撫でた。
 雲が切れて、再び満月が海に顔を覗かせた。そのせいで、マシリはその月光の下で、その男の顔をまじまじと眺める結果になった。
 長いまつげに、高い鼻。唇の色は血色が薄く、その頬はゴムのようにつるつるしている。この顔の下半身に魚のしっぽがついていれば、これでも立派な人魚だ……だけど、何かが違う。やっぱり、人間と人魚では、何かが違う……
 男が、ゆっくりとまぶたを上げた。
「いいんだ」男の目が、柔らかく緩んだ。「放っておいて」
 マシリはその男の冷たい手を握りしめた。で、一目散に、その襤褸衣のような男の服を引っ張って、岸辺まで連れて行った。
 昔、マシリの二番目の姉が、生前に言っていた。
「ねんねのあんたにはまだ分からないかもしれないけど、自分のことを、あんまり半端ものだ、とおもい込まない方が良いわよ。私たちは半分は魚だけど、だけど確実に、もう半分は人間で、それにこうやって考えている私たちの頭の中には、確実に魚の脳みそじゃない。人間の脳みそが入っているの。だから分かるの。運命の人間に出会えれば、一瞬で、それが分かるのよ。それは私たちが決めることじゃない。かみさまが元々お決めになっているものなの。そういうものなのよ」
 マシリは興奮していた。こんな興奮は、今までの日々の中で、一度も味わったことのないものだ。そしてマシリは重たい襤褸衣を引っ張りながら、そうか……と納得していた。
 お姉さんたちは“これ”のとりこになったんだ。なるほど確かに、こんな興奮は、ただ海の中にぷかぷか漂って、家の中で祖母を相手に茶飲み話をしているだけでは、絶対に獲得できないものだ。それに……
 あたしは今確実に、この男の人を助けたいとおもっている。その命を繋ぐ一助になりたいとおもっている。それは、悪いことではないんじゃないか? 
 砂浜は満月に照らされて、黄金色に輝いていた。
 風は穏やかで、まわりの温暖な空気に交じり、まるでマシリの頬を優しく撫で上げているかのように静かだ。岸辺で寄せる波に時々打ち付けられているその人間の体を、マシリはまじまじと見つめた。
 上等な外套に、真っ赤なタイを締めているが、そのむすびめはほとんど解けかかっている。顔は青白く、胸元あたりにおかれた手には、白いグローブがはめられていた。
 マシリの視線が動く。男の下半身には、二本の足が伸びていて、靴の片方は海のどこかに流されてしまったらしい。真っ白な靴下の先は、少し黒く汚れている。
 どうしたら目を覚ましてくれるのかしら、とマシリはおもう。体をゆさぶってみたら? それとも声を掛ける? それとも……
 マシリは魔に魅入られるようにして、その男の顔に自身の顔を近づけていった。唇が赤い。あんなに真っ白だったのに。もしかしたら、生気を取り戻し始めているのかもしれない……
 あ、とマシリはおもった。
 男の瞑った目から、何かが流れている。透明な……なんだろう。
 泣いている?
「放っておいて」
 赤い唇がそのような言葉を作った。その意味は、マシリにも分かった。人間は人魚と同じ言葉を話す。それが分かって、マシリは嬉しかった。
「放っておけない」
 マシリはその男の胸元に自分の手をおいて、言った。
「どうして落っこちてきたの。あたしのことが分かったの? どうしてあたしを見て笑ったの?」
 続けて、そう言おうとおもった。だけど、マシリはその言葉をついに口にすることはなかった。
 男が声を上げて泣き出したからだ。
 マシリは狼狽した。男は両目を片腕で隠すと、そのまましくしくと泣き出した。
「もう嫌だ。こんなのはもう嫌だ。僕なんか死んだ方がいいんだ。死んだ方が世の中のためになる」
「そんなことないわ」
 マシリは慌てて言った。「そんなことない。生きていればそのうちにいいことがあるわよ。いいことを教えてあげる。人間はね、いっしょうけんめい生きていれば、そのうちに、天国というとてもいいところに行けるのよ。そこではきれいな花が年中咲いていて、人々は季節を関係なく踊ったり、歌ったりしてゆかいに暮らすの。いまの憂さも、くるしみも、ぜんぶそこへ行けば報われる。すてきでしょう? そんなところに、行って見たいとおもうでしょう」
 マシリは生まれてからはじめてというくらい、一生懸命になって言葉を話した。
 しかし、その精一杯の言葉は、その男には通じなかったようだった。
「駄目だ」男は力なく首を振った。「僕は罪深い男だ。天国にはとうていいくことはできない」
「そんなことないわよ」
 と、マシリは言った。
「あたし知ってんのよ。人間は生まれながらにして天国への片道切符を握って生まれて来るのよ。あなたはそれを知らないだけ。あんたが以前にどんな悪行に励んだとしても……それは無駄なことだったの。残念ね」
 くすん、とその男が鼻をすすった。そして、自力で上半身を起こすと、まじまじとマシリの姿を見つめた。
「君はそんなこと、誰から習ったの?」
「おばあちゃんよ」
 マシリは得意になって言った。「あたしのおばあちゃんが、あたしにそう言ったの」
「ああそう」男は濡れた服の袖で自身の顔をこすると、「だけどそれは僕には当てはまらない」と、言った。
「なぜ?」
「なぜでも」
「なぜよ」
「なぜでもだよ」
「なぜ」
 男が黙り込んだ。これ以上の問答をする気はないらしい。
「なぜよ」
 マシリがそれでも追及すると、男は一瞬奇妙な顔をして見せたあと、俯いて、言った。
「僕は死にたいんだ」
「なぜ?」
「生きるに値しない男だから」
「そんな人間居やしないわよ」
「僕は人間じゃない」
 男は鋭く言った。「僕は……吸血鬼なんだ」
「吸血鬼? なにそれ」
 男は一瞬、気の抜けたような顔をした。そしてマシリの下半身に視線を向け、言った。
「君も人間じゃないな」
「これから人間になるのよ」
 マシリはあっけらかんとして答えた。
「人間に愛してもらって、それで、人間になるの」
 吸血鬼はちょっと困ったような顔をした。


****


「僕の一族はドラキュラ伯爵の昔から続く旧家なんだ」
 と、その吸血鬼はおのれの身の上話を始めた。
「吸血鬼というのはその名前の通り、ひとの生き血を啜って生きている。その血を吸われた人間は、やがて全身の血を僕たちに吸われて、衰弱して死んでしまうんだ。だけど僕たちは、人間の血を吸わないでは生きていけない。そういう種類の生き物なんだ。
 人間は他の動物の命をもらってその体を養っている。だから僕たち吸血鬼だって同じように、他の動物の命の源である血を吸い取って生きるのは、生物としての権利のはずだ。だけどそうやって生きるうちに、自分の生命の在り方というのに僕は疑問を持つようになった。
 つまり、人間というのにはきちんとした寿命があるんだよ。
 節度ある彼らは、生まれてから七十年、八十年くらいすると、身体の機能の低下によって、大体は死んでしまう。だけど、そのあとには新しい命がめばえるから、人間という種がほろぶことはない。こうして人間という節度ある生き物たちは、せんぐり、せんぐり生まれ継ぎながら、その生命の循環をきちんと巡らせているというわけ。
 そこへ来て、僕たちというのは生命としては落第さ。自分自身の力だけで生きながらえようとすれば、お他人様の血を吸ってそれを生命の糧としなければ生き継げない。そんなダニみたいな生活はもうこりごりだ、とおもえば吸血鬼なんて弱点だらけで、立派な紳士を呼びつけて来て喉笛に楔をぶち込んでもらうか、そんな当てがなければ朝日の差す方向に出かけて行って、おのれのくだらない体を太陽の陽に焼いてもらえばそれでオシマイ……
 だけどつくづく、生きるというのはくだらないことだね。どんなにか自分の生き方や暮らしがくだらない、ろくでもないものに満ち溢れているだけのものだと分かっていても、それを自分の力でなんにもなかったことにしてしまうという段になると、そんなごみの集合体のようなものでも、断然、惜しくなる。せっかくここまで生き継いできたのに、それを自分自身でだいなしにするなんて……僕はそれがたまらなく自己嫌悪だよ。いつだって死にたいとおもっているのに、いざその死がせまってくるのを感じると、そこへ怯えが来てしまって、朝日のまえに自分の醜い体を差し出すのがためらわれる。僕は臆病なんだ。臆病で、ひきょうものの、醜い吸血鬼なんだ」
 と、言って、その醜い吸血鬼は長いことしくしく泣いていた。
 一方、マシリは呆れていた。そして、先ほどまでの自分の感情と、今現在の、この吸血鬼とか名乗った男を見つめるところの自分自身の感情を引き比べ、失望していた。
 失恋ってこんなあっけないものかしら。一体あたしは、この男のどこに恋をして、どこに幻滅したというの?
 マシリが泣き沈む男を見つめながらそういうことを考えていると、男はくすんと洟をすすって、言った。
「君はもう行ったら?」
「どこへ」
「どこへでもさ。僕なんかに構っていることはないんだよ。自分の人生を生きて、頑張ってください。僕も君の知らない場所で、なんとかやっていくから」
「吸血鬼」マシリはどこか未練を引かれる気持ちで、とにかく会話だけは続けようと、むやみに口を開いた。「吸血鬼というのはどういうの? それは人間とは違うわけ?」
「違うよ」
「長生きするの?」
「するね。僕の母方の伯父さんなんかは三百年も生きていると聞く」
「それじゃあ、あんたたちには人間に約束されている“天国”という場所がないわけ?」
「ないね」
 吸血鬼はきっぱりと言った。「そんな上等なものは、吸血鬼の世界にはない」
「じゃあ、あんたがたは、死んだらどうなるの?」
「決まっている」吸血鬼は平然とした顔で言った。「灰になるんだ。吸血鬼は死んだら、灰になるんだよ」
 そんなのまるで人魚といっしょじゃないの、とマシリはおもった。


****


 それから人魚と吸血鬼は満月のあかりの灯る静かな夜の岸辺で、お互いの話を続けた。
 話しても話しても、言葉は水のようにマシリの口から流れてきて、枯れることがなかった。マシリは話しながら、もっと早く話したい、とおもった。もっと早く話さないと、次に頭に浮かんでいる話題や疑問を忘れてしまう。そして、それは絶対に口に出さなければならない大切な話題なのだ。だからこの話題を口にして、吸血鬼に話してしまうまでは、ぜったいにこの話題については覚えていなければいけない、そうおもいつつ、今現在の話題について話していると、その興味で頭の中がいっぱいになってしまって、とても次の話題についてその内容を精査しているひまがない。マシリは慌ただしく話しながら、もどかしい、苦しい、辛い、嬉しい、楽しい、悲しい、という感情で頭の中がいっぱいになった。苦しくて悲しくて楽しくてうれしい……なるほどお姉さんたちがこの感覚に夢中になったのも分かる。海の中でじっとして、魚相手に世間話をしているよりも、よっぽど頭の中が忙しい。一体あの海の中の会話って、何だったんだろう。あんなものを会話だとおもって、生命のなぐさめだとおもって平気で暮らしていたなんて……そんな馬鹿なことが……
「あなたみたいな生き物がいるなんて知ってたら、あたし今迄みたいに海の中でじっとしているのが馬鹿みたいになっちゃった」
 と、マシリは興奮して言った。
「だってあたしの話し相手ときたら近所のデメとか、うつぼとか、まだうまれたての小魚あいてにしているキンメの奥さんなんか、それっぽっちなのよ。それであの人たちは、あたしたちのことを馬鹿にするの。魚でも人間でもないあんたは半端ものの生き物としてのできそこないだって。なんであたしがそんなふうにいじめられないといけないの?」
「それは気の毒なことだったけど」吸血鬼はためらいがちに、「だけど仕方がないんだよ。そう生まれついてしまったんだもの。そう生まれついてしまったものは、その生命を全うするまで、その生命を自分であやしつつぼちぼちやっていくしかないんだ」
「あんたって消極的ね。憤りというものがないの?」
「僕はどちらかというと加害者側だから」吸血鬼は仕方なさそうに肩をすくめ、「僕にはあなたと違って人間そっくりの手足があって、人間世界に擬態して生きることが出来る。その分生命維持にはかかせないところの人間様には頭が上がらないんだよ。彼らがいなければ、僕たちは生きてさえいけないんだから」
「人間ってそんなにえらいものなの?」
 マシリの好奇心に満ちた目を、吸血鬼はじっとみつめた。
 まるで太陽と月がいっぺんにおさまっているかのような、魅力的な瞳だ、とマシリはおもった。
 そのうつくしいものを見つめて一生を終えることが出来るのなら、それでも十分生まれてきた甲斐があると分かるほどのうつくしいものを見ている、とマシリはおもう。けれど、この吸血鬼は落第だ。だってこの人は“人間”じゃないんだもの。吸血鬼に恋した人魚が天国に行ける? 行けるはずがない。だって吸血鬼は、死んだら天国に行くのではなく、ただ灰になるだけ……
「偉いよ」
「どうして?」
「偉いさ。決まっている」
「だから、どうして」
「人間は“基準”だから」
 と、その吸血鬼は言った。
「僕たちというのは人間を基準にして生まれついた人間もどきなんだ。それならば、その標準であるところの形態に敬意を表したって、不思議じゃないとおもうけど」
「良く分からないけど」マシリは眉間にしわを寄せながら、「あたしは、人間には天国という素敵な行き場所が用意されていて、人魚や吸血鬼にはそれがないから、だからいいものなんだと教えられたのよ。そういう考えを、あんたはどうおもうの?」
「少なくとも」と、その吸血鬼は言った。「僕は人間にあこがれているんだ」
「憧れる?」
「もしも望みが叶うのなら、僕だって人間のようなりっぱな生き物に生まれ変わりたい。そうすればこんなくだらない方法でいぎたなく過ごすこともなくなるだろうし、自己嫌悪も抱かなくて済む」
 吸血鬼はうつくしい目をして、マシリを見つめた。「僕は君が羨ましい。人間に恋をすれば、人間になれるというあなたのことが」
 マシリは左胸の奥に刺すような痛みを感じた。誰かがマシリの内部から体を叩いて、ここから出してと叫んでいるみたいだ。だけどマシリには、その内部の人物を自分の胸の奥から出してやれる方法が分からない。だからマシリは、その左胸の奥から突き刺して来るような痛みに耐えるしかない。
「あたしは人間にはなれないわ」
 マシリは吸血鬼のうつくしい目をうっとりと見つめながら言った。「だってあんたは人間じゃないもの。あたしはあんたのことが好きだけど、吸血鬼に恋をしたって仕方がない……それに、あたしは死んだりしない。死にたくないのよ。人間として生きたいの。恋をして、その果てに死ぬことしかできないできそこないの存在になるなんて……」
「分かるよ」
 吸血鬼は、労りの仕草をした。「そんなものは生き物とは呼べない。ただの泡のように単純な、循環のようなもの」
「あたし泡になりたくてうまれてきたわけじゃない」
「そのとおり」
 マシリにとって、吸血鬼のその呼応は心強いものに聞こえた。それはマシリが今までに聞いてきた他人の言葉の中でもっとも強さを感じさせるものだったし、激しい実感としてマシリの頭の中に染み込んだ。けれど実際の吸血鬼はただ疲れていて、はやく自分のベッドに入ってぐっすりと眠りたかっただけだった。だからそのマシリにとっては力強かった言葉も、吸血鬼にとっては会話を打ち切るためだけの方便に過ぎなかった。けれど、それでもその時のマシリにとっては、十分に意味のある言葉になっていたのだ。
 ねむかった吸血鬼は、マシリにある男のことを紹介してくれた。
「まったく人間というのは複雑怪奇な生き物だよ。僕みたいな単純生物からしてみれば、理解不能としか言いようがない……」
 その男というのはこの海の周辺の地域を統べる領主で、年のころなら五十を越えるというほどの年齢ではあったものの、その容姿を見れば二十歳そこそこといったふうの、若々しい顔立ちをしているとのことだった。
「僕がまだその領主の屋敷で宮仕えをするまえ、今から三十年もまえのことだ。僕の古城へやってきたあの男は、僕に向かってこう言った。“私は永遠の命と永遠の若さを手に入れたい。その代わりに、お前にはこれから一生涯、飲んでも飲んでも飲み足りないほどの新鮮な血と暖かいベッドを用意してやる。”
 あの頃というのは吸血鬼規制の厳しい時期で、見つかれば異端審問に掛けられて、火あぶりだ。僕たち吸血鬼というのは滅多なことじゃ死なない。それを、夜中にやって来て屋敷から引っ張り出し、真夜中から朝方に掛けて、じっくりと火であぶっていくんだ。人間たちは火であぶられながらもなかなか死なない僕たちを見て、つかの間の娯楽を得る……僕はそれに怯えて城に引きこもり、餓死寸前というところだった。領主様のその言葉に、一も二もなく飛びついたよ。まったく飢えというのは恐ろしい。何も考えられなくなる。藁にでもすがりつくおもいだったよ。もうあんなに苦しいおもいは二度としたくない……
 僕は領主様の望み通り、あの御方の首筋を噛んで、あの御方の永遠をお約束させていただいた。吸血鬼に噛まれ、選ばれた人間は、永遠の若さと永遠の命を手に入れる。だから領主様はずっとお若いし、歳も取らない。
 僕はだから、その城にあなたをご案内することはできるよ。そこであなたが恋しいとおもえる人間を探すといい。もちろんむりにとは言わないけど」
「ぜひそうさせていただきたいわ」
 マシリは恭しく返答した。「それにしても人間というのはおかしなことを考えつくのね。永遠の命なんて……あたしたちからすれば、そんなものが与えられたところでへのつっぱりにもならないなんてことは分かり切っていることなのに。どうしてそんなばかなまねをするんだろう。益々尊敬できない」
「人というものは、自分にないものを欲しがるようにできている」と、吸血鬼は言った。「きみだって自分にないものを欲しがっているじゃないか」
「どこが? どれが?」
「天国のことだよ」
 と、吸血鬼は言った。「人間になって、限りある命をまっとうして、死んだら天国に行く。そうだろう」
 それから吸血鬼は、まるでマシリのことを値踏みするような目つきで見つめた。けれどマシリは、吸血鬼のそんなしぐさにでさえうっとりした。
「ああ、あんたが吸血鬼とやらでなければねえ!」
「僕は勇気が欲しい」
 吸血鬼はマシリの言葉など耳に入らなかったかのようにうつむいて、ぽつんと言った。「灰になる勇気。生き物でなくなる勇気。今までのおもいでもくるしみも全部、ごみみたいに放れる勇気」
「そのうち涌くわよ」
「うじむしみたいに言うな」
 恨みがましい目で、吸血鬼がマシリを見つめた。だけどマシリはそれだけで、天国というのがどういう場所か分かるような気がした。天国というのはつまり……
 その後二人は、三日後同じ時間同じ場所で再会することを誓い、別れた。
 翌日マシリは人魚の声と引き換えに人間の足を生やす薬というのを、もらいにでかけ、荒れ屋の魔女の手から、そのきれいな玉虫色をした小瓶を受け取った。
「これであたし、一生口がきけなくなるのね」
 マシリはなんとなく暗澹とした気持ちになりながらその小瓶を見つめた。荒れ屋の魔女それを聞いて、「だけどこんな魚の尾っぽをつけて海の中を漂っているよりもよっぽど建設的だよ」と言った。
「建設的ってどういうこと?」
「生産的ということだよ」
「どうして声をなくして足を生やすことが生産的なの?」
「そんなことまで考えなくていいの」と、老婆は言った。「そんなことまで考えろって、誰がお前に強制した? 誰にも頼まれてないことをさも重要なことみたいにして疑問するのはあんたのわるいくせだよ」
「なんで疑問を持つことが悪いことなのよ」
「そういう無駄口が叩けなくなるのはあんたのためになる。声なんかさっさとなくしちまって、足を生やす方が、よっぽどためになるよ」
「意味が分からない」
 そう言いつつ、しかし人魚でしかないところのマシリは自宅へ帰っておばあさんにあいさつを済ませるために出掛けた。
   マシリはもちろん反対などされるはずもないとおもっていた。が、違った。
「行かない方が良い」
「なんでよ」マシリは食って掛かるように言った。「おばあちゃんだって、あたしが人間になった方がいいと言ったじゃない」
「人間にならなくても生きる方法はある」と、マシリの祖母は言った。「あたしが良い例だ。人魚は人魚同士で番って、それでこどもを産んで、海の中で暮らしていくのが一番いいんだよ」
「言ってることがちがう」マシリは言った。「天国はいいところって言ったじゃない。あたしがそこへひとりだけ行くのがうらやましいの?」
「なんてことをいう子だろう」マシリの祖母は恐ろし気に、「おばあちゃんがおまえに相応しい相手を探してやるよ。お前が本当に行く気になるなんておもってなかったんだよ。天国に確実に行けるかどうかなんて分からない。孫娘を三人もなくして、おばあちゃんをひとりぽっちで海の底に置いていくの?」「それは違うわ、おばあちゃん」マシリは小瓶を握りしめて言った。「おばあちゃんのまわりには、死んだ姉さんたちが泡になっていつだって寄り添ってる。おばあちゃんはひとりぽっちなんかじゃない。ほら、いまにもそこに、お姉さんが弾けた!」
   マシリは海の中を指さして、それから逃げるように泳いだ。そしてほとんど自暴自棄のようになって小瓶の中の、その玉虫色の液体を飲み干し、意識を混濁させ、人魚としての意識を手放した。

 

****

 

 マシリは激痛で目を覚ました。下半身がしびれるように痛む。もしかして、ねむっているあいだに魚にでも尻尾のはしっこをかじられたのでは?
 マシリはそれを確認すべく上半身を起こし、自身の下半身を見た、そして声にならない叫び声を上げた。
 銀のうろこに包まれた魚のしっぽの代わりに、マシリの下半身にはにょっきりとした二本の細い、白に少しの銀を混ぜたような色をした足がついていた。それがさきほどからじくじくと膿むように痛んでいたのだ。マシリはその見慣れない足を撫でさすり、それによって自身の脳が触覚を得ているというのを知った。だからこれは自分自身の足であり、そしてそれを感じている“人間”の脳みそは、私自身のものであり……
 次にマシリはおのれの首元に手を当てた。そして、口を開けて、「あ」と発音した。
 何も聞こえない。
「あ あ あ」
 何も聞こえない。ただ空気の抜けたような感覚が喉の奥を掠めるだけで、その発音は意味をなさず、音も奏でない。マシリは喉に手を当てながら、「そうか……」とおもった。
 あたし、人間になったんだ。
 マシリはしばらくその場でぼんやりと海を眺めた。そして決心をつけると、砂浜に両手を置いて、自身の体を持ち上げ、転倒した。
 マシリの人間への第一歩までには、またしばらくの時間を必要とした。マシリはその慣れない二本の足に力を入れては転倒し、力を入れては転倒しを繰り返し、その間に二度ほどふて寝をし、起きて立ち上がり転倒し、立ち上がり転倒しを繰り返しようやくひとりで立てるようになった頃には日は暮れかけ、昇った朝日は沈みかけていた。そしてマシリは岸辺に寄せて返す波打ち際に足を遊ばせながら、吸血鬼のことを待ち続けた。
 しかし、吸血鬼がやってきたのはそれから五日後のことだった。
 吸血鬼はマシリとの約束を、すっかり忘れていたのだ。
 それどころではなかったからだ。
 あの日吸血鬼が屋敷に帰ると、屋敷の中は騒然としていて、使用人たちが屋敷のあちこちを走り回っているのが見えた。吸血鬼は忙しそうにしている人々に容易に声を掛けるのが躊躇われて、しばらく屋敷の出入り口のまえでもじもじしていた。
 すると、中央階段から降りてきた使用人の一人が鋭く吸血鬼の方を見つめ、早足で駆け寄ってきた。吸血鬼が声を掛けようとすると、強く腕を掴まれ、そして、「書斎へ来なさい」と言われた。
 そこでは彼の主人が待っていて、お前が船から落ちたせいで大変な損害が出た、それについてお前の意見が訊きたいが、何か申し開きのようなものがあるかと尋ねられた。吸血鬼は考えあぐね、口を開き、また閉じ、開きかけて、閉じた。
「世の中というものは」
 と、彼に噛まれたお陰で不老不死になった若々しい、そのうつくしい男は言った。
「すべて関わりなんだ。人間同士の関わりなんだよ。そこにはしがらみや面倒も勿論あるが、一番大切なのは信頼だよ。相手を信頼しているからこそ、客を任せる。仕事を任せる。そういうものだ。お前はそういう信頼という、社会生活においての一番の財産を、みずからどぶに捨てるようなまねをして、私の顔に泥を塗った。私がお前に与えた恩はその程度だったということだ。私が目を掛けていたお前という生き物は、その程度の、つまらない、人間の礼節というものの範疇から外れた、けだものに過ぎなかった」
 吸血鬼は平身低頭し、“誤って”船から落っこちたことを謝罪したが、主人の憤りを鎮静させることはできなかった。
 吸血鬼はだからそれから数日、主人のご機嫌取りをするのに終始した。新鮮なまだ花のかおりを残すような娘たちをかどわかして屋敷に連れてきたり、なんでも形から入りたがる主人のために、マホガニー材で作られた特注の棺桶型ベッドなどをプレゼントして、精々の御機嫌伺をしていた。そうやってうかうかとした数日を過ごしていた吸血鬼がマシリとの約束をおもいだしたのが、マシリが人間になってから七日目の、月が雲に隠れる晩のこと。
 吸血鬼はその晩、かどわかしてきた娘たちの身に着けていたドレスやアクセサリーなどを質屋に流した後、マシリと約束した夜の岸辺に向かった。
 きっともう僕のことなんて忘れてしまっただろう、と吸血鬼はおもった。
 どうせ僕は約束だってまもれないし、主人のメンツをつぶすようなまねしかできない。僕は生命として根本的にできそこなっているんだ。こんな僕がこの世で為せることなんて、どんなこともありはしない。それならばやはり、いっそのこと……
 暗がりのなか足元も見ずにそのようなことばかり考えていたせいで、吸血鬼はめのまえにあったまっしろなものにけっ躓いて、転んだ。
 鼻づらを強かに打ち付けた吸血鬼は、自身の顔を押さえ、その場にうずくまった。それから、カンテラを掲げ、自身の歩行を阻害したところのその障害物を、まじまじと見下ろした。
 それは女だった。女の長い髪はその白い肢体に海藻のように絡まって、その全身の裸像を他人には控えめにおひろめする程度に抑えていた。
 水死体だろうか、と吸血鬼はおもった。死体に触れることは好まないので、その裸体の首のあたりに足を掛け、やや力を入れて裸体を裏返す。女は目を瞑っている。その顔に見覚えがあるような気がしないでもないが、だけどこれは人間の死体で……
 その死体の目が、見開かれた。
「びっくりした。生きてるのか」
 吸血鬼は自身を安心させるためにそう言った。しかしそれは独り言で終わった。目を覚まし上半身を起こしたその女が、何も言わなかったからだ。
 吸血鬼はその場にかがみこんで、その女を見つめた。
「どざえもんになるにしても服ぐらいは着ていてもいい気がするけど……それともみぐるみぜんぶ剥されたの? 誰に?」
 吸血鬼は確実に、その女の目を見つめ、まじめな素振りでその女に話しかけたに違いなかった。しかし女はどこかかなしそうな目をして首を振り、おのれの喉に手をやると、そこをごしごしとこすり、それから口を動かして、乾いた息のようなものを吐いた。
「あ、なるほど」
 吸血鬼はそれで納得して、これはちょうどいいとおもった。
 なにしろ彼のご主人というのは、毎晩の“糧”についての注文がうるさいのだ。
 筋の固いのは嫌だの血に酒の味が入っているのは嫌だの、粗食に甘んじている血はかおりが貧相だから嫌だの、美食家気取りであれこれと注文をつけ、この頃では気に入らないと口もつけない。いい加減彼がうんざりしていると、彼の主人は、お前の正体を暴いて朝日の昇るころからお前を十字架に括りつけて馬に乗せて街中を練り歩きその顔が朝日に崩れ腐るさまを住民の皆様にお披露目してやると脅すので、仕方ない、吸血鬼は“糧狩り”と称して街の若い女たちをかどわかし続け、その人口は着々と減少の一途をたどる羽目になっていた。
 しかし若い女というのも一絡げにして考えてはいけないもので、それぞれに性格というものがあれば個性というものもある。暴れるもの、泣き叫ぶもの、悪魔も恐れて尻尾を巻いて逃げ出すほどの罵詈雑言を浴びせるもの、とにかくおいそれとおとなしく捕まっていてくれるような相手になどなかなか出っくわさないというのが本当のところなのだ。
 そこへ来てこの女はなかなか良い。第一口がきけないのだとするのなら、吸血鬼に向かって「このろくでなし。やどろく以下。ケダモノ、うじむし入りのチーズ、腐ったあめんぼう」なんて口汚く罵ってくることはないだろうし、どざえもんのなりそこないだとすれば、世の中の人間は、この女はもう死んだものとみなして新しい生活をはじめているかもしれない。この女は“世間”から切れている……そう仮定するならば……
「こんな格好をしていたら風邪をひくよ。さあ立って」
 吸血鬼はねこなで声に甲斐甲斐しく女を立ち上がらせながら、裸の女に自身のマントをかぶせてやり、前で合わせて正面をベルトで結ぶ。そしておぼつかない足取りの、声のない女の手をひっぱって、屋敷へと連れて行った。
 驚いたのはマシリの方だ。
 彼女からしてみれば、七日間程度の長き間、吸血鬼のことを飲まず食わずで待ち続けていたものだから、すっかり体力をなくしてしまって、抗議する力さえも残っていなかった。
 マシリとしては勿論、抗議をしたかった。あんたいつまであたしを待たせるつもりだったの? あたしに躓いて転んでいたけど、あたしを蹴ったことについての謝罪は? それにあんた、もしかしてあたしのこと分かっていないんじゃないの? あたしのこと覚えてる? あの晩あんたを助けたのはこのあたしなのよ、それなのに……
 けれど彼女は結局、その抗議のひとつも口にすることは出来ずに、ただ牛に引かれて善光寺参りよろしく、吸血鬼に連れられて、その領主が住まうという屋敷にまで連れていかれて、一部屋を与えられ、まずはコンソメの薄いスープから、徐々にお腹の中を慣らしていって、ミルクがゆ、ジャム付きのパンにくだものなんかを与えられ、しばらくのうち昏々と、まっしろなベッドの上でねむりつづけた。
 そんなむすめが西棟の一番日当たりの良い部屋でねむりつづけているというのを聞きつけた領主は急いでやってきて吸血鬼のことをせっついたが、「まあまあ、もう少し回復するのを待って」と諫め、また数日。
 マシリが目を覚ますと、そこには目の覚めるような、水も滴る美青年がマシリを見つめていて、息が止まりそうになる。
 部屋の中はあたたかく、カーテンの向こうで固く閉じられた窓からは、ときおり風が木枠を叩く音がする。ベッドの横の燭台のあかりがゆらゆらと揺れ、クリーム色の壁紙に、大きな黒い影をつくっている。
 マシリはあらためて、その黒い影を作っているところの主の顔を見つめた。
 黒くうねった長い髪をひとまとめにして、後ろでくくっている。肌は蝋のように真っ白で輝きがなく、長いまつげがまばたきをするたびに、パチパチと、ちいさく細かく爆ぜるような音を立てる。
 それよりも何よりも……
 きれいな眼! とマシリはおもった。そして、その目を見ながら、マシリはそれを懐かしくおもった。
 あの吸血鬼と、同じ眼だ。たぶんあたしはきっと、この眼に弱くできているんだわ。そうじゃないと、説明できない。出会ってまもない他人のことを、こんなに慕わしくおもうようになるなんてことは……
「名前は?」
 うつくしい声が、マシリに問いかけた。
 マシリはやわらかい枕の上でまばたきを繰り返した。マシリは答えられない。字も知らないから、文字を書いてそれを声の代わりの返答にするという術も持たない。彼女はきゅうに、大きな暗い穴の中に放り込まれたかのような感覚を覚えた。あたしにはいま何もない。めのまえの人に気に入ってもらう術も、めのまえの人に自分というものを知ってもらう術も、なにもない……
 けれどめのまえのうつくしい男が、マシリのそのような無力感を知るはずもない。それどころか彼女のめのまえの男は、そのマシリの感じた無力感そのものを愛おしむかのような目をして、彼女のちいさな頬に触れ、そして言った。
「君はなんてきれいなんだろう」
 その瞬間、マシリのなかの無力感はしおれていって、そして、二度と彼女の頭の中にもどらなかった。
 マシリは男のその言葉を、おかしい、奇妙だ、不思議だとはおもわなかった。けれど、まともな頭で考えれば、男のその発言はおかしく奇妙で不思議なもののはずだった。だってあたしは自己紹介をしていないし、男の質問を無視したし、みずから男の方へ寄って行って、好かれようとする何らかのアプローチをしたわけではなかったのに。
 それにもかかわらず、どうしてこの男はあたしのことを好意的な目で見つめるんだろう。そんなふうに値すると、どうして感じたんだろう?
 マシリはそういうことを考えてみてもよかったのかもしれないが、そんならちもないことを考える必要は、いまの彼女にはなかった。そして考えないどころか、男のそのような視線を、彼女は、「当然だ」とおもった。
 この男があたしのことを好意的な目で見るのは当然だ。だってあたしはこの男のことが好きで、それにきっと、この男に恋をするために生まれてきたんだから。だからこの男があたしに恋をするのは当然で、それが人魚という生き物が一段上の存在になるためのりっぱな手続きのひとつなのであって、だからあたしはこの男に恋をして、人間にしてもらって、そして、人間と同じ天国に行って、それから……
お姉さんたちも海の魚連中も、みんなあたしのことを尊敬するわ。そして、立派な、いちにんまえの人魚だったって、あたしのことを褒めてくれる」
 マシリは、頬の上のつめたい指先の感触を感じながら、再びねむりについた。なんだかねむくてねむくてたまらなかった。男の冷たい指先は、マシリの頬をくすぐるように動き、鋭い爪が彼女の首筋をなぞるように動いた。マシリにはそして、その感覚はここちよいものに感じられた。だからマシリはその日も安心してねむりにつくことができた。そして、日に日に衰弱していった。


****


 マシリはとても穏やかな気分だった。そしてそれは、彼女が生まれてから一度も感じたことのなかったものだった。
 それまでのマシリは、ずっと苛々していた。ずっと機嫌が悪かったし、ずっと気分が悪かった。自分が魚と人間の中間であること、自分の身内であるところの姉たちがみんな、人間に恋敗れて泡となって消えてしまったこと、話し相手にめぐまれなかったこと、そのすべて、海で生活していたことすべてに対して、ずっと不満を募らせていた。
 だけどいまは違う。そういう半端なものから逃げ出して、自分のすべきことを全うしている最中だ。あたしは半端ものなんかじゃなくて、魚のできそこないでも人間のできそこないでもなくて、それにあたしのことをきれいだと言ってくれるひとがいる。部屋の中は常に暖かく、ひもじいおもいをすることもない。それにここにいる限り、あたしのことを軽蔑するような目で見て来る人は、ひとりだっていやしない……
 マシリはそれだけのことをベッドに仰臥したまま考えていて、それで、とても幸せだった。
 マシリの頭の中ではそういう平和な幸福感が持続していたが、それでも傍から見れば、彼女はただの、吸血鬼城に囚われたあわれなる人間のこむすめでしかなく、屋敷の主人がそれをできるだけ“長持ち”させたいがために毎晩少しずつ血を抜くせいで体はどんどん衰弱していき、せっかく生えた二本の足もほとんど使わず仕舞いで目も当てられないほどだったが、それでもマシリは幸せだった。
 もちろんマシリは、今現在の自分自身が死へと向かう直行便に乗り込んでいるのを知らない。
 けれど彼女は、搭乗したつもりのない、そんな死の直行便のなかでシートベルトを締めて、機内食をゆっくりと楽しみながら、窓際の席でぼんやりと窓の外を眺めているかのような、穏やかな気分を続けていたのだ。
 彼女の頭の中には苦しみもなく、悲しみもなかった。そして彼女の靄がかった頭の中にかろうじて残っているもの、それは期待と興奮と、それからほんの少しのじれったさだった。
 朝とも夜とも分からない、分厚いカーテンで一日中覆われたその部屋の中には、たえずろうそくの明かりが灯っていて、空気は停滞し、ベッドの中でろうそくの明かりが映し出す部屋の調度品に落とされた黒い影を見ているだけでも、なんとなく気が休まってくる。その穏やかな停滞し、しかし確実に流れている緩慢な時間のなかで唯一、冷たい外の空気が忍び込むように入ってくるその時間。マシリは一日のなかで、その時間が一等好きだった。
 その冷たい空気をまとって部屋の中にやってくるその黒い影が、マシリの温んだ首にまとわりついて、マシリはその冷たさで目を覚ます。
「おはよう。よくねむれた? 今日も君はきれいでかわいいね」
 マシリは、かつて姉のひとりに言われたことがある。
「好きなひとに褒めてもらえて、かわいいね、きれいだねって言ってもらえることより素晴らしいことってないのよ。たった数文字の言葉のくせに、たったそれだけのことで、全世界が私のことを肯定していて、私はこの世に相応しいように作られているんだと実感できるのよ。こんなこと、海でのんびり暮らしているだけでは味わえない。海での生活は、ぜんぶ正しくなかったんだというのがわかるの。あんたも恋をすれば分かるわ。それほどすばらしいの。人間からの愛というものは……」
 けれどマシリは、その“言葉”に“言葉”で返すことが出来ない。だからマシリはその言葉に応えるために微笑もうとするが、顔の筋肉がうまく緩まないから、微笑むことも出来ない。ああ、こんなことになるのなら、声とひきかえに足なんてもらうんじゃなかった。チットモ役に立ちやしないじゃないの、こんなもの。でもやっぱり……だめだわ。下半身が魚のままだったとしたら、この男はあたしのことをかわいいだとか、きれいだとかなんて言いやしなかった。それどころかきっと、この男はあたしのことをケダモノだと罵って……ああ、人間が羨ましい。うまれたときから天国行きが決まっていて、りっぱな二本の足も生えていて、声も出せる、そんな人間が、あたしは羨ましい!
 声も出せず微笑むことも出来ないマシリは、だからふたつの目の端から涙を流して“喜び”を表現し、せいぜい彼女の首にかみつく男に喜ばれている。男に夜な夜なかみつかれてマシリの首は穴ぼこだらけ、まっさおでとても見ていられないようなものだけど、それでもそんなことを知らないから、マシリは幸福のままだった。
 さて、そんなある夜のこと。
 マシリがあの出会いの夜に勘違いをして恋をした吸血鬼はというと、国外へ出てわがご主人様のための“糧狩り”に出掛けていた。
 国内ではすでに、相当数の若い女が行方知らず、あるいは用水路のふちで骨と皮だけになって発見されるなどというようなことが起こり、人さらいを恐れた若い女のいる家庭は、家にかんぬきを掛けて、自分たちの娘を一切外に出さないようになった。比較的裕福な家庭は家庭教師を呼んで家庭内で教育を済ませ、金のない家はただでこどもをぶらぶら遊ばせていくわけにもいかないから外に出しているが、彼の主人が「粗末な食事しかしないものの血は旨くない」とかぜいたくなことを言っているから“糧”として機能しない、というわけで、吸血鬼は先日から、人さらいの噂の広まっていない地方まで出て行って、“糧狩り”にはげまなければならないということになっているのだった。
 けれど吸血鬼は馬車に揺られながら、うんざりしていた。
 このところなりをひそめていた彼の中の希死念慮というやつが、むくむくと動き始めていたからだ。
 こんなくだらないことを繰り返して、何になるというのだろう。くいもんなんて腹にはいっちまえば木の根っこでも上等なフォアグラでも、腸から出て行けば同じなのに。やはり僕の考え方は間違っていた。いくら飢餓にあえいでいたのを救われたからといって、ここまでしてやる必要があるだろうか。自分のことながら、情けなくて涙が出て来る。普通は噛んだ方が噛まれた方の主人になるのが当然であって……
 やっぱり潔く死んだ方が手っ取り早い。こんなろくでもない生命をうさうさとのさばらし、本来であるならば延命されるべき若々しい人々の生命を、あたら無残に散らせるなんてことをするために……僕は生まれてきたんだろうか?
 しかしそう殊勝に考えつつも、やるべきことはやるべきことだ。ちょっとよさげなお屋敷から出てきて、まだ世間を疑うというのを知らなさそうな若い娘に吸血鬼は声をかけて、それでまんまとふたりの女を馬車に連れ込み、首元にかみついて新鮮な命をすすり弱らせ、月夜の晩をゴトゴトいわせ、馬車で城へと戻る道中で、吸血鬼はあの晩別れた人魚のことをおもいだす。
 あの子は元気にしているだろうか。
 吸血鬼はそれで、あの晩人魚と出会った浜辺に行った。海は穏やかで、空の向こうは朝日を含んで白み始めている。まだ夜の色を薄く残した空には、真っ白な穴のような、真ん丸とした満月が浮かんでいた。
 ふと、吸血鬼は足元に目を向けた。
 なにかごみのようなものが、波に揺られている。死んだ海藻か何かだろうか、と吸血鬼はおもった。
 すると、その海藻が動いた。髪の毛だ、と吸血鬼はおもった。もしかしたら、“あの”人魚かもしれない。人間になりたがっていた人魚。そして吸血鬼は考えた。どうせ死ぬなら、死ぬ前に一度善行というのをしてからにしよう。そう考えても、罰は当たらないはずだ。くだらない一生ではあったけど、その一生の中で、一度だけでも他人ののぞみをかなえてやることができれば、こんなに素晴らしいことはない。どんなにくだらない人生だったとしても、その中で誰かの役に立つようなことがあれば……生まれてきた甲斐がなかったなんて、きっとそのお他人様の方が否定してくれるはずだ。そのようなことになれば……
 吸血鬼はその海藻のようなかたまりを掴んで、引き上げた。しかしそれは、吸血鬼が見当をつけていたあの人魚とは、どうも勝手形がちがっているようだった。
 しかし吸血鬼は失望しなかった。それどころか、明るい気分だった。そして吸血鬼は知った。死をめのまえにし、それが未来の現実へと続く実感として迫ってきた時……こころというのはこんなに穏やかになって、そして落ち着いてくるものだということ。
 吸血鬼はそれで、その足で屋敷の西棟の、例の部屋、例のすっかり衰弱しきってもうほどんど“使えなくなりそう”な娘のところへ出かけて行って、すっかり木の皮のようにやせ細った女の上半身を起こしてやり、そして、言った。
「今日、きみのおばあさんだという人に会って、話した」
 女の目が見開かれた。それだけで吸血鬼は、あの波打ち際に死んだ海藻のようにしてひっからまっていた古びた人魚の女が、このむすめの関係者であることを確信した。
「だって君には足があったんだもの。君があの時の人魚だなんて分からなかったんだ。あの日は暗かったし、碌に君の顔を見る余裕なんてなかった……そうならそうと、言ってくれればよかったのに」
 女はかなしそうに首を振った。だから吸血鬼はその女を安心させてやるために、「口がきけないんだろう、分かっているよ。色々と不便もあっただろうね。おばあさんも心配していたよ。おばあさんは君が人魚に戻るべきだと言っていた……ところで話があるんだけど、少し時間を貰っても構わない?」
 女が咳き込んだ。吸血鬼は立ち上がって、水差しから水を注いで、女に飲ませてやった。女は口元を拭うと、荒い息を吐き、それからちいさく頷いた。
「君と僕のあいだには、ちょっとした手違いがあったみたいだ。そもそも僕たちは、目指す方向性が違っていた……とおもう。君は生きたがっていたけど、僕は全然そんなふうには考えられなかったから。もしも僕が君のことにきちんと気づいて、期日までに君を迎えに行ってあげられていたら――こんなことにはならなかった。その点は謝罪する。ほんとうにごめんなさい」
 そう言って、吸血鬼はぺこりと頭を下げた。女はぼんやりとした顔をしていて、何の反応も見せない。「だけどどちらにせよ、やっぱり僕には、自分の存在そのものというか……生活そのものが馬鹿馬鹿しくてたまらない。いままで我慢してきたけど、もう我慢の限界だ。あんな馬鹿を主人として仰ぐことにもうんざりしているし、他所から人をさらってきてそれを糧にしなきゃならない自分自身にもうんざりしている……もうこんなことは止めにするべきだ。僕はもうそう決心した。だから……」
 吸血鬼は顔を上げ、そしてめのまえの女を見つめ、そして言った。
「君もいっしょに死のう」
 女は、嫌そうな顔をした。
 けれど吸血鬼は死をめのまえにしていて興奮していたので、その興奮のまま立ち上がって、言った。
「君はずっとねむっていて、それに人間界のルールにも疎いから、知らないことだったかもしれないけど……きみはもう、そこらじゅうを歩いているどんな人間よりも今、死にやすい環境にいる。だから死ぬといっても苦しまないし、痛くもないよ。ぜんぜん、痛くなんてないんだ。むしろ気持ちが良いくらい。僕は知っている……死にかけている虫の死は穏やかで、まるで時間がそこだけ止まっているみたいに、ゆっくりと進行する……僕はそれを知っているんだ……」
 吸血鬼は興奮してばりばりと頭を掻いた。そのもじゃもじゃとした髪の毛の中から、ぱらぱらと色んな種類の虫たちが飛び出し、ろうそくの明かりの先に絡めとられ焼け死んだ。
「君は知らないことかもしれないけど、そしてとても残念なことなんだけど――きみはすでに人魚ではなくなった。だけど、人間でもない。君はいま、吸血鬼なんだ。分かる? ――きゅう、けつ、き」
 吸血鬼は爛々とした目をして女を見つめた。
「吸血鬼に血を吸われたら、吸われたあいても吸血鬼になる。僕の主人は、僕がその首筋を噛んだことによって吸血鬼になって、それであんたの首を噛んだことで、あんたも吸血鬼になった――もしも吸血鬼から逃れたいと望むなら、あんたはご主人様であるあの男のねむっているところへ行って、その口ににんにくのまるいのをぶちこみ、そしてそののどぼとけに向かって、杭を打ち込まなければならない。そうしないと儀式は完成しないんだ。だけどあんたに、衰弱しきってもう一歩も自分自身では歩けないあんたに、そんなことが出来る? ――出来ないよね? 出来る?  ――出来ないね」
 吸血鬼はそうやって女の意見を早決めし、そして続けた。「僕はあんたと生きることは出来ないけど、死んでやることは出来る。だいたいから、生きることにお互い倦んでいたんだ。吸血鬼や人魚なんて半端なもの、誰が欲しいって望んだというんだ? だけど僕たちは、そんな中途半端な生にさえ、むりやり意味を見出して、怖がっていた」
 と、吸血鬼は言った。
「死んだら完全にいなくなる。僕のくだらないおもいでたち。初めて見た雪のすばらしさ。菜の花畑に出掛けた夜のこと。路地裏で痩せたねずみの血を啜って生きながらえたこと……ぜんぶくだらないおもいでだった。そんなごみためのようなものを、宝物かなにかのようにして抱きしめて、だらだらと生を延長した。だけどもう、お互いに、そんなものからは卒業しよう。そして灰になるんだよ。うつくしい――物を考えない、ただの灰に」
 灰? とマシリはおもった。
 冗談じゃない。そんなものになるために生まれてきたんじゃない。だいたいから、泡になりたくなかったから、あんなに苦い薬を飲んで、激痛をおして二本足で立てるようになって、人間になったのよ。人間になったつもりだったの。それが気付いたら、吸血鬼? 半端ものから半端ものになる……そんなものになりたかったんじゃない。あたしは、人間になって――
 あたし、生きたかったのよ! 生きて、恋がしたかったの。平凡になって、人間と同じ生活をするわ。それでこどもを産んで、平凡に生きるの。それから好きな人と手を繋いで、いっしょに天国に行くの。私は天国に行くのよ。私は灰になるために生まれてきたわけじゃない。あんたなんかと死ぬために、生まれてきたんじゃない――
「僕はこれでやっと解放される。その決心がついた。君のお陰で……君のお陰で!」
 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ!
 だけどその感情は言葉にも声にもならなかった。なぜなら、マシリは言葉を失う代わりに、二本の足を手に入れていたから。
 紙のように軽い彼女は、簡単に吸血鬼によってベッドから引き摺り出され、引き寄せられた。腰に回った吸血鬼の手は、温んでいて、少し湿っていた。
「ほら、朝日だ!」
 男の手が、部屋の一度も開け放たれたことのないカーテンを開けた。彼女はまぶしさに目を細めた。すきとおるようなあまいにおいを含んだ風が、マシリの頬を擦った。開け放たれた窓から、朝の涼し気な光が、マシリの全身を包み込んだ。
 


「なんだこれ」
 すっかり暗くなった部屋の中は、冷たい空気で充満していた。
 開け放たれた窓の内側で、カーテンがゆっくりと揺れている。外には満月から少し欠けた月が、ぼんやりと薄暗い部屋の中を照らしている。
 屋敷の主人は肌寒い部屋の中へ入って行って、おもわず両手で自身の体を抱きしめた。まったくどういうことだろう。部屋の中を温めもせず、窓を開きっぱなしにしているなんて。いつも女中どもに、この部屋の窓を開けるなとあれほど言い聞かせているのに……
 屋敷の主人は部屋の窓を閉めようとおもって窓辺に近づこうとしたが、障害物に気づいて立ち止まった。そしてその場にかがみこみ、主人はそのやまもりの障害物を、じっと見つめた。
 そこには一山の、ちいさな灰の塊が、うずたかく積もっていた。

 

おわり(2026.01.08)