美しいものは単純で簡単だ:橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(2002)感想

 


 今回はかなり短いぞぉ!(文字数が)
 というわけでタイトルに則って短くいくが、そのまえに橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(2002)の概要ね。

 

人はなぜ、「美しい」ということがわかるのだろうか?自然を見て、人の立ち居振舞いを見て、それをなぜ「美しい」と感じるのだろうか?脳科学発達心理学、美術史学など各種の学問的アプローチはさまざまに試みられるであろう。だが、もっと単純に、人として生きる生活レベルから「審美学」に斬り込むことはできないだろうか?源氏物語はじめ多くの日本の古典文学に、また日本美術に造詣の深い、活字の鉄人による「美」をめぐる人生論。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480059772/

 

 まあいつもながらあいまいな紹介の仕方であるが、とにかく出版社的にはこの本は人生論の一種であると。まあそういう内容の本らしいです。
 で、ひとが「うつくしい」と感じるものには、おおまかにいって三種類ある。


①自分だけが「かっこいい」「かわいい」とおもう利己的なもの
②他人と共有することによって改めて感じられる再認識によるもの
③このめのまえにあるものの状態をもしも自分の身にひきうけることができればどんなにいいかとおもわれるようなもの


 もしかしたら私が読み落としているものもこの本には書かれているかもしれないけど、人が美しいとおもうものって、大体この三種類みたいですね。
 そしてこの文章を短くするために結論を急ぎますが、私はこの三つの体験を、いままでにしてます。


 まず①、自分だけが「かっこいい」「かわいい」とおもう利己的なもの
 他人がとなりにいる。そして、私と同じものを見ている。私はその視界に映ったものを「かっこいい!」と、言う。するととなりにいた他人がいう。「はあ? これのどこがかっこいいの」
 私はこれを“廃墟”でやっている。旅行に出掛けていて、そこで崩れかけて放置されている廃ホテルが目に映った。廃ホテルのまえには大きなゴミ袋がいくつもいくつも並んでいて、そのまま放置されている。それを見て、私はおもった、「うわー、カッコいい!!」その時の私は、かなり興奮していた。そのような「カッコいい」景色に出会えたことに感謝していたし、感動していたし、その放置に至ったところの歴史に思いをはせていたし、そしてその光景すべて(放置されている廃ホテル、摘みあがったゴミ袋の山)を、うつくしいとおもっていた。だけど、「うつくしい!」なんて言葉は私の日常使いの語彙のなかにはなかったので、「かっこいい!」と言ったのだった。でもその私の「かっこいい」という発言を聞いたとなりのひとは、「何がかっこいいの?」と言って大笑いしていた。


 ②他人と共有することによって改めて感じられる再認識によるもの
 まず、再認識ということは、はじめはそんなものを「うつくしい」となんておもっていないのである。そこに存在しているが、ただ存在しているだけのもの。
 この本の中で橋本さんは、それを行った他者の姿を観察している。その他者はそれまで「うつくしい」なんてものは知らなかったに違いないのに、あるきっかけを境にして、「うつくしい」ということが“分かって”しまった。
 で、そのきっかけというものはどういうものかというと、まあその具体的な「できごと」は各々が本書を読むことによって確認してもらうことにして、たとえていうのなら他者からの好意的な働きかけ、つまり、「あなたのこと嫌いじゃないよ」と好意を打ち明けられたり、感じたりした瞬間のあとの、夜明けのコーヒーを飲みながらベランダで朝焼けをひとり見ている、というようなもんであると。
 まあそんな経験は私にはないので(でも、好きな人と一晩を過ごして、その次の日の朝焼けをひとりでじっと見ている、部屋に戻れば自分の好きな人がまだベッドでねむっている、その時の朝焼けのうつくしさ、みたいなもんは、体験しなくてもなんとなく実感としてうつくしいものだと分かるんじゃないかな)、それと似たような経験と言えばそれは、こどもといっしょに見た夕焼けである、と。
 私自身はこどもを持たないので(あー、こどもって言葉恥ずかしい。ちびとかどもこって言いたい。こども=どもこ)、それは親戚の家のちいさな人間のことであるが、私はその日こもりを命じられて、そのちびと夕方の散歩をしていた。
 私は親戚の中で一番の暇人で一番なんのしがらみも持たない人なのでよくこもりを命じられてそれに従っているが、それを続けているせいでちびたちは私のことを嫌いではないとおもっている。そして、わたしもちびたちのことはきらいでないので、ちびたちと散歩するのも嫌いなことではない。
 ちびたちというのは、好意を持っている他人といっしょにいるときに、自分の話をよくする。学校でこういうひとがいるとか、先生にこんなことを言われたとか、どういうものが好きでどういうものが嫌いかとか。私はただその話を聞きながら歩いている。それで、すごいじゃーんとかいいなーとか相槌を打っていると、ちびたちは楽しそうにする。それで、その“楽しそう”が私の中にも伝染して、別にものすごく楽しいことをしているわけでもないのに、こっちも楽しい気分になってくる。
 そういうときに見る夕焼けって、ものすごく、なんだか異常にきれいなのだ。
 ひとりで歩いている時には決して目を向けないものにも、ちびたちはすぐに反応する。落ちているどんぐりとか、道に開いているナゾの穴とかをいちいち気にして、立ち止まるので、私もそれに倣って立ち止まる。そして、ちびたちが持っているどんぐりとか、道に咲いている花とかが、なんか、めっちゃいいな、と感じる。この場合は“かっこいい”のではない。なんだかとっても、“めっちゃ良い”のだ。
 夕焼けというものは基本的には美しいものと決まっているが、それが日常的なものになってしまえば、ただの現象に過ぎない。車に乗っていればただ眩しいだけだし、サングラスを必要とするくらいの“じゃまもの”にも成り下がるが、好意を持っている同士が散歩している夕方の散歩道に明かりを落としているその夕焼けは、とんでもないくらいに美しいものに成り上がってしまう。そういうものなのだ。


 そして最後、③。このめのまえにあるものの状態をもしも自分の身にひきうけることができればどんなにいいかとおもわれるようなもの。
 この③に関しての私の体験は書いても書かなくてもどうでもいいが、でも別に読んで面白いようなエピソードでもないので、割愛。で、橋本さんのばあい、それは小学校入学前に見た、「水仙の芽」だったという。そして橋本さんはそれを目にして、こういうことをおもう。

 

 私はそれ(引用註:水仙の芽)を「美しい」と思い、どういうわけだか唐突に、「これが自分だったらいいな」と思いました。どうしてだか分かりません。それを「きれい」と思うことと、「これが自分だったらいいな」と思うことが、いとも簡単に一つになってしまうのです。(214-215)

 

 ①→②→③の順序によって「うつくしさ」のありさまをこうして見てきたことによって分かるものとは何か。
 「うつくしい」には段階がある。つまり、利己的なうつくしさ(自分だけがかっこいいとおもうもの、自分だけで価値を作れる「美」)、さらに共有することによって増幅する日常の再発見(好きな人と一緒に観る夕焼けは美しい)、そして、他者が持っている「決然とし、完結している状態」を、カオスでしかない自分の半身に引き入れたいと欲する欲求。
 つまり、「うつくしさ」とは、人と人(乃至、モノ、存在)との関係性の中にしか存在できない。だからこそ人間という「関係性」というもののなかで生きている、決して孤独には成り得ない生き物は、他者と他者を結びつけるものとして、「うつくしい」という状態を発見したり、作り出したり、共有したりして、過ごしている、と。
 で、「うつくしいもの」って、それだけで自立しているのである。自立という言葉が適切でないのだとしたら、その「美しさ」を観察しているものどもにとって、「美しい」の所有者というものは、独立しているように、「見える」。
 だからこそ、それと「同一化」したいと願うこころが自立の自の字も存在しない自分に生まれ出づるようなことがあるのは、自分という存在の「孤独」という状態を、「自立」の文字で書き替えたい! という欲求が生じるためだ。醜くて、孤独でしかない僕が見つめる、美しくて、自立しているようなもの。われわれの大半は、美しくも無ければ、たったひとりで完全に自立しているとは言い難い。ただひとりうつくしく生まれ、うつくしく自立している“ようにみえるもの”と同化したいと望むとき、われわれはわれわれのなかに「うつくしい」を引き入れる。しかし、その同化は容易には行われないだろう。だからこそ、われわれはつねに自己とは別の「外部」としての美を求め続ける。そして、その「同化」は達成されないでも良いのだ。だって人間なんて、別にうつくしくなる必要なんてないんだもん。


 というわけで、この本を読み終わった私にとって、「うつくしい」というものは、放置されているものであり、それ一個で独立しているものであり、そして、拾い上げるものだ。
 最後にちょっとかっこいい話をしてしまうが(かっこいい=利己だぞ!)、私が個人的に「あれはうつくしいできごとだったな」という経験をひとつ。
 いまから十二年くらいまえ、上野の動物園に行きたい! とおもってひとりでふらふらと動物園に出掛け、きりんとかかばとかぞうをふらふらと見つめ、「ゴリラが見たい!」とおもってゴリラを見に行ったがその日はゴリラ不在の日で、なんだよーとおもいながらふらふらと動物園を出たら、上野の美術館にダ・ヴィンチが来ているらしい、ということで、私はふらふらと美術館に入って行った。
 ダ・ヴィンチの絵は二三点しかなく、そのほかはダ・ヴィンチと同世代の作家による洗礼者ヨハネ像なんかが飾ってある程度で、まあそんなもんかというような展示内容だった。
 ダ・ヴィンチの絵は、御大層な、あまりにも御大層な金ぴかの額に飾られて、ライトなんかで照らされたりしていて、甚だ厳かな様子だったが、その当時の私には別に何でもどうでもなかった。うつくしいともおもわなかったし、すばらしいともおもわなかった。「御大層だな」とおもっただけだった。
 私は先に進んだ。そして、その御大層な絵から少し離れた場所に、その絵はぽつんと掛かっていた。
 その絵は御大層なダ・ヴィンチの金ぴかな額縁などでは彩られていず、そまつな木枠かなんかのなかで、透明なケースに入れられてもいず、そのままの裸の姿を美術館の空気の中に晒していた。
 それはダ・ヴィンチと同世代の無名の画家(まあ、無名というか、多分ジャン・ジャコモ・カプロッティというひとの絵)の描いた、洗礼者ヨハネ像だった。そして私はその絵のまえで立ち尽くした。良い絵だ。なんだかとっても、ものすごく、きれいで、うつくしくて、幸福な絵だ。
 私はまばらに人の行き交う中で、その絵だけをずっと見ていた。そうやってじっと見ていたら、気付いた。絵が傷ついている。透明なひっかき傷みたいなものが、洗礼者ヨハネの目の下あたりについてしまっている。そして私はおもった、あーあ、ダ・ヴィンチとおんなじ洗礼者ヨハネを描いていて、ダ・ヴィンチの絵は御大層な額とケースに守られて傷一つついていないというのに(そのダ・ヴィンチの絵は洗礼者ヨハネの絵ではなかったが)、この落差は何かね、なんでこっちの絵はこんなに粗雑に扱われなきゃならんのかね、などと。
 そうおもいながらもぼーっとその絵を見続けていると、となりで私と同じ絵を見ていた男女が話しているのが聞こえた。
 その男女は、こんな会話をしていた。
「この絵、目の下あたりに傷がついてるよ」
「本当だ」
「なんか、泣いているみたいだね」


 どうだ、カッコいいだろう。(どうだ明るくなったろう)
 私はそのすべての状況のことを、いまでも「うつくしい」とおもう。美しく飾られたダ・ヴィンチの絵、粗雑に扱われて”泣いているみたいだ“と言われた無名の作家の描いた”洗礼者ヨハネ“の絵。そしてそれをぼんやりと見ているしかない私も、ぜんぶひっくるめて、美しいおもいでだったな、とおもう。
 だから私がこの世で一番美しいとおもうものってこれですね。「咲いてから枯れるまで誰にも見つからずにアルプスの高原で咲いて枯れる花」わー、ロマンチック。(利己、利己)
 つまり、美とは発見であり、放置であり、そしてすでにして存在しているものなのですよ、明智くん♪
 おしまいっ。2025.12.08