見たぜ、2025年11月14日(金)日放送、未解決事件File.07「ベルトラッキ贋作事件~世界をだました希代の詐欺師~」
この特集を見て私がおもったのはひとつ。「贋作」を意図的に作った彼が騙したものとは何だったのか。
番組の概要。
世界のコレクターが買い求め、名だたる美術館が展示していた絵画は偽物だった。
それらの作品を描いたのは、“希代の贋作師”とも称されたドイツ出身のヴォルフガング・ベルトラッキ氏。約40億円の被害が発生した巨額詐欺事件。
しかし、その贋作の一部はいまだ発見されていない。今も世界のどこかで展示され、あるいは売買されている可能性があるというのだ。「未解決事件」がその行方に迫る。(https://www.nhk.jp/g/ts/57615R8KYY/blog/bl/pB78PQRjnA/bp/p8Aa6nnjV8/)
ベルトラッキという人がどんな贋作を主にしてやっていたのかというと、過去に描かれ存在したはずではあるが今現在は行方不明になっている、所在不明の絵というのを専門にしていたそうだ。
たとえば、カンペンドンクという画家が1919年に描いたとされる『少女と白鳥』という絵。大きさ、所在はわからず、写真もない。そこで、ベルトラッキという人は、こう考える。
そこで私は思ったんだ
「よし いい”空白”だ。やってみよう」
(※以下引用は番組の内容に依る)
過去に確かに存在していたはずだが、今現在を生きる人々が誰も知らない絵。そんな絵を、本当の画家の現存する絵のタッチを模倣して”想像”し、”創造”する。完成した絵には自分の名前ではなく、その画家本人のサインを書く。そして、それを”所在不明の絵を新発見した”という体で、売りさばく。その結果、被害総額は何十億円にものぼったらしい。
彼(引用註:カンペンドンク)が過ごした町で しばらく暮らし
住んでいた家にも行った
彼が見ていたものを想像するために私が描くのはコピーではない
新しい絵を生み出すんだ
では、なぜ多くの人々がその”贋作”を”本物”だと信じたのか。
彼らの作戦は以下のようなものだった。実在するある画商から、ベルトラッキというひとの妻の祖父が、貴重なコレクションを譲り受けていたという物語を作り、更にその画商の顔を模したラベルを絵の裏側に貼りつける。そのラベルにはドイツ語で「コレクション」の文字を入れておく。そして、そのように作られた贋作を、クリスティーズ(競売会社)はあっさりと信じてしまった。あまり知られていない画家の作品だったために、鑑定家たちも真贋の判断が難しかった、らしい。
そして、日本の美術館でも複数の被害に遭ってしまった、と。前述したカンペンドンクの『少女と白鳥』は、”新発見”と解釈されて、日本の某美術館が購入を決断し、その絵は美術館に展示され続けた。
ベルトラッキというひとは、そして映像で自慢気にこう言っている。
1980年代の終わり
日本人の熱狂ぶりは異様で 絵画を買いあさっていた
私にはパリにディーラーがいて
私が描いた贋作のほとんどを日本人に売っていたんだ
そしてまた別の日本の美術館でも、ベルトラッキという人の描いた贋作が見つかった。
キスリングの、『モンパルナスのキキ』という作品。
番組のなかで、ギャラリーの担当者が、ベルトラッキという人とビデオ通話をする。
ベルトラッキというひとは、その通話で、こんなことを言う。
贋作だと分かってがっかりされているのは分かります
でも気にすることはないですよ
何十年もの間 名だたる鑑定士が 私の絵を本物だと信じていたわけですから(中略)
私にとっては その作品(引用註:贋作の『モンパルナスのキキ』)は
今もキスリングの作品なのです
だって私が彼になりきって
描いたのですから
本来の画家よりも遥かに価値が高いんですよ
私の贋作には100万ユーロ以上の値がつくものだってあるんですから
ベルトラッキという人の父親は、売れない絵描きだった。彼の父親の絵は買い叩かれ、画家として大成することはなかったという。そして、ベルトラッキという人は言う。
美術における本物とは 画家の名前によってつくられるものではありません
絵を買うのは教会に通うのに似ている
信じるか どうかだ
絵画コレクターはそのコレクションの中にたとえ贋作が含まれているという事実があったとしても、その事実を認めたがらない。なぜかというと、贋作をひとつでも集めたと他人に知られれば、コレクション全体が”汚染”されていると思われるかもしれないから。だから、コレクションの中の絵が「贋絵」だと判明しても、それを認めたがらない持ち主も多くいるという。
結局、ベルトラッキの起こした贋作事件の被害総額は甚大なものになったが、そのほとんどが罪になるようなことはなく(発覚が遅く、犯行からすでに十年が経ち時効が成立していたらしい)、罪に問われたのは膨大な贋作の中から14点のみが対象となっただけで、懲役六年(実際は約三年)が課せられただけだった。しかし彼自身はなんら贋作行為に罪を感じていないらしく、地元では講演会に呼ばれるほどの人気者らしい。
というわけで、概要の説明は終わり。(こんなに内容を書いちゃったらだめなのかな? だめだったら消すよ)
で、ここからが今回の主題。「ベルトラッキというひとは誰の何を騙していたのか」
まともに考えれば、社会的信頼とか、道徳とか、そのもの絵画の価値詐称であったりするだろう。
贋金を作ることが他の人間を欺くことだとすれば、贋絵を作ることもまた、他の人間を欺くことに等しい。
だが、果たしてそうだろうか。
私が一番衝撃を受けたのは、番組最後に流れた複数の「比較画像」だった。
そこには、本物の画家の描いた絵と、ベルトラッキという人の作った贋作の絵が並べられていた。
その絵の対比が、あんまりにも鮮やかなのだ。
ベルトラッキという人の描いた絵は、本物の画家の絵とは似ても似つかない。というよりも、ひどすぎる。
ベルトラッキという人の描いた絵のみを見ていると、「まあこんなもんか」とおもうような絵でも、本物の画家の絵と並べられると、その絵の良し悪しは歴然としている。
彼の描いた絵は、線はぼやけているし、絵の具の塗り方も悪趣味だ。ただ画用紙にべた描きしたようなマチエールに、立体感のない体。
それよりもなによりも、一体何なんだこの色使いは!?
その比較画像を見たひとは、「どうしてこんな悪趣味なものを本物と信じることができたんだろう?」とおもうはずだ。それほどベルトラッキという人の描いた絵は、はっきりいって、ぜんぜん、上手くない。
しかしそれはもちろん、われわれがベルトラッキという人が贋作家と知ってからその比較画像を見ているからである、ともいえる。例えば私が、ベルトラッキなどという人の名前も知らない美術館の学芸員だったとする。そして、ベルトラッキという人の描いた贋絵のみを鑑賞し、更にその絵には確実な権威からのお墨付きがあり、しかもその「新発見」だという絵画を、自身の管轄する美術館に所蔵できるという”名誉”が転がり込んで来たのだとしたら……そこに差し出されている「絵画」に、疑いを差し挟む”必要”が、果たしてあるだろうか。
騙されているのは誰か。
「絵の価値」とは、そもそも何なのか。
われわれはなぜ、美術館に「絵」を観に行くために、わざわざ足を運ぶのか。交通費を支払い、ただカンバスや和紙に描かれただけの色や形の集合体を「観る」ということに価値を見出し、それに対して対価を払うことを不思議ともおもわないのか。
それ自体に、民衆が価値を付与したからだ。
ただ、めのまえに飾られている絵を観るだけのことに、なぜ金を払わなければならないのか。それを行うことが、社会的常道としてまかり通ってきたという過去があるからだ。そして、そのようなことを行うことに、ある一定の人々が価値を見出してきた、からこそ、われわれ現代人はその価値を”価値”として踏襲し、今に至っているのではないか。
しかし、それは一観客としての価値であり、絵の購入者にとっての価値はまた違ってくる。
もちろん、「好きな絵」だからこそその絵を購入する、という購入者も存在して当然ではあるが、しかし現代において、絵画というものは投資目的に売り買いされるものであり、自らの権威の底上げに寄与するものでもありえる。だからこそ、コレクションのなかに”贋作”が混じっているなどということを認めれば、その途端審美眼のなさが世間的に露見し、そのコレクターの”権威”が失墜してしまう。
では、なぜ人は高価だとされる絵画を買い漁るのか。
国としては、有名な画家の絵を所有する一級国だと認められたい。
美術館としては、価値ある絵を所有する権威ある美術館を作りたい。
個人としては、資産として、有名で高価な絵を複数所有する洗練された人間でありたい。
そして、そこにある価値基準はたったひとつだ。「他人が良いと言っているのだから、良いものなのだろう」、「他人が高価なものだと言っているのだから、高価であって当然なのだろう」つまり、自分の判断というものが、まったく奪われてしまっているのだ。
そして、この「自己判断」というものは、購入者だけではなく、なんと創造者にまで及んでいる。もちろんここでの創造者というのはベルトラッキというひとのことで、まあ語るに落ちているのではあるが、ベルトラッキという人は番組のインタビューでしきりに「みんなが素晴らしい絵だと認めてくれた」とか「おれの絵は何百万ユーロの価値がある」とか言う。評価の基準が、「大衆」と「金」なのである。
しかし、この「病魔」は、なにもこの気の毒な贋作者の体のみに巣食っている現象ではない。現代を生きるわれわれ一人ひとりのなかに、確実に巣食っている現象ではないのか。
みんなが評価しているんだから、良いものなのだろう。こんなに値段の張るものなんだから、高価であって当たり前なんだろう。
批判の心を作る前に、めのまえにある状態を飲み込んでしまう。そして、だれかひとりがその違和感に気づいて発言、行動すると、今度は雨後の竹の子のように、「本当は私もそうおもっていた」とか、「実はモヤモヤしていた」とか、言い出す。
何が「騙されて」いたんだ? こんなものは、騙す以前の問題だ。
要するにわれわれにとって、「絵」などというものは、神妙な美術館の神妙な照明の中で、神妙な額縁のなかに飾られて、神妙なキャプションがついていれば、何だって構わないのである。「権威」が「良い」と言っているのだから、それでいいのであって、「みんな」が「良い」としているのだからそれでいいのであって、だからこそお金を払う価値があり、その行為自体に価値を見出すことができるのであり……
まあでも実際に、たとえば私が美術館の絵画購入責任者で、「これ、新発見の絵なんですよ」などと「権威」から言われて、「美術館の権威向上のために絶対買うように」とか上から言われて、それによって自分の地位も向上しますなどということになればもはやそれは「絵画」ではなく「1UPキノコ」(?)みたいなもんだから、絶対取る、ってことになるだろうけど。
「芸術」が「目的」じゃなくて「手段」になったら終わりだけど、だったらもう「芸術」なんてものは終わってるし、もう終わってしまったものだから、騙す騙されるとかの問題じゃないんだよね、結局。
どうやら彼は、自分の描いた絵に満足しているようだ。自らの描いたものが芸術に成りえている、と。
けれど、もしも彼が本当にそんなことを考えているのだとしたら、私は、彼のことを本当に気の毒に感じる。
彼は彼が”贋金づくり”した絵と、そのモデルとなった画家の絵を見比べて、落ち込んだりしないのだろうか。
彼の父親が、どんな気持ちで「売れない絵」を描いていたかは知らない。そして彼の父が、自分の絵に対してどんな評価を持っていたのかも知らない。
だけどベルトラッキというひとは、自分の絵(贋絵)に自信を持っていて、そしてそれを、「本物の作品以上」だと信じている。
しかし、その自信はどこから発生しているのかといえば、それは「他者評価」からだ。
彼はもう少し、自分の絵を自分自身で見つめる時間を作った方がいいと思う。
他人が良いって言ったから、とか、お金になったから、とかじゃなくて。
鰯の頭も信心からというが、やっぱり鰯の頭を信奉したまま死んでいくって、「芸術」を志した意味がないじゃん。
おわり。2025.11.25