注意
これ以下の文章は多分な誇大解釈や個人的意見がふくまれています。そして以下の文章はそれらの文章を「正しさ」として提示するわけではなく「こんなふうにも読めた」というひとつの読み方の種類を提示する以外の何ものでもありません。また、故人についてのいくつかの言及がありますが故人を貶めるために発言するものではありません。
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ところで、洗練(ソフィスティケート)はヤボを嫌う。
つまり、皆まで言わないところに美学がある。そして、「最も言いたいこと」を濁すことによってかえってその「言いたいこと」がよりはっきりと立ち現れることもある、と。
というわけで、ここからのすべてのお話は「ヤボ」です。「それを言っちゃあオシマイよ」であり、「そこを言わないために別の言葉を尽くして説明しているんだけどなあ」という不文律(?)が分からない田舎もん(あるいは、子ども)が、「王様は裸だ!」などといって、一人喜んでいる……というような。
と、いうわけで(二回目)、失恋の話をします。
私は失恋というものはとても良いものだとおもう。ヒューマン・ビーイングという面倒くさい生き物に生まれついてしまったのなら、一回や二回は経験しておいたほうが「ラッキー」なのではないかとおもわれるほどの贅沢な現象であり、そして、他人に対してまっとうな正当性を持ちつつ他者に対して取り組み(つまり一方的な好意の投げつけをしたりしないで)、双方のコミュニケーションの先に待っているものが、関係の継続であろうが解消であろうが、その結果としての感情の揺れを恐れずに他人に向き合ったということは、とても美しいものだとおもう(言うとりますけど……)。
ので、失恋は苦しいかもしれないが、”失恋”という結果に陥ることのできたひとというのは、ヒューマン・ビーイングという生き物としてのある種の美しさを持っている……と。
さてここまでが導入というか逃げ口上というか、前置きですが、ここからの文章は長く続かない。それは、この文章を書いている人が、「ヤボ」を嫌うためである。
人が隠している、あるいは隠そうとしている、表に出すものではないという矜持のもとに発表しているものに対して、「この本に書かれているものの真相とはこういうもの。実は、○○は、××だったんですね」……などという文章というものは悍ましいものでしかない……が、私の手元には、もう既にして橋本治『とうに涅槃を過ぎて』(1984)が存在しているのである。そして、私は既にして、それを読んでしまった。
橋本さんは、この本のあとがきでこういうことを書いている。
本書と沖雅也は、全く関係がない。(前書:277)
が、しかし、このあとがきが載っている本のタイトルとはどんなものであったか?
『とうに涅槃を過ぎて』。
………………
ある時代を経験した人々が「沖雅也」という人名を聞いて思い出すことは様々だろう、が、その様々の中に、ゴシップ的要素が含まれないということは考えにくいことだろう。つまり、「涅槃で待つ」などと。そして、彼のその言葉を受けた相手が最終的に発言した言葉とは、どんなものだったのか。つまり、
「もういいじゃないですか」
この本はそんな本である、おわり。
……としてしまえばもしかすれば「ヤボ」を免れるかもしれないが、もう少し書くことがあるので書きます(できるだけヤボにならないよう気をつけつつ)。
つまりね?
この本の作者は、ある時期において、涅槃を待っていたのである。沖雅也と同じように。しかし涅槃=ニルヴァーナはやってこなかった。
この本のあとがきのタイトルは「とうに涅槃をすぎて」であるが、その前にこんな文言がくっついている。
A BOY FROM NIRVANA――
カナダからの手紙、ですねー(つまんねーぞ)。つまり、ハシモトさんはニルヴァーナからやってきた「永遠の少年」だと。んで、ハシモトさんは更にこういうんですね。
あのね、”永遠の青年”と”永遠の少年”とふたつあるとするのね。そしたらどっちとります?
もちろん”永遠の少年”の方をとるでしょ?(前書:269)
この後、筆者は、その理由として、前者は「大学生程度の知性」、後者は「高校生程度の感性」の言い換えであるから、後者を取るのは当然だとしている。
そんな永遠の少年であったハシモトさんは、ずっと誰かを涅槃で待ってた。でも、そこには誰も来なかった。だから、誰も来ないのに一人でいつまでも待ってても仕方ないから、下界に降りてきた。だから” A BOY FROM NIRVANA. "そして、「涅槃」で待っていた時代はもう終わってしまった。だから、「とうに涅槃をすぎて」。
沖雅也は死んでしまって、いつまでも涅槃で相手を待ってる。でも、待たれている相手は、そんなところに行く気はさらさらない。だから、心無い人からそのことを訊かれると「もういいじゃないですか(そのことはもう終わったんですよ)」って言う。
でも橋本さんは、涅槃から戻って来られた。そしてそれをちゃんと過去にした。だから、「とうに」涅槃をすぎて。
大島弓子の『ダイエット』(1989)では、太っていた女の子が一念発起してダイエットをする。その結果、下駄箱にはラブレターが何通も舞い込み、友人の彼氏には優しく接してもらえるようになる。すると、彼女はおもう、「この男の子が私にやさしくしてくれるのは、私が痩せたから? 私が太っていても優しくしてくれるんだろうか。それを確認するためには、もう一度太らなければならない……」という考え方して、もう一度太ろうとする。
そして彼女は物を食べるとき、宇宙を感じる。そしておもう。ニルヴァーナはまだか。ニルヴァーナはまだか……
しかしそんな苦しいことをしなくても、人は簡単にニルヴァーナに行ける。それはどんな方法かと言うと、誰かに恋をすればいいのである。
『とうに涅槃をすぎて』の作者は恋をしていた。でも、それはかなわなかった。(こんなことはこの本のどこにも書かれてないです、念の為)相手がオヨメに行っちゃったのである。
というわけで、この本の中で、この作者はなんとなく、結婚している人に冷淡である。『とうに涅槃をすぎて』という本は、普通に紹介をすれば、様々な雑誌などに掲載された雑文を集めた雑文集なんですが、この本にはなぜかそれぞれの章にナゾなタイトルが付いている。たとえばこんなふう、
第一章 まずエレベーターに乗りまして
第二章 やはりそこに泊まりましょう
第三章 窓なんか開けたりして
第四章 ジャンプ!
そして作者はこの本のあとがきでわざわざ、「この本は沖雅也とは関係ない」と言っている。言っているがしかし、わざわざあの「橋本さん」がそう発言するということは、少なからずはこの本は、沖雅也に関係があるのであった。だって最後に「ジャンプ!」するんですよ。沖雅也と関係ないにもかかわらず。どういうことだろうね?
で、どーゆーふうに結婚している人、しそうな人に冷淡かというと、「いまだ継続中の世紀末人生相談!」のページで、不倫の末に結婚したが幸せでないという人に、別れちゃったら? と言ったり。付き合っている女が退屈で、だけど結婚をほのめかされるようになってきてプレッシャーを感じるという人に、勿論(傍点)すぐに別れなさい、とか。28歳主婦からの埒もないご相談に、いっそのこと離婚したらいい、とか。
なんていうか、別れなさい! というのは一種お悩み相談の常道で、それはいいんですが(あの野沢那智大先生も、テレホンお悩み相談ではすぐ「別れなさい!」と言っていたそうですが……)、しかし改めて橋本さんは、本書p.212からつづく、「いまだ継続中の世紀末人生相談!」ではことあるごとに離婚しろ離婚しろ言いますね。
そして彼の「ああ嫌だ!」はページ番号が増えるに連れ深刻さを増してくる。
たとえば、月刊プレイボーイに書いた映画評のなかに書かれていることはすごいぞ。
カミさんとしてはひたすら、自分が”妻”という名の特権を確保できればいい訳。だもんだから、その為に一切の自由を弾圧する訳。根本でダンナをバカにしてんの。「しょうがないわねェ、ちょっとだけよ」って言って、物分りのいい素振りだけ見せて、ダンナが更生する機会だけをズーッと待ってんの。
(『作家マゾッホ 愛の日々』評)(前書:252)
西洋の男が日本の女と一緒になった時、どうして彼は幼児性丸出しになるか? それは簡単。西洋の男が、日本における男の威張り方を知らないから。日本では、男がいばる。だから女は尽くす。だから、日本の教養ある女が優しいのは当たり前。当たり前が西洋には存在しない。それは西洋では母と子の関係だから。だから当然、西洋の男は、日本では子供になる。(『恋の浮島』評)(前書:254)
そして私が特に「これ!」とおもった箇所はここ!
よく考えたら、僕ってズーッと、昔から可愛かったんだもん。それだけで来ちゃったから、変人あつかいされてただけなんだもん。
アー損した!
という訳で、ミック・ジャガーは可愛いのでした。おわり。
(『ローリング・ストーンズ』評)(前書:262)
で、きわめつけ。
まァ、当時はねェ、別にサァ、結婚することが即破局だなんて常識はなかった訳よねェ。”転向”だっていう考え方はあったかもしんないけどね。だってサ、俺の友達なんて、結婚式に俺のこと呼んでくんなかったもんね。勿論そいつは男だったけどサ。要するに、恥ずかしかった訳でしょ?(中略)だから私は結婚式に呼んでもらえずにサ、「ヘェーそうかい、そんな凡庸なフツーがいい訳ァねェじゃねェか」とかって、平和な日常にに向かって毒づいてた訳ね。10年前の話だけどサ。
そういう10年前だから、私ァこういう映画(引用注、『赤い影』。平凡な夫婦のささやかではあるけど幸福な生活に、些細なことから不安の影が差して破局へと至るとゆー話)見たら「天罰だァ」くらいのこと言うだろうけどね。でもね、今やね、そんなこと言ったって始まんないもんね。もはや「それは(傍点)」規定の事実だしね。いやならサッサと別れりゃいいのに。
俺のことを捨てるからそういうこと(傍点)になるんだよ。フン、バカ♡(『赤い影』評)(前書:266)
そして結論へゆきます。
まず彼はこの本でエレベーターに乗った。そして、自分の過去書いてきた雑文などを通して、「俺はこういう考え方をする人間である」というのをやった。
次に、彼はエレベーターにのってやってきたそこに「泊まって」、「そういう考え方をするこの俺という人間は、こういう環境に育って、こういう道筋をたどってきた」というのをやった。
そして、その部屋の「窓を開けて」、「こういう環境で育ってきた俺は、こういう物を読んで、それについてこう考えてきた」というのを、やった。
そして第4章。その窓からジャンプ! することによってつまり、彼はドコにやって来たのか?
沖……はジャンプ! することによって涅槃に行ってしまったが、彼は反対に、エレベーターに乗って、「涅槃」に泊まり、その部屋の窓からジャンプ! して、なんと下界にやってきてしまったんである。
そして下界にやってきて、涅槃を過去としようとしている彼は、その下界において、知人の女性からこんなことを言われる。
「あなたってナルシストなのねェ」(前書:275)
で、その言葉を受けて、彼はこのようなことをおもった。
という訳で、私は長い間自分のことを「なるしすとなのかなァ……?」と平仮名で考えていた。考えていたけどそれは勿論違うというのが何故かというと、それは私の理想が高いからだ。「こんなテードの低い自分を愛せるか!」と思って、私は自己嫌悪していたので、(後略)(前書:276)
はいもうわかりましたですね。これでもう終わります。
つまりですね、この本は、失恋から立ち直るにはどォすればいいか? ということが書かれている本なんですよ。それに語弊があるのだとすれば、こう言い直してもいい、「ハシモトオサムはイカにして失恋から立ち直ったか」。
まあ、いいんですが、要は、自尊心の問題である、と。失恋というのは、大げさに言えば、この世で最も愛しい! 理解してほしいし理解したい! とおもっていた唯一の他人に、「あなたの存在は僕にとっては必要がない」と言われることですよ。それはもう世界の終わりのようなものです。だって、唯一とおもっている人に、”唯一”の自分自身を否定されてしまうんですから。それじゃあ、「私」ってなんなの? 唯一の”愛”に値するとおもっていた人から存在を「要らない!」とされてしまった私に、生きている価値なんてあるの?
だから彼は、一度”要らない!”とされてしまった自分自身を、自身で取り戻すための作業をした、と。
”彼”から”僕”は「要らない!」とされてしまったけど、「要らない!」と言われた僕は、こう考える人間で、こういう環境に育ちそしてこういう物を好み、こういう物を嫌ってきた。たった一人の人間に否定されたくらいで、この確固とした自分というものが容易にいなくなるはずがない! その証拠が、この本の中に書かれている「おれ自身」だ。そして「俺自身」というものは、こんなにもはっきりと存在していたじゃないか! という確認が、『とうに……』というちいさな本には詰まっている、わけです……
というわけで、この本を読んだワタシは、こう結論付けたい。
たった一人の他人に否定されたからといって、世界が終わるわけではない。なぜなら、それ以前にもアナタという人は確実に「存在していた」し、その「存在」を揺るぎないものとして確信、確認できる人物は、この世界にたった一人、あなたという一人しかいないからだ!!!
また暑苦しい結論になってしまった。どうして僕はこんなにギャーギャーと一人で興奮しているんだろう? ナゾですが。
そして、最後にもうひとつの謎に答えてお別れです(それにしてもあなたは一体ナニを想定してそういう言い方をするのか?)。
一体なんだって私はこんなにも確固たる自信に満ち満ちているのであろうか? 私は何を一番信じてないといって、自分の魅力というヤツに関しては、全くカケラも信じてない。私の青春の暗さなんて、もう一言で説明できるんだから――
「どうして僕ってこんなにも魅力がないんだろう? ホントだったら僕だって魅力的になれたっていい筈なのに」(中略)
それとは裏腹にヘーキで「だったら僕やんない!」で押し通して来た私というのはなんなのだ?
この件に関してだけはさっぱり分らない。ホントに僕は、今迄一遍だって”分らない”ってことで弱音を吐いたことなんかないのにさァ。ホント、教えてほしいよ、この分裂は一体なんなのかって。(前書:279-80)
お答えします。(ああ、人生相談……)
それはアナタが、”ナゾである”という自分自身の方が、「愛しく感じられる」とおもっているからです。
つまりさあ、失恋しても、自分自身を「この程度の自分ならば愛してやらないでもない」という程度には高く保つ努力をして生きて行こうよってことですよ。
ああなんか、石坂洋次郎の青春小説のオチみたいになっちゃった(読んだことないけど)、すいません。
ついでにいうと、橋本さんの「教えてほしい」はもちろんポーズであって、分かっているのに「分かりたくない!=ナゾのままにしておきたい!」であるからして、この「お答え」自体が全く野暮で、必要のないものです。すいません。
あとめずらしくこの文庫には解説がついています。これも橋本さんの、「自分のことばっか書いちゃったから少しは他人の目も入れておかないとな……」という社会性に依るものかとおもわれるのですが、どうでしょう(知りません)。
おそまつさまでした。
2023.08.01