二十代でエンタメの正解にたどり着いてしまった人のエンターテインメントのかたちの変遷:新井素子と冨樫義博は素晴らしいのはなし

 


 というわけで、いまふたたび新井素子の話をしてしまうが(大好きなので……)、十代、二十代にして「エンターテインメントの何たるか」を知り、提示してしまえた「天才たち」が、そののち、夢見るときを過ぎても(もちろんご本人たちにとっては現実そのものに違いないが)、創作することを止めなかったら、どんなことが起こるか。というのが、今回の主題。そしてすごかったんですよ、冨樫義博HUNTER×HUNTER』38巻と、新井素子『南海ちゃんの新しいお仕事 階段落ち人生』(2022)が。

 少しだけ自分の話をしてしまうが、私は、「AとBの共通点は何か?」という話の進め方が、大好きである。そして、「誰誰は誰誰に似ている」という話が、ものすご~~~…………く、好きなんである。
 学生時代、現代国語の女性教員が、GLAYのTERUに似ていた。なので、私は、友人に、その旨を話した。すると友人は云った。「似てる!」
 ある日、電車を待っているときに、クラスで一番の可愛い女の子が、唐突に、私に、云った。「竹内結子の鼻の穴の形と、内野聖陽の鼻の穴の形って、似てない?」「……………」
 に、似ている…………!!!!

 

 というわけで、私の大好きな新井素子が、誰に似ているかという話なんであるんだけれども、それが今回は橋本治ではなくて、冨樫義博である、と。
 別に彼らに特別な共通点があるともおもえないし、無理やり共通点をねじまげて提出してみたりしても意味はない、とおもう。
 おもうがしかし、双方の十年来の読者であるこの僕は(つまり、それほど長い間ファンを続けているという意味ではないということだ。彼らの活躍の長さを考えると……)、彼らにひとつの共通点を見てしまう。つまり、彼らはとてつもなく異常に、「エンターテイナー」なのである。

 ひとくちにエンターテイナーとしての作家像といってみても、なにも、そのふたりに絞られるということは決してあり得ない。ありえないがしかし、私が、最近になって読んだ彼らの二作品が、どうしても何回考えてみても、「なんでそうなるの?」という「見せ方」をしていて、その「見せ方」が、生粋のエンターテインメントでありつつもどこか「常道」から反れているという仕上がりで、その「常道から外れた場所にいるくせに、滅法面白い」という、彼らの描くエンターテインメントのその先に、私が大変混乱&興奮してしまったというのを、ただ書きたいだけなのである。

 

 さて、それではそれぞれの比較。
 冨樫義博というひとの描く世界を、この世でいちばんに上手に表現しているとおもう一行がある。それが、「王道であり、異端

 これはただ僕の記憶の中にのみに残る一行で、これは何年か前の、『HUNTER×HUNTER』の単行本の腰巻に書かれていたコピーで、誰の言葉なのかとかいうのは分からない(多分編集の方)。分からないがしかし、当時、ハンターの単行本をあつめていた僕などは、「これこそがハンターハンターを言い表す最も適切なアオリ文だ……!」と、おもっていた。

 つまり、「幽白」でいう桑原君いうところの、

 

「ムカつくまんま暴れるだけなら 奴らと変わんねーぜ
 キタネェ奴らにも筋通して勝つからかっこいいんじゃねーか? 大将」

 

 というやつで、Dr.イチガキら「キタネェ」やつらもきちんと(?)住んでいるまさにその世界に、「正義」としての桑原君たち正義の味方が鉄槌を下す、その清濁のなかに、冨樫義博の書かんとするエンターテインメントの神髄、世界観がある…………と。

 

 そして新井素子新井素子のかもしだすエンターテインメントの種類、というか面白さの本質というものを、的確に表現できるほど、私は新井素子のすべてを説明できるわけではない。
 僕が新井さんのファンになってから、まだ日が浅いし(それこそ、彼女のデビューから応援してきたファンの方々から比べれば、僕のなかにある「好き」のきもちなど、全く、海にただよう小枝のようにちいさなものだ)、まだ未読、とりこぼしているものも数作ある。

 であるからして、「これが正解!」という観念は見つけられない、が、僕だけの個人的意見でいえばそれは、彼女の中の「バランス感覚」、これに尽きるんじゃあないだろうか。

 新井さんの書く物語というのは、そして登場人物というのは、地に足がついている。物語の舞台はSFであったり、ファンタジーであったり、荒唐無稽であったり、するが、その世界を生きる登場人物は、そしてそれを見つめ描写する作者の目は、ずっと冷静である。
 あの「冷静な目」があるからこそ、新井素子新井素子足ることができるといっても過言ではなく、たとえばのはなし、あの大名作『・・・・・絶句』(1983)などは、あの時期の新井素子にしか書けないものだ。凡百の作家が、あのような内容を書こうものなら、主人公となった「新井素子」は、どんな目に遭うか? もう、メアリー・スーまっしぐらである。しかし、「新井素子」の描く「新井素子」は、不思議にメアリー・スーたることを皮一枚ですり抜けて、平気な顔をしている。ギリギリ「痛くない」のである(もしかしたら「痛い」のかもしれないが。私が新井素子のファンだから、「痛く見えない」だけなのかもしれないが)。

 ここからは全くの憶測だけど、新井素子には、「こうなりたい」とおもう、理想の新井素子が存在しない。なぜなら、新井素子にとって、現実の新井素子こそが、「あたし」そのものを十全に表し得ているからだ。
「あたしはあたし。それが何か問題でも?」で作りあがっている現実の新井素子は、だから、フィクションの世界で自分自身と世界をデコレーションする必要がない。新井素子は、空想の世界でお姫さまにならなくても、現実の世界できっちりとお姫様しているからである。(いや、本当に)(素子姫はSF界のお姫様、箱入り娘だったんだからあ)

 だから新井素子の書くお話というのは、ファンタジーでありながらも、SFでありながらも、どこか現実的だ。登場人物の行動に飛躍というものがないから、読者は物語の登場人物に素直に寄り添える。ただし、灰汁が強いのは確かだから、「あたし新井素子って、どうしてもだめなのよね」という人には、徹底的に「ダメ」な世界観であろうという想像もつく(しかし、彼女の創作スタンスというものは、「(読者に)面白いとおもってもらえれば、暇つぶしになってもらえれば、それでいい」という、とてもけなげなものだ…………)。

 

 というようなあんばいで(?)、ふたりは、(十代)、二十代、三十代を、それぞれ、エンターテイナーとして駆け抜けた。
 そしておふたり、今年になれば作家生活…………何年目?
 新井さんは1960年うまれ。
 冨樫さんは1966年うまれ。
 新井さんは作家生活47年。(47!?)冨樫さんは画業生活37年…………(さんすうができないから、まちがってたらすいません)

 彼らはそして、なおも「創作」を続けている。そして、その間、彼らはずっとエンターテイナーだった…………
 疲れないのだろうか?

 僕は、また自分の話をしてしまうが、つくづくおもうことがある。それは、「ものすごい大作に出た、創った後の俳優や監督というものは、その後、燃え尽き症候群にならないのだろうか?」ということだ。
 僕は『アシュラ』(原題:아수라)(2016)という映画がものすごく好きで、主演のチョン・ウソンの大迫力の演技に、その映画をみるたびに度肝を抜かれ続けているが、その後の彼が出演した映画を観た際に、「あのすさまじい映画のあとに、よくこういう作品に出れるなあ」と、余計なお世話なことを考えたことがある。
 もちろん俳優といっても「仕事」なのだから、「燃え尽き症候群」などと悠長なこといっているばあいじゃないというのはもちろんだけれども、それでも一般人からしてみると、ものすごいものを作った人々のその後というのはとても不思議で、大作、名作を作ったあとに、またふたたび一から物語を構築していく人々のことを、僕は、すごいなあとおもってみていた。
 そして私が新井さんにそれを感じたのは、もちろんあの名作『チグリスとユーフラテス』(1999)を読んでのことであり、冨樫さんにしてみれば「ハンター」内のいわゆる「蟻編」で、両者ともに、「あれだけの物語をつくったのに、“まだ”それ以上のものを作ろうとしているのか?!」というのに、一読者として、ずっとびっくりしていた。
 そして、その「びっくり」の先、『アシュラ』の先を、新井さんと冨樫さんはつくってしまった。エンターテインメントあたらしい扉を、新井さんは作家生活を四十年以上続けた末、冨樫さんは画業生活を三十年以上続けた末、ひらいてしまったんである。

 ここに、日本の作家が、決して到達し得なかった場所がある!

 太宰治だって、三島由紀夫だって、川端康成だって、途中で死ななければ、たどりついていたかもしれない場所なんですよ。「その扉」を、開けていたかもしれないのです。しかし彼らにはそれが出来なかった。なぜなら、途中退場という道をえらんだから。しかし、それらがたどり着けなかった(たどり着く義務なんかないんだから、別にいいんだけど)そこへふたりはたどり着こうとしている。どういう方法かといえば、生きて、書き続けること。それによって。

 僕がおふたりの作家性についていつも感動するのは、「自分が書く今現在の物語が、どのようであれば、「自分が一番この物語を面白がれるか」というのを、じっくりと考えているように見える、というところである。
 つまりふたりとも、自分自身の中の「面白い」の感情に、とても、忠実なのだ。


 たとえば新井素子新井素子は、いい意味で、ほんとうに変わらない。
 世の中には、というか、文壇? とかいう場所? には、きみょうな因習、風習があって、それというのが、笑っちゃうんであるが、「一般小説」とか、「少女小説」とかいう、例の分類なんである。またもうひとつ笑っちゃうのが、「大衆小説」と「純文学」とかいうので、これの中間に位置するものを、そのもの「中間小説」とか呼んでいた時代も、あったが、「中間小説」自体がつまらなくなったので(当時、植草甚一が、「(最近中間小説が詰まらなくなったがどうしてしまったんだろう」と云っていた)、しだいになくなった。

 そういえば、僕の大好きな大瀧御大がむかし、「音楽のジャンルやラベリングというのは作る側ではなく聴者側にとって便利に使われるもの」という趣旨の発言をしていたが、文壇? でのそういったラベリングは、むしろ作者じしんの方に掛かっていて、「中間小説からの脱皮」だとか、「少女小説からの脱皮」とか、そういった表現をされ、「脱皮」した張本人は、ジャ文学の最高峰とされる「純文学」への仲間入りを果たし、ようやく「男子の本懐を遂げる」のだった。

 

 しかしわれらが新井素子には、そんなことはまったく関係のない話なのである。
 別に他人の生活なのだから、これから新井さんが“いわゆる”純文学と呼ばれるようになったとしても、そこに意味を見出そうとしても、全く構わない。それは本人の自由である。自由であるがしかし、今現在の新井さんは、純文学作家でもなければ大衆作家でもない。新井素子新井素子である。それ以上でも以下でもない。
 それ以上でもそれ以下でもない場所で、新井素子は、ずーっと新井素子だ。
 そして、その四十年以上のキャリアのなかで、新井作品のなかに脈々と流れ続けていたもの。それが、「現実と空想の交差点」。そして、最新作『南海ちゃんの新しいお仕事 階段落ち人生』では、その傾向が如実に、顕著に、これでもかというほど、現れ、読者を圧倒してしまう。つまり、こういうこと、「新井さん、それはいくらなんでも、ミニマル過ぎませんか?」

 

 新井さんは作家生活四十年以上を過ぎ、その壮大な世界観を、ミニマルな方向へと「広げて」行った。
 その、あらすじ。

 

あたし、高井南海は超能力者!今までは階段やらアチコチで転ぶために「粗忽姫」と呼ばれていたけど、実は転ぶことでこの世界の各所にある“空間の亀裂”を修復していたのだ! 多くの人々が意図せずひっかかり、事故の原因となっていた見えない“空間の亀裂”。それを靄として感知できる御曹司の超能力者・板橋さんと組んで、あたしは世界を救うために働きだした! 仕事に恋愛、そして世界を良くしたいと願う女性の生き方──人気作家が描く、ちょっと不思議なSF超能力ストーリー。

 

 引用は(http://www.kadokawaharuki.co.jp/book/detail/detail.php?no=7169)からお借りしました。

 

 超能力ものである。超能力といえばサイキックバトル。手に汗握る展開、それぞれの能力の紹介、そのキャラのおいたち、トラウマ、過去、現在未来…………? しかし超能力者であるはずの新入社員「南海ちゃん」とその上司の「板橋さん」たちが繰り広げる物語の中に、超能力バトルは起こらない。そのかわりに彼らが何をするかというと…………
 歩くのである。
 ひたすら、歩く。
 ひたすら歩いて、町中の『靄』を、「板橋さん」が見つけ、「南海ちゃん」が、ひっぱる。ただそれだけ。そしてその『靄』のなかに壊れたものを置くと、なぜかその壊れ物が直る、ってんで、彼ら超能力者ふたりは、ただひたすら会社の「修復課」に寄せられた壊れ物を直し、そして、町中を歩いてただひたすらに靄を「ひっぱって」壊していく…………
 あなおそろしや、ただそれだけの(まあ、それだけじゃないんだけど、読んでもらえばわかるけど)話なんである!
 SFというのは、とかく物語が壮大になりがちである。宇宙戦争、異星人、人類の危機、暗黒森林理論……そう、あの『三体』の対極にあるSFの北極、それこそが『南海ちゃんの新しいお仕事』なのだ!(???)

 

 新井素子は、どんどんミクロになっていく。
 私が『南海ちゃん』を読んでいてびびったのは、「モノ、物体が物理的法則を無視して完璧に直る」というある種ファンタジックな現象が作中内で起こったばあいの、それを現実として受け止めきれない登場人物の反応である。そして、その「なんで完全に壊れたものが完璧に直ってしまうんだ?」という登場人物の疑問のモノローグ、それだけで、小説の一章が終わってしまったとき、私はほとほと、呆れた。呆れたというか、感心してしまったというか、本当のことを云うと、感動してしまったのである。
 新井素子ってやっぱりすごい。

 私が単純に新井素子の魔法に掛かり続けているだけなのかもしれないが、それにしても、「なんで? どうして?」というちいさな疑問を登場人物が抱き、モノローグとして展開される、というたったそれだけの内容で、どうしてこれほど読者を飽きさせないことが出来るのだろうか。
たとえば、本を読んでいて、その本の中で登場人物が悩みを抱え、それをモノローグとして読者に聞かせているとする。そういうとき、「そんな悩み、どーでもいいよ」と読者がおもえば、そんなシーンは毛ほどの興味も持てない、つまらないものに成り果てるのは当然のことだ。
 しかし、新井素子の文章というのは、そうはいかない。それは、登場人物のどんなちいさな悩み事であったとしても、「ああ、そうだよねえ……なんでかなあ……」と、読者自身も気づいたら、その悩みにまきこまれているのである。
 こうなるとわれわれは、ページをめくる手が止まらなくなり、ささいなことで登場人物といっしょに悩む「モノローグ」と化してしまう。しかし、いざ読み終わってみると、「なんであんな詰まんないことを熱心に読んでいたんだ、あたしは………」と、ふと我に返ってしまうことも、ふしぎではないのである。
 そう、つまり今作での新井さんは、「お家から出て、お家までまた帰って来る」というようなわれわれの普通の「日常」に、ほんのちょっぴりの「すこしふしぎ」を加えて、それをモノローグとともに現在進行形で実況していたのだ!

 日常の道中で起こる「すこしふしぎ」ほど、われわれの好奇心を刺激するものはない。
 たとえばのはなし、職場での「すこしふしぎ」。「あの人、どうしてこういう、ああいう行動をするんだろう?」というふしぎは、われわれのなかにふと浮かぶ「なぜ?」という感情を、快、あるいは不快をもって刺激する。そして、その「なぜ?」の疑問が、どんなにミクロなことであっても、疑問は疑問である。それが職場内の仲間内に共通する「なぜ?」であれば、なおのことである。われわれは、その「疑問」「なぜ?」について、結構、真剣に考えてしまったりする。それがどんなにつまらないことでも。
 そして新井さんは、最新作で、それを「エンターテインメント」にしてしまった。
『南海ちゃん』は、結構分厚めのソフトカバーである。あとがきまでふくめて、459ページ(単行本版)。その分厚い物語の大半は、ミクロミクロミクロ…………なことで埋め尽くされている。そして、そのようなミクロミクロ…………を繋ぎ合わせて、結果として大きなことを語っている。この、語りぶり。大仰な世界観を提示しなくても、大仰な芝居を演出しなくても、大仰な思想を盛り込まなくても、物語というものは、「読者を飽きさせないエンタメ」というものは、創れる、という未知の体験を…………あなたは、これから体験するのですよ!?『南海ちゃんの新しいお仕事 階段落ち人生』を読むことによって!?(……オオゲサですか?)


 さて。

 そして冨樫さんは、新井さんがそうやって「ミクロ」になっていく中で、「マクロ」になっていく。
 冨樫さんは今回の「継承戦編」で、登場人物がものすごく出てくる物語、というのを描きたいそうだ。
 そしてその「夥しい」登場人物と、「夥しい」文字の黒集りの山に、多くの読者は、気絶した。
「気絶なんてしない!」という人は、そういう人で、別にいいが、私は気絶した。文字が多すぎる。コマがちいさすぎる。背景描き込みすぎ。ネームだけ読まされている気分。内容が頭に入ってこないよー。物語が複雑すぎて、何が起こってるのかよくわからない。ああ、「旅団編」が、「ハンター試験編」が、そして『レベルE』や『幽遊白書』が懐かしい…………

 ぜったいに、こんなのは変だ。こんなに文字ばかり読まされるなら、漫画でなくてもいい。ラジオドラマででもやっていればいいんじゃないか。
 冨樫さんはネームの天才だとみんながいうが、本当か? これがネームの天才だとしたら、こんなに読みにくくていいんだろうか。とか。
 いろいろおもいながら最新刊を読んでいたが、旅団の過去編に突入したとたん、「よし、分かった」と、等々力警部(映画の方)になった。
「説明」は「説明」なのだ。

 

 説明しよう(なんだか…………)。
 むかし、バトルマンガには「場外説明」という風習があった(いまのバトルマンガにもあるのかなー)。
 それは、場内(闘技場など)で戦っているふたり以外に、場外に、主人公の仲間(ないし敵)が居て、場内でのバトルの解説をしてくれるのである。つまり、ボクシングとか、プロレスとかを、解説席で観ている解説員の役割を担う係というのがいて、そのキャラクターたちの実況、解説によって、「プロレス」は、「ボクシング」は、生き迫るものとして、僕たち読者のなかに緊張と緩和をもたらしてくれていたのだった。
 そして翻って、「継承戦編」におけるあのちいさなコマとちいさな文字は、すべてそれ、「場外からの解説」なんである。(!!!)

 

 古き日に、桑原くんが、酎が、樹が、レオリオが、その他モブ(群衆)が担ってきてくれたそれを、今度は僕たちのまったくしらない「たくさんの人が出てくる群青劇」のなかのひとりひとりが、担っている。そして、そのひとりひとりのなかに、モノローグまでがある。そう、今回の「継承戦」の特徴は、「群衆のひとりひとり」に過ぎない登場人物の「ひとりひとり」に、感情があり、信条があり目的があり意志があるということ。完全なる「モブ」はひとりもいない。ああ、恐ろしいことに…………われわれが「継承戦」を読むということは、それすなわち、日本のなかの、いや、地球上のひとりひとりすべての生き物に対して、「感情移入」を、迫られているということなのだ…………!!!
 この強大さとは何だろう? わたしたちは、「継承戦」を読むことによって、すべての生き物に感情移入しないでは、「物語を読むことすらできない」(!)

 街中であなたが歩いている、そして、すれ違ったそのすべての人々にたいして、あなたはその心情に寄り添わなくてはいけない。今すれ違ったすべての人…………そしてその人々が、モノローグの吹き出しでもって、心情をあなたに語って来る、そして、読者であるあなたは、そのモノローグの吹き出しにも、いちいち「読む」という動作を行うことによって、”強制的に感情移入しなければならない…………”
 こんな疲れることに、どうしてわれわれが協力しなければならないのだろう? われわれは、「エンターテインメント」を読みに来ているのに! こんな状態を「面白い」とおもうのは、なるほど難しいことかもしれない。“自分の好意の持てる登場人物にだけ感情移入できていたころ”が懐かしい。『幽遊白書』がなつかしい。「ハンター試験」が懐かしい。「旅団編」が懐かしい。幽助が、ゴンが、ヒソカがクロロが懐かしい…………

 しかし、世界は広い。そして、世界は「あなたのため」だけには出来上がっていない。
 世界にはたくさんの「あなた以外の他人」が存在する。そして、「あなた以外の他人」は、「あなた以外」の目的や考え方、スタンスを持っている。そして、“好意だけを持てる登場人物”というのも、世界のほんの少しのものでしかない…………

「継承戦」のぐちゃぐちゃが僕たちに教えてくれるもの、それはやっぱり「世界は広い!」ということだ。そして、「解説員」であるあの黒集りの文字の山々、コマのびっくりするくらいのちいささは、実は、冨樫先生のやさしさであったりするのである(えー――――??)

 だって、考えてもみ玉え。(渡辺温……)

 38巻収録の旅団の過去編を読めば、冨樫さんの描く「ネーム」が、延々と続く文字説明文字説明文字説明文字説明文字説明…………だけでないというのが分かるだろう。そして、使うべき場所では、きちんと大ゴマをつかう「演出」をしているというのが分かる。つまり、文字説明文字説明文字説明…………の頁というのは、戦闘シーンのない解説席のようなものだ。その解説席で、解説員は、空白のリング、セルリアンブルーのリングを眺めながら、ずっとおしゃべりしている。そして、そんなシーンが面白いわけがない。ので、縮約する。ちぢめる。できるだけ頁を喰わないように。そして、開いたスペースで、ヒソカが大ゴマを取ったり、クロロが大ゴマを取ったりする余裕を確保する。少年ジャンプに載せるためには、ひとつの物語を、19ページ内で納めないといけない。あの文字説明文字説明文字説明…………の「辛さ」は、だから必要な「辛さ」だ。あれは作劇に失敗しているのではない、冨樫先生の、ただの「親切」なのだ。(信者のざれごとのように聞こえますか?)(ウボォーさん…………)(うるせー)

 たぶん、「19ページの制約」(制約)!を抜け出すことが出来れば、文字説明文字説明文字説明…………という手段も、また別の表現方法としてわれわれのまえに提示されることになっただろう。しかし、「ハンター」の掲載紙はアフタヌーンではなく少年ジャンプ。制約と誓約によって「少年ジャンプで週間連載を19ページ内で行う」という念能力のもとに、冨樫義博少年マンガを描いている。
「自ら制約(ルール)と誓約(覚悟)を課すことによって、持っている念能力の威力や精度を著しく上昇させることができる」とするのなら、これほど適切な掲載条件というものはないだろう。
 冨樫義博は自由詩ではない。俳句なのだ!

 

 世の中には、色々な作家が居る。そして、そのそれぞれが、たぶん、自分の中の、一番に「オモチロイ!」とおもえるようなできごとや、ものごとを、「物語」として、われわれ一般人にお披露目して見せてくれている、とおもう。だけど、ほんとうに時々、「こんなに手を変え品を変え様々な方法でもって僕たちを楽しませようとしてくれているけど、全く面白くない。はたして作者本人は、これが本当に、世の中で今現在、自分自身がもっともおもしろい/興味深い/素晴らしいとおもったからこそ作ったんだろうか?」と、ナゾにおもうような創作物が、たまに、コロコロっと転がっていたりしてしまうようなことが起こる。
 それは単純に、その作品が好みじゃないとか信条に合わないとか、あるだろうがしかし、それでも「詰まらない」ものを「極上のエンターテインメント」の貼り紙をつけて提示されると、なにかへきえきとしたものが体内に蓄積するようになる。別にいいんだけど。

 

 でも、僕たちには、新井素子がいる。冨樫義博がいる。
 物語作家というものを続けるということは、常に、「ほらふき」でなければならないということだ。しかも、ただのほらふきではなく、「地に足の着いたほらふき」で居続けなければならない。そのバランスを保つこと、そして、そのバランスの角度をどのように変えていくか、それによって、どうやって自分の、「地に足をつけながらもほらを吹き続ける姿」に飽きないかということ。若いうちに、「大勢の人々が納得する」エンターテインメントの答えにたどり着いていた二人は、そこから、自分の見つめるエンターテインメントの形を、「自分を飽きさせないための自分の形」を、まだまだ模索し続けている。そして、その生きざまを、ほかならぬ一般ぴぃぷるであるわれわれに、お示しくださっている…………
 ありがとう新井素子、ありがとう冨樫義博、というわけでこれにて講話を終了とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
おわり