水を怖がる男の子と、けんじくんの話:海辺の町

 

 つまり、俺はそこでは息ができないが、”彼”はそこでも息ができるということだ。


 菊池は沿岸沿いに住んでいる。
 俺はその近くの住宅街にある汚いアパートの二階に、両親と一緒に住んでいる。
 菊池の家には、小さい頃一度遊びに行ったことがある。小学生の時、数人の友人といっしょに。彼の家はちいさな一軒家で、遊びに行くと、玄関のあたりまで潮の匂いが香ってきていた。
 潮で錆びついた引き戸が軋んだ音を立てて開く。「お母さんいるの?」リビングを見回しながら、友人の中のひとりが尋ねた。
 菊池は、それぞれ形の違うとうめいなガラスコップに水道から水を入れて、俺たちに振る舞ってくれた。 「いるよ」そして彼は短く答えた。「今はねてるけど」
 世間的なルールとしては一応、『大人のいない状態の家に遊びに入ってはいけない』という決まりがあって、それは責任の所在が取れないからではあろうが、当時の俺たちにはそんなことは知ったこっちゃなく、けれど一応確認は取る必要があるとなんとなく感じていたので、友人はそれで彼に、そう尋ねたに違いなかった。
 彼はそれに答えた。であるからして、この古びた、ちょっと居心地の悪さすら感じる一軒家には、彼らの責任を預かるはずの大人がいる。何かこっちに問題があれば声を掛けられる。声を掛ければ助けてもらえる。たとえば強盗が急に入ってきたりとか。たとえば割れたガラスで肌を傷つけてしまったりとか。

 がちゃん。


「あ」
 友人の一人が、菊池から渡されたグラスコップを取り落した。薄いガラスで出来ていたらしいそれは、床に落ちたら簡単に割れた。がちゃん、というよりも、かしゃん、と表現したほうが適当とおもわれるような、薄く、繊細で、はかない音だった。俺たち四人はしばらくそれを見ていた。それから、コップを割った張本人である友人が、「あー」と情けない声を出した。「血ぃ出た」
 うつろなこえ、というか。心ここにあらず、しかし意識はそちらに払わなければならない。そのような声だった。 「だいじょうぶ?」
 菊池が尋ねる。俺はその横顔を見ていた。菊池の唇は薄い。すごく薄い。はしっことはしっこがきれいに上がっている。ねこみたいな口。「うわ、すげえ」「洗えば?」残りの二人はおもわず席を立ち、怪我をした友人からなぜかキョリを取った。友人の指からはしらしらと鮮血が滴っている。「え、どうしよう」友人の声。その顔が、俺の正面を捉える。「けんじくん。どうしよう」
 その友人が俺を見るんだから仕方がない。俺は立ち上がって、割れたガラス片を踏まないように、彼の近くに寄ると、怪我をした人差し指を立てている手を掴んで、キッチンシンクの方へ引っ張っていった。「痛て、痛て、痛て」
 水道の蛇口をひねり、その水の流れの中に、彼の人差し指を突っ込む。「痛い! 痛い痛い痛い!」友人がじたばたするので、俺は彼の手首を握る力を強めた。きゅ、と蛇口を締め、振り返る。
「ゆうじくん、ばんそうこう、ない?」
 ゆうじくん、菊池遊児くんは、顔を上げて俺を見た。目が合った。俺たちは数秒見つめ合った。彼は皿の上に、欠けたガラス片を集めているところだった。「ばんそうこう?」「知ってる?」「うん、知ってるよ」立ち上がる。一分くらい、彼の姿はリビングから消えた。
 戻ってきたとき、彼は包装されていないはだかの絆創膏を俺に差し出した。俺はそれを無言で受け取った。それは端が黒く汚れていて、ちょっと汚かった。だけど、それをマジマジ眺めて、彼に余計な印象を持たれるのがいやだったから、そのまま受け取って、怪我をした友人の傷口に貼った。「え、これ、だいじょぶかあ?」友人が心配そうに言った。「だいじょうぶだよ」「だってなんか、余計ばいきん入りそう」「入らないよ」「……俺、帰る」
 友人は俺の手を振り切って、スリッパでまだ床に残っているガラス片を踏んでリビングを出ていった。残っていた二人の友人も、ちょっと迷うように視線を走らせたが、結局その友人について出ていってしまった。


 リビングには菊池と俺だけが残された。
 菊池は出入り口のドアを見ていた。テーブルの上に載せられた彼の片腕。手のひらが広げられ、その手の甲には薄く青い静脈が見えた。俺はそれを見ていた。すると、その手の甲がきゅうに見えなくなった。俺は視線を揺らした。彼の体が動き、彼は再びガラス片がぶちまけられたそこへと屈み込んだ。俺は、糸を切られた人形のようにその場にしゃがみ込むと、彼と向かい合ってガラス片を拾った。「いいよ」彼は小さく言った。「あぶないから」「でも」「あとは、掃除機を掛ければいいから」「お母さん、呼んだら?」「……………」彼の動きが止まった。彼の指先には、つまみ上げられた中くらいのガラス片。「お母さん、今いないんだ」彼は言った。「仕事だから。いない」「……………」
 あ、こいつ、嘘ついたんだ、と俺はおもった。
 でも別にどうでもよかった。親が居ようが居まいがどっちだってよかった。俺はそれを意思表示するために何かを話さなければならなかった。「何時に帰ってくるの?」「あ、六時くらい。いつもは」「あ、俺の家のお母さんもそのくらい」「お母さん、どこで働いてるの?」「まるおか商店。知ってる?」「あそこにいるの? へえー」
 へえー、じゃねえよ。 「あっ」
 きゅうに、彼が、手を引っ込めた。ガラスで指を切ったのだ、と俺はおもって、「あ、だいじょうぶ?」と、ちょっと自分でもびっくりするくらい、鋭く言った。「ちがう」
 俯き気味で、彼は少し笑っていた。口角が上がって、きれいだった。引っ込めた手を、もう一方の手でかばうように握り込んでいる。「水が」
「水?」
 彼は消え入りそうな声で言った。「だめなんだ」
「何が」
 彼は言った。「僕、水にさわれないから」
 そういえば、彼は水道からコップに水を注ぐとき、ゴム手袋をしていた。

 

 まあ、そのようなおもいでが、あり。
 多分菊池はそんなことは忘れている。それはおもいでとは呼べないような、断片的な出来事に過ぎない。

    小学六年生の初夏。
   その年は冷夏だった。


 菊池遊児は変な男だ。
 プールの授業に出ない。
 プールの授業のときはいつも見学。見学というよりプールサイドにもいない。だから授業中は別の場所にいるんだろうけどどこにいるか分からない。時々授業中に貧乏ゆすりをしながら、タブレット菓子を隠れて食っている。
 飲料を取らないのもおかしかった。給食の牛乳はいつも残していたし、スープ類なんかも飲んでいるのを見たことがない。でもそれで先生に怒られているところも見たことがない。『家庭の事情』? 昨今の児童生徒各種には、人それぞれの理由がある。
 一度、教室できみょうな行動を取っていたこともある。


 男子生徒が教室内を走っていた。
 その頃、教室では金魚を飼っていた。生徒の一人が、夏祭りの露店で掬ってきたいっぴきの金魚。ちいちゃい金魚鉢にいっぴきだけ、入れられて、それは担任の先生の机の隅に置かれていた。時々女子が水を換えてやっていた。調子乗りの男子生徒が金魚に餌をやりすぎるので、金魚鉢の中は常になんか汚かった。
 その日も二人の女子が金魚鉢の水を換えていた。金魚鉢を両手に抱えた女子生徒。それと、男子生徒がぶつかった。「あっ」
当然、金魚鉢は宙に。がしゃーん。のたうつ金魚。
 その時だった。菊池は、ガガガッ、ととんでもない音を立てて椅子を引いた。 
 その時教室内にいた生徒たちは、金魚鉢が割れたこと、女子と男子がぶつかったこと、金魚が空気を求めてのたうっていること、などについて騒ぎたかったのに、それを菊池がじゃました。
 彼はちょうど廊下側の一番前の席に座っていた。教室の入口付近で男子生徒と女子生徒はぶつかったから、当然その中身はその付近にぶちまけられたことになる。ガッターン。彼が大げさに身を引いて立ち上がったせいで、椅子は派手な音をたてて後ろへ転がった。頭をぶつけて痛がっていた男子生徒と女子生徒が、何事かと彼を見た。教室中は静まり返って、じょうだんでなく金魚が水たまりをはねるピチピチという音だけしか聞こえなかった。
 菊池はゆらりとひとりだけ動いた。で、教室から出ていった。すると、緊張の糸がきゅうに解れたように、教室内の生徒たちは、それぞれが本来するべきであった行動を取り出した。「なんだあいつ」
 掃除用具入れからほうきやちりとりを取り出してガラス片を掃除する女子や、ぶつかった男子にちょっと謝りなよーと言っている女子や、そのまわりでわーわー言っている男子を眺めながら、大田が言った。「なんか怖え」
 俺は黙っていた。
「なんか怖くね? 挙動不審だよね、いつも」
「挙動不審?」
「なんか変だよ」大田は言った。「へんだよ、あいつ」
 彼はそう言いながら、それを特別嫌悪しているわけでも、唾棄すべきものとしているわけでもなさそうだった。ただ、事実がそうだったからそう言った。その程度の関心具合におもわれた。 「主人公感あるよな」俺は言った。
「主人公感!」
 大田は笑った。「分かるかも、それ……なんか敵と戦ってるんじゃね? 見えないところで」「守ってくれているんだなあ……実は、俺たちを」「あー、おれら菊池に守られてたんだ……知らなかった……」
 俺たちはげひんにげらげらと笑った。
 菊池はその日、教室に帰ってこなかった。
 そんな、過去があり。

 

 で、現在。そういう中一の夏。
 その日、菊池は学校を休んだ。
「プリントを」
 だいじな連絡だから。担任は俺に、その日の宿題のプリントと、それから授業参観のお知らせのプリントを寄越した。一番、家が近いから。
 潮の匂いのする沿岸沿い。ガードレールのむこうにどんよりとした海が広がっている。穏やかな波に、夕焼けの色がぱりぱりと張り付き、揺蕩っている。どこかからパープーと気の抜けた豆腐屋の高い音。
 ジー。壊れかけたチャイム。砂の溜まった引き戸のサン。しばしの間。猫の額ほどの玄関前の庭には、まだ取り込まれていない洗濯物と、雨に濡れて赤い塗装のはげた、壊れかけの犬小屋。出入り口の上に、消えかけの名前が黒い文字で書かれているロ……ロ?


 ガロロッロロ。途中で止まり、むりやり引かれた戸の向こうには、女の人。黒い、艶のない髪を一つにくくっている。ところどころに白いものが混じっている。体つきは中肉中背。薄い、肉色としか言えないような、ぴらぴらしたシャツを着ている。不審者を見るような目つきで、確かめるように見つめられる。「…………」

 女の人(多分菊池の母親)は何も言ってくれなかった。だから俺の方から口を開かなければならなかった。「あの。菊池くん。今日休んで。それで、プリント」「……ああ」反応がもらえたので俺はちょっと安心して、顔に愛想笑いを作る。「じゃあ、これ」
 プリントを渡して、すぐに帰るつもりだった。「わざわざ届けに来てくれたの?」
 高い声だった。脳天から突き抜けるような、明るくちょっと金属的な声。
「あの。わざわざというか。近いので」「どこの息子さん?」「飯田です」「飯田、飯田……」おばさんは知り合いの名前を頭の中でさらっているようだった。けれど適当な知り合いはおもいつかなかったらしい。「遊児のおともだち?」「はあ、まあ。そんなふうで」「わざわざ、ありがとうね」「いいえ」「遊児ね……今日はちょっと休んじゃったけど」「はい」「でも、飯田……飯田くんが来てくれたって知ったら、喜ぶよ」「はい」「ちょっと、上がっていかない?」「あ、いいえ」俺は頭を振った。「あんまり遅くなると。遅くなると。その」「ああ、そうだよね」おばさんはいたわりの仕草をした。「それじゃ、また今度。また今度、遊びに来て」「はい。また、今度……」
 俺はその場から逃げるように駆け出した。別に逃げる必要はなかったにもかかわらず。


 翌日、菊池は普通の顔をして登校してきた。
 朝、俺が座っている席の前に、彼が立った。俺は顔を上げた。色素の薄い髪。「昨日」穏やかな声。菊池の声は穏やかな波みたいだ。聞いていると心が落ち着く。その言葉がどんなにくだらなくても、つまらなくても、じっと聞いていたいという気持ちにさせられる。「ありがとう」「え?」「プリント」「あー」俺はなぜか、わざとぶっきらぼうな、なげやりっぽい声で言った。あ? 何その話。どうでもいいんですけど。ま、俺には関係ないね。てゆーか話しかけないでくんない? お友達とおもわれたらいやなので。みたいな。「別に」「寄ってくれたらよかったのに」
 穏やかな声。その言葉通りの意味しか含まない声だ。寄ってほしかったのに、とか、なんで寄ってくれなかったのかとか、そういう、願望とか、恨みとか、そんな色が一切付着しない声。
「だって……」俺はうつむいて、彼のそのまっすぐな視線から逃げた。「だって、めいわくだとおもって」「めいわく?」俺は顔を上げた。彼は、不思議そうな顔をしていた。
「めいわくなわけない」彼の言葉は穏やかで優しい。それは俺のみに浴びせられた言葉だ。俺しか聞いていない。俺のための。
「また、むかしみたいにあそぼうよ」
 冗談じゃねえぜ! 俺はもう小学生じゃないんだ……そんな、小学生のがきみたいに、そこらへん走り回って、遊ぶなんて、ちゃんちゃらおかしくて……。「小学生じゃ……」
 ねえんだからさ。しかし遊ぶと言っても形は様々にある。
 
 まあそのようなことを考えていると菊池は次第に学校に来ないようになる。
 その間にも夏は益々夏らしくなっていく。俺の入った部活は剣道部。暑い。防具が蒸れる。
 休みがちな彼の家には、彼が休むたび、プリント類を届けた。玄関のベルを鳴らしても家の人が出てこないときは、ドア近くに備えられている赤錆びたポストに入れて帰る。「菊池くんにメッセージを」


 二週間、彼が学校に来ないようになったとき、担任の先生が言った。クラスメイトは放課後のホームルームで、各々渡された便箋に彼への手紙を書いた。それをまとめて持っていくのは俺の係。
 セミが鳴いている。俺はガードレールに自転車を凭れさせて、クラスメイトがどんな手紙を書いたのかを勝手に読む。「元気だして下さい」「早く良くなって学校来てね。待ってます」「頑張って下さい」「なにか気になることがあったら電話して。俺の電話番号は……」「体調に気をつけて頑張って!!」など……。
 変な内容の手紙が一枚あった。「あたしのせい? そんなことないと思うけど……。心配しています。早く元気になってね。」
 チャイムを押す。久しぶりに、菊池のお母さんが出てくる。「これ」俺はプリントとクラスメイトの人数分の手紙が入った袋を差し出す。「みんなで。菊池くんに、早く元気になってもらおうと」おばさんが袋を受け取って、その中の手紙を一枚読む。 「菊池くん」俺は言う。「元気そう、ですか?」「ああ」おばさんが手紙から顔を上げる。「そう。ちょっとね。自宅療養というかね。元気なんだけど、ちょっと」「会えない」俺は言う。「です、よね?」
 なんでそんなことを言ったんだろう。別に会いたくなんてなかったし、会う必要だって別になかったのに。「あー」その声には、否定の音が混じっている。困っている。俺が余計なことを言ったから。「あ、別に、いいんです」「悪いよねえ。いつも。プリント届けさせて、なんのお礼もしないで」「そんなことは」「上がって、お茶でも飲んでいってと言いたいけど」「いや、あの、じゃあ俺はこれで」「今日はちょっとだめなのね」「はい、失礼します」「ああ、待って」
 踵を返えそうとした俺を、おばさんが引き止める。「明日。よかったら寄って。遊児も、いつもあなたの話を」
「…………」
 俺は会釈をして、玄関を出る。

 

 次の日、俺は菊池の家に行った。馬鹿正直に。部活は休んだ。ちょっと腹が痛くて……そこまでしてなんで行こうとしたんだろう。多分菊池に会いたかったからだ。
 玄関のチャイムを押す。「飯田くん」おばさんは俺の名前を覚えていてくれた。「ありがとう。来てくれたんだね。忙しいだろうに、いろいろと」「いえ、別に」俺は言った。「暇してますから。ほんとに」
 用意されたスリッパに足を通す。青磁色の、ちょっとくすんだ子供用の小さいスリッパ。車のイラストが中央に描かれている。廊下を歩くと、スリッパの裏にザラザラした感覚が残る。「遊児? 飯田くんが」
 俺はおばさんに席を勧められ、茶の間のちゃぶ台の前に座った。「飯田くんは甘いもの平気?」「あ、はい」「今日、買ってきたの……飯田くんが来てもいいように……遊児はどこ行っちゃったんだろう?」
 茶の間続きのキッチンでは、コンロにヤカンが掛けられ、シュンシュンと音を立てている。
「どこにいるの?」
 茶の間からいなくなるおばさん。ギシギシと廊下の板が軋む音。
「平気なの?」「…………」「やっぱりやめる?」「…………」
 おばさんの声がかすかに聞こえる。話しているのはきっと菊池だろうけど、その声は聞こえない。
「久しぶり」
 久しぶりに見る菊池は以前と別に変わったところはない。ただ、髪の先が濡れている。シャワーでも浴びていたんだろうか?
「どこかへ行こうか」菊池は言った。
「ケーキ用意したのに」おばさんが言った。「うん」と、菊池。「じゃあ、食べてから行こう」
 食べてから出掛けた。

 

「部活」
 ちゃりちゃりと自転車の車輪が音を立てている。水面に反射する夕日。海へ続く坂道。「よかったの?」
 俺は答える。「別に。強制参加じゃないから」「でも、一年だし、抜けるの大変だろう」「別に。毎日じゃないし」「いいのに」菊池の声は乾いている。
「なにが?」
 俺は隣を歩いている菊池を見る。潮風が菊池の髪をばらばらと散らす。色素の薄い茶色っぽい髪の向こうから、菊池の目がちらちらと見える。「来なくても」
 菊池は言う。「無理して」
「無理なんかしてないよ」
「いつも、悪いなって……おもってるんだ」
「学校、来れば?」
「うん」
「来れば、悪いなって、おもわないで済むだろ」
「うん」
「来る気ないだろ」
「うん」
 図星を突かれた、みたいに彼は苦笑する。「でもさ、学校に行かなくても」菊池が歩き出す。襟元がゆるゆるになった、白いTシャツ。縦に白のラインの入った、短いハーフパンツ。はきふるした運動靴。「けんじくんには会える」
「なにそれ気持ち悪」俺はそいつの後ろ姿に向かって吐き捨てる。
「ゲーセン行こうよ。太鼓の達人やりたい。俺、あれ、とくい」
 俺は明るい声で言う菊池の後ろ姿を見ている。それから、小走りになって、その後を追う。

 

 学校行かなくてもけんじくんには会える。俺たちは連絡先を交換する。メッセージ機能と電話くらいしか使いみちのないいろいろ規制の掛けられた子供用の携帯電話。でも連絡くらいは取り合える。別にメッセージを送り合ってまで話す話なんて無いんだけど。でも彼はそれから一切、学校に来なくなってしまったから、時々連絡を取り合う分には重宝だ。
 プリントの類も、毎日持っていくこともなくなり、一週間に一度、金曜日にまとめて持っていくようになる。だいたい行っても留守なので(彼は居ても玄関先には出てこない)、ポストに投函することが多くなる。おばさんが出てきてくれたときは、菊池を誘って外に遊びに行く。遊ぶって言っても、やっぱり、ゲーセン行ったりとか。ファミレスに行ってドリンクバーだけでどうでもいいことだらだら話したりとか。
 でもファミレスでも菊池は変だった。「俺はいいや」
 とりあえずファミレスに入ったらドリンクバーを人数分頼むものだとおもっていた俺は、ちょっと戸惑って彼を見た。「でもなんか頼まないと」「じゃあ、チョコレートパフェ」「そんな高いの?」「俺が払うんだからいいだろ」「そんなあまいもん食うんだ」「いいじゃん」「いいけどさ」
 菊池は、長い長いスプーンで、チョコレート色のチョコレート味の冷たい冷たいアイスクリームを掬って食べた。俺はそれを見てないふりをして見ていた。ごくん、と彼の白い喉が一度動いた。「なんでドリンクバー頼まないの?」俺は訊いた。菊池は長い長いスプーンをパフェの中に突っ込むと、少し笑った。「分からない?」
 分からないから訊いてるんだけど。

 

 俺がようやくその理由を知ったのは夏休みが始まる少し前。
 ポストの前に立ち、いつもどおりプリント類を投函する。コトン、と短い音。
 なんとなく、俺はその錆びた赤いポストを撫でた。ざらざらした感触、指を離すと、その腹に錆び剥げた塗装がくっついた。
 鞄の中から振動。俺は携帯電話を引っ張り出して、着信を確認する。「びっくりした」俺は言った。「今、ちょうど、家の前にいる」『知ってる』菊池は短く答えた。『だから電話した』「なんで」『ちょっとね』「なによ」『なんとなく』「はあ?」俺はちょっとうれしかった。でも迷惑そうな声を出した。「なんだよそれ」『入ってよ』彼は言った。『開いているから』「なにが」『鍵』彼の声は、どことなく膨張して、反響しているようだった。『入って』
 俺は菊池の家を振り仰ぐ。「電話、切るよ」『待って』「なんで」『でもさ』「切るよ」
 鞄に携帯電話を突っ込む。
俺はもう少しためらうべきだったかもしれなかったが、好奇心には勝てず引き戸に手を掛けると、それはするりと動いた。三和土に入り、戸を閉める。すると、磯の香りとともに、なにか生臭いようなにおいが鼻先を掠めた。「菊池?」名前を呼ぶ。誰も何も答えない。家の中はしんと静まり返って、物音一つしない。

 

 その時、ぱしゃん、と水の跳ねるような音がした。玄関から伸びた廊下の向こう。


 ルルルルルル。
 鞄の振動。俺はびっくりして、鞄を三和土に落としそうになる。ジッパーを開け、放り込んであるはずの携帯電話を引っ張り出す。菊池。俺は携帯電話を耳にあてがう。『どうぞ』「は?」
 家の中はとても静かだ。俺の声も発音した何倍も大きく聞こえる。「何、なんで」『ちょっと、出られないんだ』「なにが」『上がって。何のお構いもできませんが』
 意味がわからない。俺は呆然と立ち尽くす。誰もいない? おばさんは……きっと仕事に出ているんだろう。俺は三和土を見下ろす。見覚えのある、運動靴。くたくたにへたれたそれは、靴の踵が踏まれてひしゃげている。それがきちんと揃えて置いてある。三和土に出ているのはそのはきくたびれた運動靴と、おばさんが履くらしいくすんだピンク色のつっかけだけ。「あが……上がれってこと?」『うん』電話口にはまだ菊池らしき人がいて、俺の疑問に答えてくれる。「出てこれないくらい具合悪いの?」『まあ、そんなところ』「じゃあ、俺、今日は」『だめ』菊池は、なぜかきっぱり言った。『上がって』
 なんで……と俺はおもった。正直、ちょっと怖かったし、面倒くさかった。俺をからかって遊んでいるのか? そうだとすれば、そうとう暇なんだろうな。毎日、学校に行くじゃなし、遊びに行くじゃなし、部屋の中にこもって、それは、退屈しても仕方がないだろうな……と、俺は俺自身の脳にそう騙しつけて、ようやく靴を、脱いだ。
 ギシ、足を掛け、体重を掛けると、板敷きが軋んだ音を立てた。俺は自分の履いてきた白い靴下を見下ろした。こういうばあい、勝手にスリッパとか使っていいのかな。使わないほうがいいのかも。でも……。
 俺は靴箱の横にあるスリッパ掛けからスリッパを取って、それに足を滑らせる。パタパタと音を立てて、俺は廊下を歩く。「どこに」俺は携帯電話を耳に当てる。「どこに、いる?」『さあ、どこでしょう』
 遊び。たいくつな彼の遊びに付き合ってあげなくては。
 ギシ。古い家屋の木が軋む音。茶の間。キッチン。庭。二階へ行って菊池の部屋。そのとなりの両親の寝室。誰もいない。一階へ降りる。トイレ。誰もいない。
「……どこ?」
『ここ』
 俺はその引き戸を引く。ピチャン、水が落ちる音。
 菊池は水のたっぷり張った浴槽の中に座っている。ゆらゆらとおとなしく揺れる水面。俺を見上げる菊池。彼はドアを背にして浴槽に浸かっていたので、首だけ振り向く形に。その白い喉に三本の深い線のようなものが走っている。
「けんじくん」
 彼は言った。「おれはもうだめだ」
 俺はちょっと笑った。「なんでだよ?」


 彼は、手に持っていた携帯電話を風呂釜の縁に置いた。ぶつ、と耳に当てていた携帯電話から、電話を切る音が聞こえた。俺は耳元から携帯電話を離し、それを持ったまま腕をだらんと下ろした。「魚なんだ」俺は言った。「だから水の中にいるのか」
「そう」菊池は歌うように同意した。「お湯に浸かったら煮魚になってしまう」
 つまんねーこと言うな、と俺はおもった。


 水の音が立って、彼の指が風呂釜の縁に掛かった。その指先は水をたっぷり吸って不健康に青白かった。「びっくりした?」彼が言う。「した」俺は答えた。「してなさそう。予想通りだったんでしょ」「んなわけない」「そうか」ぱしゃん! と大きな音がした。風呂の奥で、魚のしっぽみたいなものが動いていた。グロテスク、と俺はおもった。「ずっとこうしてないと、きつくなった」彼は自在にその尻尾を動かせるのか、水の中でそれを動かしながら言う。「水の中にいないと……動機と息切れが」「魚だから?」「その、さかなっていうの、やめろよ」彼は俺を振り仰ぐと、ちょっとムッとした声で言った。「食いもんじゃないんだからさ」「じゃあなんていうんだよ」「うーん」彼はうつむく。俺はスリッパのまま、洗い場に入っていく。風呂釜の前にかがみ込む。菊池の顔が近くに見える。俯いている彼が、視線を上げて、俺にちょっと笑いかける。「けんじくんはすごいな」俺も、俺のことがすごいと思っていたから、黙っていた。「なんで、怖がったりしないんだろう」「分からない。現実とおもってないからかもね」「そうか」「だから学校を休んでいたの?」「そう……前まではギリギリへいきだったけど、だめになった」「なんで?」「知りたい?」「別に」「知ってほしい」「言えば?」「言うよ、言う」なぜか彼はそこで笑った。カサカサに乾いた唇。口の奥から覗いた八重歯。


「人魚姫って、しつれんしたら泡になって消えるんだ」
 俺はそれに続く言葉を待っていた。しかし彼はなにも言ってくれなかった。
 意味がわからない、と俺はおもった。


「魚は水がないと生きられない」
「うん」
「でも人間のことを好きになって」
「……………」
「でもその人間はおれのことなんか全然好きじゃなくて」
「……………」
「まあそのようなわけで」
「いや、分かんねえ」俺は言った。「おまえの言ってること、なんにもわからない」
「俺は人間じゃないんだ」彼は言った。
「それは、分かる」
「水に入ってないと、乾燥するんだ」
「なるほど」
「前まではそれがへいきだったけど、へいきにするようにしていたけど、それができなくなった」
「なるほど」
「だからここでこうしている」
「……………」
 俺は言った。「俺に、どうしてほしいの?」
「俺が消えるところを見ていて欲しい」
 彼は言った。

 

 で、ある日の夜。
 なみなみと張られた何百万リットル(?)もの水。塩素が入ってきれいにサッキンされている。こんなところに入ったら、やけどするのでは? と俺は心配になった。「大丈夫大丈夫」彼は答えた。「そんなことになったらやけどする前に溶けちゃうから、大丈夫。俺たちの体は繊細だから」

 まあ実際どうなるか知りませんが。
 彼はリュックいっぱいに五百ミリリットルの水のボトルを入れて、俺と話しながら常にそれを飲んでいた。「ひどいだろ、俺の肌?」彼は指先で頬を擦った。「ほら、こうやってやると皮膚がぼろぼろ溢れる。こんなふうになるなんて、聞いてないもんな」
 誰もいない夏休み前のプール。俺は塀の上を見上げる。「登れるかなあ、これ」「けんじくんが俺の肩に乗って、それで」「セコムとか来たらどうしよう。俺たいほされるかな」「大丈夫、大丈夫」「…………」
 人間じゃないやつはのんきでいいよ。これから消える予定なら心配もなくてなおさらだよな。
 一番最初に、菊池の背負ってきたリュックサックを石塀の向こうに投げ入れる。一時の静寂。「俺は軽いから平気だよ、きっとけんじくんにも持ち上げられる」
 俺はその場で靴を脱ぎ、菊池の薄くて不安定そうな肩に足を掛ける。「ほんとにだいじょうぶ? 倒れないでね、絶対」「大丈夫」ぐ、と腹に力を入れて、俺は石塀に足を掛け、そこからプールサイドに降りる。石塀から顔を出して、菊池の手を引っ張る。ほんとうに、軽石みたいに彼は軽かった。「水分が抜けているから、その分、軽くなるんだねえ」彼はしみじみとした調子で言った。


 水面は穏やかな揺れをたたえている……。俺は月夜に照らされている五十メートルプールを見やった。いつも見慣れたその風景なのに、なんだか別世界に来てしまったみたいだ。「あーなんか変だな」俺は言った。「なんかへんだぞ」
 変だが、ただ変なだけと言い換えても良かった。そのくらい、すべてのことが自然だった。
 変だけどそれは不自然ではない。
 なぜ、菊池が変だったのか。なぜ、水が触れないとか、あの時言われたのか。なぜ、学校を休み続けたのか。今ではそれが全部わかる、彼が人間じゃなくて魚だったからだ。魚だから、水を避け(なんでか知らんが)、魚だから学校を休み、魚だから体があんなに軽かった……。
 それらによって彼の不自然が不自然でなくなる。俺が夜の(といってもまだ夜の七時頃だったけど)学校のプールサイドにいるのも、夜のプールが空の色を吸って深い青に揺れているのも、それらはみんな「変」ではあるが、不自然ではない……。
「けんじくん」
 彼はプールの縁に立っていた。彼の脱いだ服が、足元にぐしゃぐしゃと溜まっている。あれを片付けるのも俺か? と俺はおもった。「見て!」
 ぱしゃん、と軽い音を立てて、菊池が水の中に消えた。
 俺は濡れていない場所を選んで膝を付き、水の奥を見下ろした。もう消えちゃったのかもしれない? 何も言わずに。やっぱり塩素がキツかったんだ。なめくじみたいに、それで水分を完全に抜かれて、泡に。
「ぎゃっ」
 ぬるりと水の奥から飛び出したそれが、俺をプールの中に引きずり込んだ。俺はびっくりして、心臓が止まったかとおもった。けれどそれは心臓の鼓動をちょっぴり速くしただけで、正常に動いていた。俺はプールの底に足をつこうとしたが、それは難しいことだった。俺は、もがき、苦しみ、水の外に絶対に上がろうと、両手で水を掻いた。がぼがぼがと無計画に、口の中から酸素のかたまりが飛び出していく。俺は目を開けた。そこには魚のような、人間のような男がいた。
 月のあかりがプールの中にきらきらと降りている。そのなかにその男は、れいせいな微笑みのようなものをたたえて、おもしろそうに俺のことを見ていた。
 息ができない。もう死ぬのかも。最後の酸素(?)が、むじひに俺の口から流れていった。
 冷たい手だった。それは、冷たい水の中でも、それと分かるくらいに冷たい手だ。顎にそれが当たって、俺はその男を見た。
 そして俺はすべてのことが分かった。あ、これが菊池なんだ、とおもった。菊池は俺を見てきれいに笑った。それはとても美しかった。俺はそれをじっと見つめた。息ができない。でも、そんなことは関係がないみたいに、そんなことは俺の現実などではないかのように、俺は彼を見ていた。俺は少し笑った。すると、菊池も笑い返してくれた。菊池の薄い唇の端から、こまかな空気の泡が、ぽろぽろとこぼれた。
 菊池はその空気を俺に分けてくれた。そのお陰で俺は水の中でも呼吸をすることが出来る。それは、プールを満たす水よりも、彼の青白くて冷たい指先よりも、もっと、ずっと、冷たかった。

 

 水面に顔を出したとき、俺は新鮮な空気をあえぐように求めなくてもよかった。ただ、ばかのように顔を水面に突き出し、揺れる水面を見下ろすだけ。両手に掬って見ると、それは俺の両手の中で、透明に揺れている。その中にまん丸い満月もいっしょになって揺れていた。
 重たい身を上げ、プールサイドに出る。着ていたTシャツとズボンを脱いで、固く絞る。ついでにパンツも。全裸になるとなんとなく万能感がみなぎってきて、誰もいないプールを我が物顔で泳ぎたくなったが、俺は現実至上主義者なので、止めた。泳いでいる途中に万が一人が来ても困るので。
 ある程度水を絞った服を、菊池の持ってきたリュックに入れ、中身を全部取り出した。ペットボトルのなかみは大体空になっていた。俺は、そのなかでまだ開封されていないそれを選んで、キャップをひねり、中身を飲んだ。
 菊池が脱ぎ散らかしたシャツとズボンを履き、俺は石塀の向こうへ降りた。着地に失敗して向こう脛をぶつけた。痛かった。

 

 夏休み明け、菊池が座っていた席は片付けられ、空席になっていた。「菊池くんはお家の都合で」
 俺は机に頬杖をついて、窓の向こうの校庭を眺めながら、あのおばさんも人魚だったのかな、とおもった。  

 

おわり(2021.01.20-01.25)