喫茶店嫌いの記:普通の日記

 

 好きです、喫茶店。(…………)
 はじめから矛盾しているが、これはそういう矛盾の記なので仕方がない。喫茶店は好きだけど嫌いだ。理由は、落ち着かないからである。

 これは、もう、三島のユッキーいうところの『感受性の過剰』というのですべてが説明できてしまう。わたくしの生活(生活と呼べるほどのものでもないが)というもの、そしてその中で感じているものの全てというものは、もうもう、この一言のみで片付けられてしまうほど、単純で、つまらないものなんである。つまり、複雑なものなどなにもない。わたしの感じているものすべてというのは、「感受性の過剰」に過ぎないのであった。

 ところで、私は『ちびまる子ちゃん』が好きである。幼少の砌には宝島社から出ているDVDコレクションを一日中延々と見ているという変態的行為を行い、台詞を覚えているのでそのキャラクターが発言する前に自分でその台詞を言うという最低の行為をして時を過ごしていた。
 『ちびまる子ちゃん』の初期に、『家庭教師がやってきた』というお話がある。まるちゃんの家に二週間、家庭教師がやってきて、お姉ちゃんに勉強を教えることになった、という話なんであるが、その家庭教師がなかなかの曲者で、その人は、まるちゃんの描いたお姫様の絵を見て、絵の感想を言うでもなく、おもむろに「まるこさん、このお姫様の国籍と年齢と名前、できれば両親の名前も教えて下さい」とか言い始める人なんである。子どもの描いた絵なんだから、「じょうずだねえ」とか言っていればいいのに。
 そしてこの人物を称して、キートン山田のこういうナレーションが付く。

 この人は、つまんないことでも命の限り真剣に考えるタイプの人であった。こんな人は勝手に一人で苦悩すればいいのだが、考えまくって煮詰まった疑問を、普通に生きている人に浴びせ掛けるので、嫌われる率が高い。


 そしてそれを見て(聞いて)私はおもった。「俺じゃん……」と……
 流石に私もその家庭教師のように自分の中に生じた疑問をいちいち他人にぶつけるようなことはしないが、それでも頭の中は常に、さまざまなことについての疑問でいっぱいになっていて、たまにその疑問のひとかけら、憤りのひとかけらみたいなものを口に出してしまうと「コイツその程度のことでこんなに怒り狂ってんの?」と、言われないまでも場の雰囲気がそんなかんじになるので、自分のおもっていることをすべて他人に明示するということはしない、が、しかしそのおかげでいつも言いたいことが頭の中に詰まってへんくつなおもいをしている、のではあるが、そういう日常を送り続けていると、次第に、自分の本当に考えていることや、本心というものが分からなくなり、また他人と意見のすり合わせを日常的に行わないために(だってこっちの意見言ったら「はあ?」って顔されんだもん)、しまいには自分の本当に考えていることも分からなくなり、本心も正しさもみんな分からなくなり、このまま行ったらどういうグロテスクな人間が出来上がるかが恐ろしく、進退窮まるようなおもいを続けている、というのが、最近のわたしの『感受性の過剰』の副産物状況なんでありますが。

 普通に生きている人に迷惑をかけたくない、ために、私は自分自身の「感受性の過剰」に、普段は蓋をしている。そして、冒頭に話題は戻る。きっちゃてんという環境は、実は、モロに、私の「感受性の過剰」にギチギチに内包してしまう場所なんでありました。(ベンベン)


 まず、私の中に、イデアとしての喫茶店がある。某芸人いうところの「イデア界のゴールドジム」である。つまり、理想の喫茶店……おちついたレコードが掛かっていて、(いちいち針の上げ下げをしてレコードを変えるのがより好ましい)室内は少し薄暗く、昼間でも間接照明が点いている。通りに面して大きなはめ込みガラスがついていて、カーテンは少し埃を吸っていて重たげで、コーヒーはブレンド一杯450円、ミルクは生クリームが望ましい。客はまばら、テーブル席とカウンター席があり、カウンター席ではお店のマスターと常連のお客さんが、小さな声で話している。分煙されており、タバコが吸いたい方は、別室が用意されている。11:00~20:00までやっていて、流行っているわけではないが、店主は土地持ちなのでそこまで商売にガツガツしていない。先代の奥さんが趣味で始めたお店の延長で、今は息子さん(次男)が継いでいる。

 と、いうような……喫茶店が、あるとして。(ねーーーけど)


 しかし現実の喫茶店では、少しずつそのイデアがずれていく。
 まず、うるさい。店内BGMも、好みに合った曲が掛かることは滅多に無い。
 都会であるのならば、それぞれの店主が趣向を凝らした珠玉の喫茶店が、それこそうなるほど存在するのであろうが、田舎っつーもんは、あなた、こっちのコメダ珈琲なんてね、怖いですよ、店内BGMで地方ラジオ流してんですよ。そんなところで何をどうしてコーヒー飲めというのか。(飲みたい人は飲めばいいです)
 近所のきっちゃてんは雰囲気は良いのではあるがコーヒーが非常に薄く、それにちょっと暗すぎて本も読めない。あと、常連のお客さんが大きな声でずっと話しているし、トイレはものすごいサンポール臭がする。

    かといってわたし以外に誰もいないきっちゃてん、となるとこれは静かは静かなんだけれどもどうも落ち着かない。店員さんに「こいつ早く出ていけよ」とおもわれているだろうなという自意識過剰でめのまえの本にも集中できないし、そういうときは静かだけど店員さん同士がお話をしたりしている。やっぱり落ち着かない。
 このまえ行ったきっちゃてんなんて、若いご夫婦でやっているらしいが、多分奥様の方は旦那さんの情熱に押されて渋々やっているというような接客態度で、終始私達に背を向けて、カウンター席でスマートフォンをいじりながらお昼ごはんを食べていた。
 変に意識高い系のきっちゃてんだと、メニューを見せられているときからそのきっちゃてんのコンセプトだのルールだのコーヒーへのこだわりだのを延々と説明されて、はいはいと聞いているとそれだけでもう疲れてしまって、しかも一時間ワンオーダー制とか言われて衝撃(最近はどこもそうなの?)、こだわりを見せられに行っているのだかコーヒーを飲みに行っているのだか分からない。
 コーヒーもおいしいしお店の雰囲気もいいしで好きだなあとおもっていたきっちゃてんは口コミで話題が広がり様々な層のお客さんが増え、団体客の凄まじい笑い声がこだまする場所と化し、子連れのお客さんの子供が床にゲロを吐き、それを店員さんが掃除をし、子供のお母様は逃げるようにその喫茶店を出ていき、異常に愛想の良い店員さんはその後姿に明るく「ありがとうございました」と挨拶をしており接客業の凄みを見せつけられる。
 名曲喫茶と誉れも高いきっちゃてんに行き、雰囲気も良い、立地も良い、音楽も良い、掛かっている絵画のイキフンも最高だ……となり、いざ会計、となったとき、若い店員さんはレジの向こうの休憩室らしき場所でイヤホンをはめて別の音楽を聴いていた。おれはこの喫茶店に音楽を聴くためにはるばるやってきたのに、この方にとって、この喫茶店の音楽は騒音に過ぎないのか……とカルチャーショックを受ける。

 

 とにかく、他人が気になるのである。これはもう性分だから仕方がないのである。そして、やっぱりそのような人間は家に引きこもって、自分で淹れた自分好みのコーヒーをひとりぼっちで楽しむのが一番よろしいのである。

 つまり、私は、おのれの「感受性の過剰」によって喫茶店をうまく楽しめない、と。もちろん二人以上で行けば目的は会話(など)でしょうから、BGMがうるさかろうが客がうるさかろうが二人の世界、三人の世界ができるだろうが、私の目的は会話ではなく、「喫茶店でコーヒーを飲むこと」である、とすればやっぱり、普段空想ばっかりしている孤独な人間は、「うるさい喫茶店」という現実に、耐えられないのである。

 昔、ゲオでDVDのレンタルをしていて、その時流れていたBGMがあんまりにも自分の好みの音楽でなかったために気分が悪くなり、「もうこんなのいやだ」と泣いていたくらい、趣味に合わない音楽を強制的に聞かされるというのが苦手で(まあなんかそれは感受性の過剰というかなんらかのなんらかの可能性もあるが……)有線というものをずっと憎んできて、若い頃はイヤホンが手放せず、その頃読んだ東海林さだお赤瀬川原平の対談集で「なんで若い人ってみんなイヤホンしてんの? 意味分かんない」というような趣旨の発言に怒り狂い、「そっちが聞きたくもない音出し続けてるからだろーーーーこっちは静かにしてんのによーーーうるさいんだよーーー」とほとんどビョーキな反応をしていたくらい、とにかくそういう我儘な生き物は家に引きこもって外に出なければいいんであるが、でもやっぱり、「喫茶店」という状態、存在、意義というのが、わたしはものすごーーーー……く、好きなのです。(あーあ)

 だから、ついうっかり京都の喫茶店ガイドみたいな本も買ってしまうし、東京の名曲喫茶特集とかしている雑誌を見かけたら買ってしまう。そしてそこに写っている写真を眺めるのが、もしかしたら直接そこへ行くよりも好きかもしれません。直接行けば、もしかしたらコーヒーが苦手な味かもしれない。分煙されてないかもしれない。団体客のみなさまの会話がうるさすぎて耐えられないかもしれない。奇妙な音楽だけを掛けづづける有線が引かれていたら? 店員さんが冷たかったら……など。しかし、写真を見ているだけならば、好きな音楽だって掛けられる。誰の会話も聞こえないから静かで居られる。タバコの煙もやってこない。


 寺田寅彦の文章に、こんなのがある。

 併し自分がコーヒーを飲むのは、どうもコーヒーを飲む為にコーヒーを飲むのではないやうに思われる。宅の台所で骨を折つてせいぜいうまく出したコーヒーを、引き散らかした居間の書卓の上で味はうのではどうも何か物足りなくて、コーヒーを飲んだ気になりかねる。矢張り人造でもマーブルか、乳色硝子の卓子の上に銀器が光つてゐて、一輪のカーネーションでも匂つて居て、さうしてビュッフェにも銀とガラスが星空のやうにきらめき、夏なら電扇が頭上に唸り、冬ならストーヴがほのかにほてつて居なければ正常のコーヒーの味は出ないものらしい。コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であつて、それを呼び出す為には矢張り適当な伴奏もしくは前奏が必要であるらしい。銀とクリスタルガラスとの閃光のアルペジオは確かにさういう管弦楽の一部員の役目をつとめるものであらう。(『珈琲哲学序説』)

 


 こういうきっちゃてん……どこかにありますか? 泣

 
 というわけで今日も私は空想の喫茶店の「カランコロンカラン」のドアベルの音を鳴らして、その喫茶店に入ってコーヒーを飲み、大きな窓から往来を眺めることにします。
 金がかからなくていいですね。(貧乏人END)