他人のラブレターへの返信を読んでもいいのか? 問題とどーしてもプライベートをパブリックにしてしまう橋本治:『'89』感想

 おもえば(いや、陳者……)、天下の聖子・松田が一番ノッてない曲は何であったか。「なんか怠そうに歌ってるなあ(※個人の感想です)」という感想を抱くのはこれまた天下のイーチ・オータキ大先生書くところの『四月のラブレター』ではないか? とおもう。もちろんのこと、「今までに厳しかった人はだれかというと第三位が大瀧詠一さんで第二位が大瀧詠一さんで第一位が大瀧詠一さんです」と歌唱者本人に言われてしまうのだから、彼女のあの曲におけるダウナーな歌い方も、大先生の楽曲に対するその厳しさ、理想の高さの具現化した結果であるところの「ダウナー」なんであろうが、それはともかくとして橋本治'89』(1990)である。そして今回問題となるのは松本・大瀧御大創造したところの『四月のラブレター』ではなく、名もない青年の書いたところの『十二月のラブレター』が、問題になってくる、と。

 

 さて。
 この書、橋本治'89』。一ヶ月でこの原稿1000枚を書いた豪語する、この作者のこの大著を総括できる人間が、果たしてこの世に存在するのだろーか?
 たとえば、ハシモトはこの本の中でこう言っている。

『(俺はこんな本、フツーの人の書評なんかで取り上げてもらいたくないもんねー♪)』(前書:401)

 なので僕も、この文章によってこの本を書評しようとか総括してやろうという気持ちは微塵もないが(フツーの人だから)、それでも『'89』は良い本だ。どういうふうに良い本なのかというと、『'89』は、橋本さん本人言うところによれば、『これから先、政治家になろうとする人間がいるんだったら、ここに書いてあることを全部分かって、その上で”自分が何をするべきか”がはっきりと分かっている人間じゃなきゃいやだ! ということを要求する本(前書:428)』ということになるので、「そういうことをしたい」とおもっている人がいれば、この本を読めばよろしいかんじになるのである。そういう本である。
 終わり。

 

 以下余談。
 そして、「で、」なのである。
 それではこれ以下の余談で、私は何を書きたいのか?
 この本は、あるキッカケによって爆発的に生まれてしまった「日本の1989年とは何だったのか」という本である。

'89』は、「日本の1989年の総括」という、万人に開かれた内容であるにも関わらず(オジサンたちの89、オバサンたちの89、男の子たちの89、女の子たちの89、……とパブリックに開かれていた各章を経て)、最終的には「きみだけに贈るつもりの89」として閉じていく。そしてエピローグではなんと、この大著を書くキッカケとなった、橋本治の元に届いた一通のファンレター(住所、名前も無記名、消印で茅ヶ崎から送られてきたと分かるだけの)に対する返信、つまり行き先のないラブレターの公開で幕を閉じてしまうという離れ業が展開される。そして僕はこのブログで、「僕たち(パブリックでしかない読者)に、そんなプライベートなもん見せていいんですか?」という戸惑いについて、書きたいというだけなんである。

 

 しかし……

 なぜハシモトはすぐに、パブリックとプライベートをごちゃごちゃにしてしまうんだろう? 
 橋本の元に届いた、19才の男の子の一通のその手紙をキッカケにして、彼は1000枚の、そのラブレターへの返信を書いた。なぜかというと、その手紙には「これを読んでいる先生がなにか思ってくれて、何かの足しになれば僕はいいんです」って書いてあって、「先生って、どこ住んでるの?」って言われて、言われてハシモトは、「おーッ」っておもって、「俺ってこんなすごい子にこんな風に愛されてるのか」っておもって、「それならおれはすごいんだから、がんばっちゃうぞ」ということで、一ヶ月位で1000枚分の原稿を書いてしまった、と(前書:420)。そしてその手紙の悩みというのが、自分自身の性的指向についてであって、「橋本さんのお嫁さんになりたい…」(前書:404)てことになって、しかしやっぱりその返事を書く住所が書いてなかったら、あなたはどうするか。

 

 橋本は、ゲンコーを一ヶ月掛かって1000枚書くんである。  
 朝の四時頃に家のチャイム鳴らして家宅侵入してくる女のストーカーみたいな交流を望んでこないで、(前書:226あたりに言及があります)手紙の返事すらも望んでいないらしい、謙虚な男の子のために。
 そこへたどり着くだけのために、彼はパブリックに1989年を総括するような内容をばりばり書いて、その最後に彼の手紙への返事を、本来なら書いてあったはずのその手紙の住所に送るだけであった、プライベートな文章の往復であるかたっぽを「1988年の総括(の、総括=エピローグ)」として、パブリックに提示して見せてしまう。
 このアクロバットな愛情って何なんだろう?
 それでその手紙の中で、彼は言うわけなんである。

 

『きみは「橋本先生だってやっぱり男は男らしい方がいいと思ってるでしょ?」って言うけどさ、でも俺が「そうだ」って言ったら、きみは困るだろ?(前書:418)』

 

 ラブレターの内容を引用しちゃって申し訳ないんですが、でもこのくだりを読んだとき、私は、ああそういうことかとおもいましたですよ。そして橋本さんはこれ以前の文章でこうも書いています。

 

『返事書こうと思ったんだけど、書けないの。住所も名前もないから、それではっきり分かった。これは、自分の存在だけは十分に承知したけど、でも「存在を許してもらえない」という、そういう種類の問題だって。(中略)』
「僕は存在する。でも僕は存在のしようがない。どうしたらいいですか?」ってことだもの。「存在するのに存在しないことになっているもの」というのは、やっぱり誰かが「存在させる!」って言うしかないんでね。私がやります。そのために一千枚の原稿があるんだから。とんでもない力のいる作業だけど、でも、「他人のため」なら、それぐらいできる。
 だからやったでしょ?
 1989年の地球が丸ごと、未来もつけて、ここにはあるもの』(前書:405)

 そして極めつけ、

『(俺は、自分がもらった大事なラブレターを人に見せて回るようなバカじゃないから心配すんな)』(前書:405)

 

 好きな人に対しては”言葉が変わる”、それが恋だ!
 これを読んだときにですね、好きな人って、自分の中のイデアであるもの(に近い存在)だから、それに対して自身はどうしても弱くなってしまうってことなんだ、と、私なんかはいたく感動したんでございますね。

 たとえば、三島由紀夫が言っていたのは、「とにかくそこに人がいる、「彼は〇〇した」というその一行を書くだけでくたびれちゃう。とにかく「彼」という人間がいるのかということがまず問題だ」ということらしいですが(中村光夫との対談『対談・人間と文学』)、橋本は、「存在しているけどそれを許されない」とおもっている男の子のために、「あなたはこんなに”存在していた”じゃないか!」という例をたくさんあげて、その年そのものを、日本の問題から世界の問題、男の問題から週刊誌的下世話な話題に至るまで、書いて書いて、書き尽くした。


 橋本治'89』という書は、「1989年ってこれだけ複雑で、これだけ雑然としていたけど、その中にあなたもこうして居たんだよ。だからきみは、”居るんだ”。そうでしょ?」という、一人の、存在を許されないとおもっていた男の子の、存在の確認をわれわれ(読者)に取らせるための地球、場所づくり、「あなたはここに居た」という、存在肯定のための1000枚のラブレターだったんですよ!(愛……)

 

 そして橋本は彼に恋して、だから平気で彼に対して限りなく優しい。「きみは……(前書:448あたり)」の一文にはびっくりしたな、それまでの文章では「〇〇って〇〇だから駄目なんだよね」と断言しまくっていたくせに、「でも、俺がきみのことを〇〇って断言したら嫌だろ?」って、その人のことを慮ってしまう。
 そーかこれが人が人に恋することかっておもいましたですよ。
 そしてこれが極めつけ、「心配すんな(p.405)」ですね。やっぱり、好きな人の前ではカッコつけたいし、かっこいいところを見せたい、って思うのが普通だよ。

 そして橋本さんはそういうことを、「これから政治家になろうとする人に要求するための本」の中で、平気で書いてしまうんですからね。THE YELLOW MONKEY言うところの『僕は君のために宇宙を買ってきた』(『RED LIGHT』)の結果を、1000枚の原稿にして表し、それをパブリックな文章として「一般化」し、それによって「彼」のこともパブリックな人間として「存在させて」しまう。1989年に起こったことなんてことは、ハシモトのようなパブリックを平気でプライベートさせてしまう(つまりインタビュー冒頭でソファに寝っ転がってゴロゴロしながらヘーキでインタビューに回答しているタカハタイサオのような人ですよ、ハシモトさんは)人間にとっては、「存在させるべき人間を存在させるための土壌、舞台装置に過ぎない」ってことなんです。これほどの人間尊崇があらうか? まず環境があって、人間が生まれるという手順では、彼の愛情は表現しきれない。「アイする人がいる。しかしその人には居場所がない。それならば、おれがあなたのために、あなたという存在が生きるに値する宇宙を(『地球が丸ごと(前書:405)』)買ってきてやる」……

 

人間→環境の手順を取ってはじめて、ハシモトの他人への恋は存在を許される……と。
 こんな愛の劇場がありますか。他人への恋で世界を作っちゃう。ハシモトさんっていう人は、とことん「小説家」なんだと実感した一冊でございました。
 終わりです。

 

 

おまけ

 つまり、僕がいちばんはじめに抱いた疑問、「他人のラブレターの返信なんて読んでいいのだろうか?」という不安は、それだから「読んでいい」のだった。

 それは再三言うように、こうして出版物となり人の手に渡りパブリックとしての読者が、まったくの第三者的視線の先において「彼」の存在を確認することで「存在を許されないとおもいこんでいる彼」は、他ならぬわれわれ、読者の目によってその存在の確認を取ることができるのだから。橋本治'89』は、そーゆー1000枚を数えるような個人的な、しかし公的な立場に「存在しなくてはならない」、渡されなかった一通のラブレターだった……それならば『俺はこんな本、フツーの書評……(p401)』ってことにもなるよね。

 そして、「彼」という存在があって『'89』からの未来があるんですから、やっぱりこのラブレターの題名は『'89』で絶対的に正しいのであります。


 この本の中でハシモトは『俺って基本的には、一貫して高村光太郎だもん(前書:402)』というサイコーの告白をしていて(習字して貼っておきたいですね)、それは「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」(『道程』)っていうことだかららしいんだけど、そしてラブレターの〆が、

 

『今の日本で一番頭のいい人が言っていることなんだから、なんにも心配なんかしなくたっていいのさ。「きみの前には道がある」し、「きみの後にも、もう道はある」んだ』(前書:427)

 ………


 というわけでございますから、これが「パブリックな立場にひらかれて書かれたプライベートな文章である」というところから敷衍して、読者も一人ひとりそれぞれが、「俺も高村光太郎だ」してみるのもいいんじゃないかとおもうんですが、「あんたには開いてないよ」って言われるのが「好かれない」ってことだなともおもってみたり……(ジメジメend)
 今度こそ終わりです。